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NY駐在員報告  「情報スーパーハイウェイ(その1)」 1997年3月

 1993年のクリントン・ゴア政権の誕生と同時に脚光を浴びた「情報スーパーハイウェイ」は、いつの間にか新聞雑誌にあまり登場しなくなってしまった。「NII (National Information Infrastructure) 」も同様である。当時、米国はもちろん、世界中のマスコミを大いに沸かせた「情報スーパーハイウェイ」はどうなってしまったのだろう。今月から、情報スーパーハイウェイの過去、現在、未来について報告する。

 なお、このレポートのいくつかの項は、ワシントン・コア社の報告書「情報ハイウェイからインターネットへ」(97年1月)を基に作成したものである。また、過去の駐在員報告も参考にしているので、過去のレポートと重複する部分があることをお断りしておく。

情報スーパーハイウェイ構想の源流

 周知のとおり、「情報スーパーハイウェイ」構想の推進グループのリーダーは、今の副大統領アルバート・ゴア・ジュニアである。クリントン大統領は、あるスピーチの中で、ゴア副大統領はもう十数年前から「情報スーパーハイウェイ」の必要性を訴えていると述べているが、手持ちの資料の中で証拠になりそうな一番古い記事は89年のものである。当時、テネシー州選出の上院議員であったゴアは「1989年全米高性能コンピュータ技術法案( "National High Performance Computer Technology Act of 1989")」を上院に提出している。この法案は、後のHPCC(High-Performance Computing and Communications)計画、現在のCIC(Computing, Information and Communications)計画につながるものであったのだが、この時は結局廃案になってしまった。この中には、全米をカバーする超高速のコンピュータネットワーク「NREN (National Research and Education Network)」 の構築計画が含まれていた。89年夏、ゴア上院議員は、マスコミのインタビューにこう答えている。「我々はインフラストラクチャーを考え直さなくてはならない。橋や高速道路、水道だけがインフラではない。みんなで共有できる情報スーパーハイウェイ、電子図書館、重要なソフトウェアなどをインフラだと考えるべきである。」

 この時のゴア上院議員の頭の中にあった「情報スーパーハイウェイ」は、その後、マスコミがもてはやした情報スーパーハイウェイとは少し異なる。ゴア上院議員の考えていたそれは、当時のインターネット、特にNSF (National Science Foundation) がサポートしていたNSFNETを発展させたもの、あるいはNSFNETに代わるさらに高度なコンピュータネットワークであった。
 ゴア上院議員の考えに変化が生じたのは、おそらく90年3月かそれより少し後に違いない。というのは90年3月に日本のNTT社が「VI&P構想」を発表しているからである。この構想は、2015年までにすべてのオフィス、工場、家庭を光ファイバー(B-ISDN)で接続し、様々な双方向サービスを提供しようというものである。
 この構想は、日本のマスコミにはあまり取り上げられなかったが、ゴア上院議員の注目するところとなった。ゴア上院議員は、90年9月3日号のコンピュータワールド紙に寄稿した「Superhighway for Computing」と題する小論文の中で、「日本は次の20年間にすべての工場と家庭を大容量のネットワークで接続するという計画を発表している。そしてこのネットワークが完成した頃には、このネットワークが生み出す商品とサービスは日本のGNPの約3分の1に達するだろうという試算をしている」とNTT社のVI&P構想を紹介している。そして、米国の将来にとってスーパーコンピュータ、電子図書館と情報スーパーハイウェイが極めて重要であるにもかかわらず、HPCC計画の承認をためらっているブッシュ政権と共和党を批判している。 さらにゴア上院議員は、91年6月に「2015年までに日本のNTTが構築すると言っているネットワークは、日本を決定的に優位にするだろう。米国における現在の光ファイバーの普及率を考えると、同等のネットワークをつくるのに2040年までかかる」とも述べている。

