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新しいことをやろうじゃないか。新しいものを作ろうじゃないか。今までやってきたことをなぞるのではなく、過去の栄光にすがるのではなく、皆を驚かすような自分自身が驚くような、そんな未だ見ぬ新しいモノやコトを始めようじゃないか。流行に乗るのではなく流行を作るようでなくてはダメだ。そして、その流行に甘んじてはならない。その次の流行を作る努力をしなくてならない。理解者がいない孤独の中で、ひとりきりの冒険を続けなくてはならない。それができないのなら、何もしないほうがマシだ。同じことを繰り返し語り自分自身の模倣に埋没してはならない。その時点で自分の人生は終わったと覚悟せよ。自分にはもう何もないと自覚せよ。

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旨い飯が食べたくないわけでは決してない。だけれども、その旨い飯がたとえば半年先まで予約で一杯とか、そこまで待たずとも2時間行列に並ばなくてはならないとか、店の中では無駄口厳禁だとか、店主のしきたりにならって食べなきゃならないとか、そういうありとあらゆる食にまつわる制約がある時点で興味を無くす。というかそれはもう自分にとっては旨い飯でもなんでもない。逆にどんなにチープな薄らボンヤリした飯であっても食べたいときに食べたい場所でなら文句なく喜んでいただく。喫茶店のランチというのはそういうものだ。

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都築響一さんがメルマガで「渋谷の新恥部」とレポートしていた『ミヤシタパーク』。行く気も興味もなかったが都築さんの記事を読んで100%鬼門フラッグが立った。不動産デベロッパーがその爛れた脳味噌で更地にならしてその上に文化風ハリボテを並べ、ハリボテヤングを呼び込み、彼らがハリボテ写真をインスタにアップして、恥のクラスターがアウトブレイクするんだろう。恥の上塗りのレイヤーが重なりすぎてもはや恥すら感じない末期的状況。恥ジャンキー、恥のオーバードーズ。恥ずかし過ぎて近づけない。

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新宿三丁目、新宿末廣亭裏の『楽屋』という純喫茶に東京に住むイギリス人の友人と出かけた。テレビで何度か観た記憶があるけど店に入ったことはなかった。「あそこならタバコが吸えるハズ」とイギリス人に教わるという逆転現象だったけど、入ってみたら最高の喫茶店だった。サンキュー、スチュアート。八代目桂文楽、五代目柳家小さん、初代林家三平、古今亭志ん朝、立川談志家元などなど、錚々たる落語界のレジェンドが通った店で、秘密の扉を抜けると寄席の楽屋へ通じているのだから正真正銘の『楽屋』。大勢でワーワー騒ぐ雰囲気ではないがひとりの時はココで決まりなんじゃないか?

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飯田橋の『贊記茶餐廳』。ここは都内でもっとも香港の茶餐廳の雰囲気を感じる食堂で客のほとんどは香港人。本物の香港には当分行けそうもないのでせめて雰囲気だけでも香港旅行気分を味わおうと久しぶりに友人数名でやってきた。普段は大抵ひとりでパッと来てパッと食べてパッと出るパッパッパッスタイルなので、大勢で食べたい料理を何品も頼んで食べ比べできるのは楽しい。それにしてもいつになったら香港を訪れることができるのだろう。そして、それは僕が知っている香港なのだろうか?

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『Pocket』というオンラインのブックマークサービスを結構長いこと使っているんだけれど、気になったウェブページをポチっておけばひとまとめに後から見返すのに便利なサービスだ。週末に一週間分のブックマークを見返すとその週にどんなことに関心を持ったか忘れていた興味の足跡を辿れる。ただ一週間ぐらいならまだその時何が気になっていたのかを思い出せるが、数ヶ月前のブックマークページを見返すともう何を考えていたのか思い出せないこともしばしばで、そうなると自分でポチっておきながら他人の思考の断片を盗み見ているようでそれはそれで面白かったりする。

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アートとイラストレーションの違いについて。人によってその違いは非常に曖昧で明確な線引は難しいなんて人もいるが、これはもう単純明快、明確に違う。白紙の状態から自分の意思で描き始め、自分の意思で描き終わるのがアート。誰かに頼まれて描き始め、その誰かの意図を考慮して描き終わるのがイラストレーション。だから、アーティストが描くイラストレーションもあれば、イラストレーターが描くアートもある。タイトルイメージに使わせてもらっている絵の作者はジャン・フィリップ・デロームというフランス人のアーティスト。彼の絵は世界中の著名な雑誌やメディアで見かけるけれど、彼はいつも好き勝手に描いている。この時の僕は痛風を患っていて片足が腫れて痛くて靴も履けない状態だった。それで片方しか靴を履いていないのだけれど、それを彼が憐れんだのか面白がったのか知らないがいつの間にか描き上げていた。それを僕が自分のイラストレーションとして使わせてもらっているだけで、僕がタイトルイメージ用に彼に発注したわけではない。こんなふうに彼が自由に描いたアートを僕が自分のイラストレーションとして使用するというように同じ一枚の絵に二通りの解釈が生まれることもあるのでややこしいが、結論としては、制作の動機が自分にあるか他者にあるかということがアートとイラストレーションの違いを明確に分けている。

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