ジャニーズ、ワインスタイン……メディアの責任

映画などへの出演に絶大な影響力を持つハリウッドの大御所プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインが長年にわたり、女優らに対して起用・抜擢をちらつかせながらレイプ犯罪を繰り返していたことが明るみに出たのは6年前のことだ。抵抗した性被害者がその後、あからさまに干されるという、おぞましくも理不尽な出来事だった。事件を追求したジャーナリスト、ローナン・ファローの著書「キャッチ・アンド・キル」によれば、ワインスタインは、被害に遭ってトラウマを抱えた女性たちに契約書まで書かせて告発を封じていた。問題を掘り起こそうとするジャーナリストには、所属メディアの首脳らに強烈な圧力をかけ、取材者本人にもマフィアまがいの脅迫を恒常的に行っていた。そんな薄汚いもみ消し工作に呼応していたNBC(米三大ネットワークの一つ)の絶望的な腐りようには驚愕したが、正義感を持って彼らの悪行に立ち向かう人、著者の取材に協力し応援する人が少なからずいたことに救いを感じた。一連の報道は、世界中にいわゆる#MeToo運動を巻き起こし、ワインスタインを禁固23年の実刑へと追い込んだ。

この半年間で大きな進展を見せたジャニー喜多川による性犯罪問題に、ワインスタイン事件との共通項をみる人も多いと思う。華やかなショービジネスに巣くう暗部。ビジネス的な痛手と影響を考慮してか、大手メディアが長く見て見ぬふりをして被害者に二重の苦しみを与えてきた責任は、いずれの事案でも極めて重大だ。ただ、大きな違いは、ジャニー喜多川の被害者がいずれも当時はまだ10代半ばの少年で、逃れることのできない環境に身を置かれていたこと、そしてジャニーズでは、絶対的権力者であった加害者が亡くなるまで、告発が大手メディアに無視され続けてきたことだろう。

ワインスタイン事件の場合、被害者はれっきとした大人の女性である。連れ込まれたホテルから逃れることのできた女性も少なからずいた。ところが、ジャニーズの場合、被害者の多くは自我も確立されていない中学生であり、被害に遭った場所は逃れるすべのない、喜多川の寮の寝室だった。彼らの声なき声をどうにかすくい取ってあげることはできなかったか。喜多川の性癖は関係者の間では公然の秘密であり、週刊文春が告発記事を掲載し、その加害疑惑の一部はすでに事務所が同誌の報道を訴えた民事裁判で真実と認められていたにもかかわらず、大手メディアは沈黙を続けていた。喜多川の死去を受け、4年前に東京ドームで大々的に開かれた「お別れの会」には、ジャニーズOBをはじめ、多くの大物芸能人が参列し、テレビ各社はギネスブックにも記載のある喜多川の「偉大な功績」をたたえていた。喜多川の悪事が世間をどよめかせるようになるには、その後、さらに4年もの歳月が必要だった。今年に入って喜多川の性加害報道に先鞭をつけたのは、海外メディアの英BBC放送だった。日本の大手メディアは最後まで動きが鈍かった。

新聞をはじめとした日本の報道機関は、その日のトップニュース(新聞では1面トップ)に政治や経済の出来事を据えることに慣れている。政治部や経済部、国際部(海外駐在)といった「花形部署」の記者たちが日々、出稿を担っている。中間管理職に過ぎない編集幹部も、そうした記事でその日の紙面を無難に埋めることを歓迎しているかのようだ。ジャニーズをはじめとした芸能界は主に文化部が担当するが、取材対象は映画やテレビ番組、舞台などに関する新しいトピックであり、彼らのスキャンダラスな側面を報じることが恒常的な目的になることはない。

新聞社のもう一つの花形である社会部はというと、重きが置かれているのは、検察や警察などの捜査機関を担当する記者たちの情報である。政治部が政治家や霞が関の官僚から翌日の発表資料を事前に入手して報じるのと同じように、捜査機関が内偵している事件の概要を事前にどこまで入手して、発表までに蓄積できるかを競い、発表の一日前、半日前に他紙に先駆けて報じることができるかどうかに、恐ろしいまでの執念で取り組むのである。

社会部遊軍にいるようなフリーハンドの記者が、仮に「ジャニーズ問題をやってみようぜ」と切り出していたら、どれくらいの同僚がついていっただろうか。そうした自由な発案による長期にわたる取材活動を官僚的な会社組織がどこまで許容しただろうか。地道な証言をかき集めて、最後は喜多川本人にも直当たりして、何本ものキャンペーン報道を続けることができただろうか。やはりそれは難しかったと言わざるを得ない。ジャニーズ事務所が否定し続ける限り、その「大本営発表」を待たずして、報じる勇気があったとは言いがたいのである。

ドラマやバラエティー番組を抱えるNHKや民放各社は、9月7日のジャニーズ事務所の記者会見を受け、未成年者が被害に遭う中でメディアとしての役割を果たしていなかったことなどについて自省する声明を相次いで発表した。新聞もまた、社説などでメディアの責任を語ってはいる。しかし、ジャニー喜多川のケースを特異かつ属人的な問題だなどと片付けてはいないか。政治や経済などに比べれば、さして重要な案件ではないと、今なお軽視してしまっているのではないか。少なくとも「反省」が生かされたような、報道機関内部の意識の変化は、今のところ見えてきてはいない。


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