 NTT社のVI&P計画が情報スーパーハイウェイ構想を生み出した原点だという説を唱えている人がいるが、これは正確ではない。情報スーパーハイウェイの原点はむしろ初期のHPCC計画の中にあり、さらにその源を辿るとNSFNETを中心とした当時のインターネットに行き着く。VI&P計画は、主として教育と研究のための高度なコンピュータネットワークであった初期の情報スーパーハイウェイ構想に大きな影響を及ぼし、インタラクティブTV等を含む大容量で巨大な情報通信・放送ネットワークへと変化させたのである。

HPCC計画の誕生

 情報スーパーハイウェイ構想と深いつながりを持つHPCC計画が公式にスタートしたのは、91年HPC法案(High Performance Computing Act of 1991)が成立した91年12月9日である。しかし、89年9月11日にOSTP(Office of Science and Technology Policy :大統領府科学技術政策局)が発表した「高性能コンピュータ技術プログラム」には、その後のHPCC計画のほとんどをカバーする内容が盛り込まれている。このプログラムには、大統領科学技術担当補佐官であったブロムレイ(D. Allan Bromley)の書簡が添付されているのだが、この書簡によれば、計画立案の歴史は87年11月に、ブロムレイの前任者のグラナム(William R. Granam)が「高性能コンピュータの研究開発戦略」という書簡を議会に送ったことに始まっていることが分かる。この書簡はグラナム個人が書いたものというより、FCCSET (Federal Coordinating Council for Science, Engineering and Technology : 連邦科学工業技術調整委員会)の協力の下に作成されたもので、最先端のスーパーコンピュータのハードウェア、ソフトウェア及びコンピュータ・ネットワークの研究開発とそれらの基礎となる研究を連邦政府の支援の下に5年間実施すべきであると書かれている。つまり、HPCC計画は(その当時どういう名前で呼ばれていたかを問題にしなければ)87年以前から議論されていたことになる。

 この計画立案の母体となったFCCSETは、OSTPが事務局になっており、通常OSTP局長が議長を務め、委員会メンバーはすべて政府高官という委員会であり、連邦政府の科学技術の重要課題への総合的取組みのためにビジョンを作成したり、予算調整を行っている。過去の資料を調べるとFCCSETはかなり古くから高性能コンピュータ技術の技術的、経済的効果について調査を行っている。たとえば、早くも83年には高性能コンピュータ技術の現状と政府援助の可能性評価に関するレポートを発表している。このレポートは、諸外国のコンピュータ技術関連投資は劇的に増加しており、これが米国のコンピュータ産業の優位を脅かしていると指摘し、国家の安全と経済は高性能コンピュータ技術の進展に大きく依存していると、高性能コンピュータ技術の重要性を強調している。
 こうした中で、NSF(National Science Foundation : 全米科学財団)は、85〜86年に全米に5つのスーパーコンピュータセンターを設立し、それらとユーザである国立研究所、大学を結ぶ大規模なコンピュータネットワーク構築に乗り出した。これが有名なNSFNETである。

 一方、議会は86年に、OSTPに対して、米国の高性能コンピュータ技術の研究開発環境を支援する通信ネットワークの重要性について検討するように求め、OSTPはFCCSETの一つの委員会であるCCRA (Committee of Computer Research and Application) の検討事項にコンピュータネットワークを加え、検討を開始した。多くの作業部会が設置され、高性能コンピュータとネットワークについて総合的に検討が行われ、報告書が作成された。これらの成果は「高性能コンピュータ技術の研究開発戦略」、「高性能コンピュータ技術戦略」といった文書としてまとめてOSTPから公表されている。前に触れた議会宛てのグラナムの書簡は、これらの報告書をまとめたものであろうと推察される。

 これらと平行するように、NRC (National Research Council) もいくつかの報告書を発表している。「全米研究ネットワークにむけて(Toward a National Research Network)」(1988)、「コンピュータ科学と技術への挑戦(The National Challenge in Computer Science and Technology)」(1988)、「コンピュータ技術の世界的傾向とその輸出コントロールに与える影響(Global Trends in Computer Technology and Their Impact on Export Control)」(1988)などである。
 こうした経過を経て、OSTPは88年12月にFCCSETのCCRAに対して、正式に「高性能コンピュータ技術プログラム」の実施計画を立案するように指示し、ゴア上院議員などの努力によって91年にHPCC計画がスタートしたのである。

HPCC計画の概要

 12省庁が参加し、年間予算が10億ドル規模であったHPCC計画は、その名前から想像されるように、超高速の科学技術用計算機とそれを利用するためのコンピュータネットワーク技術の研究開発である。だがしかし、それだけの研究開発計画ではない。詳細を見ると、その名前からは想像できないような様々なテーマを含んでいる。たとえば、バーチャルリアリティ、3Dイメージング、自然言語処理、超LSIの設計のトレーニング、インターネット上のハイパーメディアツールとして有名になった最初のブラウザ「モザイク(MOSAIC)」の開発、カオス理論の研究のような応用数理研究、電子図書館のモデルつくり、人間の遺伝子解明を目指すヒューマン・ゲノム・プロジェクトのためのデータバンク構築、ヘルスケアのためのモデルネットワーク開発、商業上のあらゆる情報交換の電子化を対象とする次世代EDI(電子データ交換)の開発などのテーマが含まれている。このHPCC計画の詳細を知るには、「HPCC実行計画(HPCC Implementation Plans)」、概要を知るには、通称「ブルーブック」を見るのが一番良い。これらの資料は現在もインターネット上で公開されている(http://www.hpcc.gov/reports/index.html)。

 ここでは極めて簡単にHPCC計画を紹介する。まず、HPCC計画の目標は次の3点であった。

(1) 高性能計算とコンピュータネットワーク分野における米国の技術的リーダーシップの確立
(2) 上記分野の技術革新の促進を図り、米国の経済、安全、教育及び地球環境に寄与すること
(3) 上記分野の技術を産業に取り入れ、米国の生産性・競争力の向上に寄与すること

 HPCC計画の構成要素(サブ・プログラム)は次の5つである。

(1) HPCS (High-Performance Computing System)
「高性能計算システム(HPCS)」は、スケーラブルな並列計算システムによって、従来型のスーパーコンピュータの限界を超えた計算能力をもつコンピュータを創り出そうというものである。目標は、1秒間に1兆回の演算が可能なシステムである。

(2) NREN (National Research and Education Network)
 「研究・教育ネットワーク(NREN)」の構築は、このHPCC計画の目標であると同時に、他のテーマを成功に導くための鍵となるものと位置付けられている。目標は、高性能コンピュータシステムや研究教育に必要な電子データ、研究設備、電子図書館などにアクセスするためのギガビットクラスの高速コンピュータネットワークをアカデミックな世界に提供することである。

(3) ASTA (Advanced Software Technology and Algorithms)
 「先進ソフトウェアとアルゴリズム(ASTA)」は、ソフトウェア全般とアルゴリズムに関する研究及びネットワーク化された高性能コンピュータシステムで稼働する高性能なアプリケーションソフトウェアのプロトタイプの開発をターゲットとするものである。

(4) IITA (Information Infrastructure Technology and Applications)
 「情報ハイウェイ技術と応用(IITA)」は、HPCC計画がNIIの技術的基盤を提供するものであると位置付けられたことに伴い、94年度から新たに追加されたテーマである。これは、製造設計、医療、教育、環境、エネルギー、商取引等の分野において、HPCCで開発された技術を用いて様々なプロトタイプシステムを開発しようというもので、この中には、バーチャルリアリティ、画像認識、言語及び会話理解、次世代のデータベースシステム、電子図書館、電子取引などが含まれている。
 この研究の目的は、HPCC計画で得られたコンピュータ技術及びネットワーク技術のビジネスや公共的分野での利用を促進しようというものであり、これによってNIIの構築がスムーズに進むと考えられている。

(5) BRHR (Basic Research and Human Resources)
 「基礎研究と人材育成 (BRHR) 」には、基礎研究、教育、訓練、カリキュラム開発などが含まれている。

 このHPCC計画に割り当てられた予算は、92年度が6億5480万ドル、93年度が7億2790万ドル、94年度が9億3790万ドル、95年度が10億3800万ドル、96年度が10億4300万ドルであった。予算額から見てもかなり大規模なR&Dプロジェクトであるが、すべてが新規に獲得された予算ではない。つまり、この予算には既存の予算の看板の掛け替えが含まれている。92年のブルーブックをみると、このHPCC計画に相当する91年度の予算は4億8940万ドルである。
 現在、HPCC計画は、CIC R&D計画に引き継がれているのだが、この話は後述する。

NREN

 最初に述べたように、90年以前の情報スーパーハイウェイのイメージは、当時のインターネットの最大のバックボーンであったNSFNETが発展させたものと考えてよい。それはHPCC計画の中の研究・教育ネットワーク(NREN)に該当する。このNRENのHPCC計画における位置づけを見ていくとおもしろい事実が浮き彫りになる。

 まず、OSTPが89年に発表した「高性能コンピュータ技術プログラム」の表題には、ネットワークや通信という文字は現れない。もちろん、計画の内容を詳細に読めば、後のHPCC計画同様にコンピュータネットワークの研究開発が含まれており、それなりに重点が置かれている。しかし、89年計画の目的を書いた部分に、コンピュータネットワークという文字はあっても、あくまでも主人公はコンピュータであって、「ネットワーク化された高性能コンピュータ技術」という書き方がなされている。

 次にブルーブックを見ると、93年版では4つの構成要素(サブ・プログラム)の中で、NRENは3番目に取り上げられていたのだが、94年版では2番目になり、95年には「II. 計画の成果と計画(Program Accomplishments and Plans)」の章で「ネットワーキング(Networking)」という名称で最初に取り上げられている(96年版でも「高性能通信(High- Performance Communications)」として最初に取り上げられている)。考えすぎかもしれないが、コンピュータネットワークの重要性は研究者レベルでは早くから認識されていたが、政策立案者レベルでその重要性が広く認められるようになったのは、比較的最近なのかもしれない。

 さて、前述のとおり、このNRENの目標は、高性能コンピュータシステムや研究教育に必要な電子データ、研究設備、電子図書館などにアクセスするためのギガビットクラスの高速コンピュータネットワークをアカデミックな世界に提供することである。これは、単に物理的な通信回線を提供することではない。先進的な通信技術の研究開発、ネットワークを有効に利用するためのアプリケーションソフトウェアの研究をも含んでいる。当然のことながら、コンピュータネットワークを構築する際に既存のあるいは市場で開発されるネットワーク技術を無視することはできない。しかし、だからといって市場の技術を用いて高速ネットワークを構築することが目的ではない。市場で開発されていく技術の中にこの計画で開発する先進的な通信技術を織り込んで行くことが重要であるとしている。

 当初、NRENは大きく2つの要素でできていた。省際インターネット(Interagency Internet)とギガビットR&D(Gigabit R&D)である。
 省際インターネットは当初計画では「省際暫定NREN(Interagency Interim NREN) 」と呼ばれていたもので、NSFの運用するNSFNET、DOE (Department of Energy:エネルギー省)のESNET (Energy Science Network) 、NASAのNSI (NASA Science Internet) 等の連邦政府がサポートする研究・教育用のネットワーク全体を指すものである。NSFが省際インターネット関係のコーディネーションを行っていることもあって、NSFNETの発展したネットワークが省際インターネットであると解釈している人もいるが、政府サポートのネットワーク全体を指すものと考えるべきである。また、これらのネットワークはNAPs(Network Access Points)や東海岸と西海岸にあるFIX(Federal Internet eXchange)で相互に接続しているものの、一つのネットワークに統合されてはいない。

 結局、HPCC計画における省際インターネット構築の活動は、既存の研究・教育用のネットワークの強化と、ネットワークの利用によるメリットを最大限引き出せるようなツール(ソフトウェア)の開発、効率的なネットワーク運用のために必要となる技術、ソフトウェアの開発などであった。

 NRENのもう一つの構成要素である「ギガビットR&D」は、将来NRENに組み込む1ギガbps以上のコンピュータ通信技術の開発とそのテストを目的としていた。先進的な高速スイッチの開発、より進んだコンピュータネットワークインターフェースの研究、遅延の少ないネットワークを実現するために必要な通信コントロール技術、ルーティング技術の研究、開発した技術をテスト・評価するためのギガビットテストベッドのサポートなどがこのテーマに含まれていた。HPCC計画によってサポートされていたテストベッドは、このオーロラ(Aurora)、ブランカ(Blanca)、カーサ(Casa)、ネクター(Nectar)、ビスタネット(Vistanet)、マジック(Magic)の6つであり、9つの政府機関および国立研究所、13の通信企業を含む20の民間企業、12の大学、2つのスーパーコンピュータセンターの協力によって運営されていた。言うまでもなく、ここでの研究成果は、インターネットのバックボーンネットワークの高速化に活かされている。

NII構想の誕生と混乱

 少し話は前後するが、92年に行われた大統領選挙キャンペーン時にクリントン・ゴア陣営が発表した選挙綱領("Putting People First : A National Economic Strategy for America)には、2015年までに家庭、オフィス、研究所、学校、図書館をネットワークで結び、種々の情報をオンラインで検索可能にすると書かれている。

 さらに93年2月、誕生したばかりのクリントン・ゴア政権は「米国の経済成長のための技術(Technology for America's Economic Growth)」と題する技術政策大綱を発表した。この中に盛り込まれた目玉の一つがNIIの構築である。ホワイトハウスのプレスリリースによれば、NII及び情報スーパーハイウェイの構築に関しては、次の項目が含まれている。

(1) 大量の情報を高速に処理できるスーパーコンピュータとそれにアクセスするための高速のネットワーク(情報スーパーハイウェイ)のための技術開発計画であるHPCC計画の推進
(2) ヘルスケア、生涯教育、製造の各分野のアプリケーションの開発
(3) 学校や非営利団体におけるパイロット・プロジェクトの創設
(4) 議会と民間セクターと協力してNII構築を促進するための政策を立案するタスクフォースの設置

 クリントン・ゴア政権のNIIキャンペーンは大成功だった。93年の夏には、あらゆるマスコミがNII、情報スーパーハイウェイを取り上げるようになっていたし、電気通信業界やCATV業界、コンピュータ業界がNII構想を熱烈に支持した。ただ、問題がなかったわけではない。NIIがどんなネットワークになるかという点については、業界によって(あるいは企業によって)考えが異なり、誰もがNIIの全体像を説明できなくなってしまったのである。

 つまり、クリントン・ゴア政権は遠隔医療や遠隔教育、オンラインによる行政サービスといった公共サービスの可能性を提示し、電話会社やCATV会社はインタラクティブTVを通じたビデオ・オン・デマンドやホーム・ショッピング、ホーム・バンキングといったサービスを計画した。しかし、どのようなネットワークの上で、どういうシステムを構築すれば、こうしたサービスが可能になるという青写真も無ければ、関係者のコンセンサスも無かった。ましてや、電話会社やCATV会社がそれぞれ保有するネットワークをどのように接続するのかという問題には、ほとんど注意が払われなかった(NIIの相互運用性(インターオペラビリティ)に関する取り組みは、ANSI(American National Standards Institute)が94年7月に設置したIISP(Information Infrastructure Standards Panel)に委ねられるのだが、これは項を改めて紹介することにする)。

 93年の後半には、NIIあるいは情報スーパーハイウェイという言葉は、クリントン・ゴア政権の手を離れて一人歩きを始め、多くの企業や消費者に夢をばらまくことになったのである。

インタラクティブTVの夢

 既に述べたように、電話会社及びCATV会社の大手は、クリントン・ゴア政権のNII構想を全面的に支援する姿勢を示した。それは、NII構想が発表される前から、消費者向けに広帯域ネットワーク(Broadband Network)を構築する青写真を持っていたこともあり、NII構想を、この計画に「政府のお墨付き」を与えてくれるものだとして歓迎したのである。

 米国のCATV産業は、日本と異なり、既に成熟した産業になっている。80年代に急速に普及し、現在の普及率は65%を超えており、CATV加入世帯数は約6400万に達している。CATV産業を構成する企業は、番組を制作する会社、番組を編成して1つのチャンネルとして提供する会社(ニュースを専門とするCNN、スポーツ専門のESPNなど)、ケーブルを利用して編成された番組を配信する会社に分けられる。一般的にCATV会社と呼ばれるのは、最後の番組配信会社である。番組配信事業については、基本的に市、郡の単位に営業権(フランチャイズ)が与えられる。96年現在で11,220のケーブル・システムがあると言われている。極めて限定された地域にしかサービスをしていない企業もあるが、規模が大きい方が番組の仕入れや設備の利用効率の面でメリットがあるため、買収や合併によって複数の地域のシステム(つまりフランチャイズ)を所有している巨大なCATV企業が生まれた。こうしたCATV企業は、MSO(Multiple System Operator)と呼ばれている。現在、最大のMSOはTCI社で契約数は1450万、第2位がタイム・ワーナー社で1180万、3位以下はコンチネンタル・ケーブルビジョン社(420万)、コムキャスト社(420万)、コックス・コミュニケーションズ社(320万)、

 ケーブルビジョン・システム社(270万)の順である。また、CATVは、ほとんどの地域で事実上の独占状態、つまり1地域1事業者になっている。複数の事業者が存在し、消費者がCATVシステムを選べる地域は、数十カ所だと言われている。
 こうしたCATV業界にデジタル革命の波が押し寄せたのは、90年代の初めである。ダニエル・バーンスタイン&デヴィット・クライン著の「ディジタル・ウォーズ」(三田出版会)によれば、「500チャンネル・テレビ」というフレーズを最初に使ったのは、TCI社の会長であり、CATV業界のドンであるジョン・マローン(John C. Malone)である。また、記憶が正しければ、91年10月に開催されたCOMDEX/Fallのマルチメディア・セミナーで配布された「マルチメディア白書」には、すでにこの構想が紹介されていた。従来型のCATVは、同軸ケーブルを利用してテレビ放送をアナログ信号で送っている。これをデジタルにしてかつ圧縮をかけて送信すれば、1本の同軸ケーブルで500チャンネルの番組を送ることが可能になる。
 瞬く間に、インタラクティブTVの夢はマローン一人のものではなくなり、CATV業界の中に広がっていった。多くの計画は、同軸ケーブルを主体にした従来のネットワークの幹線を光ファイバーにして、ビデオ・オン・デマンドなどの双方向サービスを提供しようというものだった。たとえば、93年4月にTCI社のジョン・マローン会長は、同社が保有するCATV網をHFC(Hybrid Fiber-Coaxial)と呼ばれる光ファイバーと同軸ケーブルを利用したハイブリッドシステムにする20億ドルの投資計画を発表している。この計画を発表した当時は、マローン会長は極めて強気で、「96年までにTCI社加入世帯である約1000万世帯の90%を新システムに意向させ、デジタル対応のセット・トップ・ボックスなどの機器整備を進めることによって本格的な双方向サービスを開始する」と述べている。

 今となっては、それは計画というより夢想に近かったのではないかと言えるが、93年当時はマスコミも含め、多くの人がその計画の半分か、4分の1、少なくとも1割くらいは達成されるだろうと信じていた。誰もが、既に伝送能力が大きなネットワークや映像コンテンツを保有しているCATV企業がNII構築レースで優位に立っていると思っていたのである。

ビデオ・ダイヤル・トーン

 ビデオ・ダイヤル・トーン(Video Dial Tone)とは、電話用のインフラを用いた映像サービスのことである。92年7月にFCC(連邦通信委員会、Federal Communications Commission)が下した裁定によって電話会社に認められた高度通信事業という位置付けになっている。このビデオ・ダイヤル・トーンが電話会社にとってのインタラクティブTVなのだが、その前に簡単に米国の通信産業の歴史を振り返っておいた方が話は分かり易い。

 米国の電気通信は、1876年のグラハム・ベル(Alexander Graham Bell)による電話の発明以来、当初から民間の手で開拓され、激しい競争が行われてきた産業分野の一つである。特にベルの特許が切れた19世紀末には、各地に電話業者が乱立し、その数は8000を超えたと言われている。その後、AT&Tの前身であるベル社が各地の電話会社を買収し、独立系電話会社の数は減少していった。82年の司法省との修正同意審決に基づいて、AT&T社は84年に分割されることになるのだが、この時点でAT&T社は地域電話市場の85%を独占し、電話機も子会社の製造する機器を買い上げた上で排他的に販売するという独占体制を築き上げていた。AT&T社は84年に分割され、AT&T社は長距離通信事業を行い、地域電話事業は7つの地域に分割されたRBOCsが行うことになった。最新の統計によると、独立系の電話会社は1305社ある(93年)。とは言え、独立系電話会社の大部分は中小企業であり、RBOCsに匹敵する規模の企業はGTE社1社である。つまり、米国の地域電話市場は、RBOCsの7社とGTE社によって地域毎にほぼ独占されているというのが現状である。

 さて一方、70年に発明された光ファイバーが80年代に広く普及するようになって、地域電話会社も映像サービスを提供する基盤ができあがった。従来の銅線をベースにしたアナログ通信技術では、動画のように情報量の多いデータを送ることは困難であるが、回線網が重要な幹線から順次光ファイバー化されていくにつれ、電話会社にとってもインタラクティブTVサービスの提供が夢では無くなってきたのである。

 しかし、84年ケーブル法(Cable Communication Policy Act of 1984)は、地域電話会社が自社のサービスエリア内で映像サービスを提供することを禁じていた(この規制はCATV事業と電話事業の棲み分けを決定した70年のFCC裁定に遡ることができる)。規制の理由は、メディア支配の集中は公益に反するからである。
 ところが92年7月になって、FCCはこの禁を解いて、電話用のインフラを用いて映像サービスを提供することを認める裁定を下した。いや、確かに一般的にそう言われているが、この表現は適切ではない。つまり「ビデオ・ダイアル・トーン裁定」と呼ばれるこの裁定は、厳密に言うと地域電話会社にCATV事業を認めたものではないのである。ビデオ・ダイアル・トーンとは、利用者からの要求に応じて映像情報を配信するサービスで、CATV事業に似た新しい高度通信サービスであると位置付けられている。つまり、ビデオ・ダイアル・トーンは、地域電話会社が行うビデオ・オン・デマンド、インタラクティブTVに他ならない。かくして地域電話会社は、競ってビデオ・ダイアル・トーンの実験に乗り出すことになったのである。

史上最大の合併計画が流れた理由

 マスコミがインタラクティブTVの虜になりつつあり、人々がやビデオ・オン・デマンドやオンライン・ショッピングの夢を見始めた頃、突然CATV最大手のTCI社とベル・アトランティック社の合併計画が発表された。発表したのはTCI社のマローンであり、場所はニューヨーク市マンハッタンの44丁目の6番街とブロードウェイの間にあるホテル、93年10月13日のことであった。
 年間売上高が約130億ドルの電話会社と約40億ドルのCATV会社の合併を、マスコミは史上最大の合併と報道した。しかし、この計画は4カ月後に合併交渉が決裂し、白紙に戻ってしまった。理由はいくつかある。と言うより、当事者であっても合併がつぶれた本当の理由を問われると異なった答えが返ってくる。
 「デジタル・ウォーズ」に収録されているインタビューによれば、TCI社のマローンは2つの理由を挙げている。まず第一は、ベル・アトランティック社の株価が下がったため、合併するためには株の半分以上をTCI社に譲渡しなければならなかったことであり、第二の理由は、配当金の支払いによって株価を維持する保守的な企業から成長率によって株価を維持する攻撃的な企業への転換をベル・アトランティック社の役員会が拒否したことである。

 しかし、もう一方の当事者、ベル・アトランティック社のCEO、レイ・スミスは、合併話がご破算になったのは、94年の初めにTCI社の株価が下がってしまったために、合併の条件で合意できなくなったからであり、その原因はTCI社のキャッシュ・フロー(税引後利益+原価償却費)が減少したことにあると述べている。そして、さらに突き詰めれば、TCI社のキャッシュフローが減少した原因は、FCCの料金規制にある。

 ここで、CATV料金に関する規制について簡単に説明しておこう。
 84年までは、州政府がCATVの料金の規制を行っていたのだが、規制緩和によってCATV事業に自由と競争を導入することを目的にした84年CATV法の成立によって、この料金規制は撤廃された。一般的に規制を緩和すれば、競争が激しくなり、料金や価格は安くなると思われている。しかし、これは必ずそうなるというものではない。ほとんどの地区で地域独占になっているCATV事業の場合、料金規制の撤廃は、競争の激化ではなく、料金の上昇を招いた。地域によって差はあるものの、標準的なCATVのベーシック料金は、86年から90年までに61%上昇したと言われている。
 やがて消費者からの不満は、議会を動かし、92年10月に「92年CATV消費者保護・競争法(Cable Competition and Consumer Protection Act of 1992)」が成立した。この法律は、一度上下両院を通過したにもかかわらず、時のブッシュ大統領の拒否権に会い、連邦議会が再度3分の2以上の多数で議決して大統領の拒否権を無効にして成立させたといういわく付きの法律である(超党派の賛成が得られたのは、大統領選挙と同時に行われる連邦議会の選挙が迫っていたからだと言われている)。
 92年CATV消費者保護・競争法に基づき、FCCがCATV料金についてガイドラインを作成し、このガイドラインに従って自治体が料金の上限を設定することになった。FCCは、93年秋と94年初めの2度にわたり料金の引き下げを求めた。1回目は10%、2回目は7%であった。FCCによれば、十分な競争にさらされている地区のCATV料金とそうでない地区の料金の差を調査した結果、引き下げ幅を決定したと述べている。

 この料金引き下げによって、CATV各社のキャッシュフローが悪化し、株価を下げる要因になった。TCI社の株価は、93年には情報スーパーハイウェイのブームによって最高33.25ドルまで上昇したが、FCCが2度目の料金引き下げを発表した2月23日の終値は24.875ドルであった。
 かくしてベル・アトランティック社とTCI社の合併計画は夢に終わってしまった。実は、93年にはこの2社の合併計画の他にもサウスウェスタン・ベル社とコックス・ケーブル社の提携など、CATV企業と電話会社の間でいくつかの提携話があったのだが、94年半ばまでにはそのほとんどが白紙撤回されている。理由は、CATV各社のキャッシュフローの悪化の他に、両業界の風土や財務体質の違いがあったとされている。

(次号につづく)

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