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NY駐在員報告  「(改訂版)マイクロソフトの小研究」 1997年1月

 今月のテーマは、マイクロソフト社である。1年9カ月前にも同じテーマでレポートを書いたが、その改訂版になる。したがって、過去のレポートと重複するところがあるが、ご容赦いただきたい。

マイクロソフト社の概要

 言うまでもなく、マイクロソフト社は世界で最も有名でかつ最大のソフトウェアメーカーである。会社は1975年にビル・ゲイツ(William H. Gates III)とポール・アレン(Paul G. Allen)によってニューメキシコ州アルバカーキーで設立された。現在の本社はビル・ゲイツの生まれ育ったワシントン州シアトルの近く、レッドモンドにある。

 マイクロソフト社は、パーソナル・コンピュータのあらゆる分野のソフトウェアといくつかのハードウェアを開発販売している。製品は、OS、言語ソフト及び開発用ツール、ビジネス・アプリケーション・ソフトウェア、ゲームソフト、CD-ROMに収められたマルチメディア・コンテンツ、ハードウェアに分類できる。OSは「MS-DOS」、「ウィンドウズ95(Windows 95)」、「ウィンドウズNT」、「ウィンドウズCE」などであり、言語ソフト及び開発用ツールには、「ビジュアルBASIC(Visual Basic)」、「ビジュアルC++(Visual C++)」、「フォートラン・パワーステーション(FORTRAN Powerstation)」、インターネット用の「フロントページ(FrontPage)」、「インターネット・アクティブX SDK(Internet ActiveX SDK)」などがあり、アプリケーション・ソフトとしては、スプレッドシートの「エクセル(Excel)」、ワードプロセッシングの「ワード (Word)」、データベースの「アクセス(Access)」、プレゼンテーション用の「パワーポイント(PowerPoint)」、これらをセットした「オフィス(Office)」、インターネット関係では「インターネット・エクスプローラー(Internet Explorer)」、「インターネット・インフォメーション・サーバー(Internet Information Server)」等がよく知られている。ゲームソフトは、ビル・ゲイツが好きだからという理由で84年5月に販売を開始した「フライト・シミュレーター(Flight Simulator)」を除いてほとんどなかったのだが、最近はかなり充実してきた。例えば、アクセス社のゴルフゲーム「リンクス(Links)」のユーザーインターフェースを多少変えた「マイクロソフト・ゴルフ」のようなスポーツものやゲームソフトを集めた「マイクロソフト・エンターテイメント・パック」などを販売している。CD-ROMにはかなり力を入れていて、その多くは百科事典を収録した「エンカータ・エンサイクロペディア(Encarta Encyclopedia)」や地図データを集めた「エンカータ・ワールド・アトラス(Encarta World Atlas)」のような教育色の強いものが多い。ハードウェアも販売しているが、これは微々たるものである。マウス(83年出荷開始)、キーボード(94年出荷開始)、ジョイスティック(96年出荷開始)がある。

 96年度(期末は96年6月30日)の決算をみると、売上高は86億7100万ドルで、純益が21億9500万ドル、1株当たりの利益は1.71ドルである。
 MS-DOSやウィンドウズがあまりにも有名なために、マイクロソフト社といえばOSのメーカーというイメージが強いが、OSの占める比率は思ったより小さい。マイクロソフト社では、ソフトウェアをOSと言語ソフトを中心とする「プラットフォーム製品」と「アプリケーション・ソフトとコンテンツ」に大きく二分しているが、売上げに占める割合は、前者が47%、後者が53%である。
 会社設立当時、3人だった社員は、81年に100人を超え、85年には1000人に達し、91年に1万人以上になり、現在およそ2万人になっている。

マイクロソフト社の原点

 74年12月に発売されたポピュラー・エレクトロニクス誌75年1月号に掲載された「アルテア8800」というコンピュータが、マイクロソフト社の設立の契機になったという話は、よく知られている。このアルテア8800が世界最初のパーソナル・コンピュータだと言う人がいるが、現在のパソコンとはまったく異なった姿形をしている。もちろん、中にはインテル社の8ビットマイクロプロセッサ8080が入っているのだが、キーボードもモニターもない箱で、正面に小さなランプとスイッチが並んでいる。当然のことながら、コンピュータを動作させるために必要な基本ソフトであるOS (Operating System) もなかった。このアルテア8800を動かすためには、正面のスイッチを上げ下げして、機械語で書いた0と1のならんだプログラムを1ステップずつ入力してやる必要があった。価格は350ドルと安いのだが、それには理由があって、電源を入れる前にハンダごてを片手に何時間も格闘する必要があった。アルテア8800は、現在のパソコンとはほど遠い、ホビー向けの組み立てキットであった。

 当時ハネウェル社の社員であったポール・アレンは、マサチューセッツ州ケンブリッジのハーバード・スクエアでこのポピュラー・エレクトロニクス誌を見つけ、当時ハーバード大学にいたビル・ゲイツのところに駆けつけた。そして二人は、この表紙の写真と記事をみて、このアルテア用のBASICのインタプリタを開発しようと決心したのである。BASICのインタプリタは、BASICという言語で書かれたプログラムを機械語に逐次翻訳するプログラムであり、これができれば、ユーザはより簡単にアルテア8800用にプログラムを書くことができる。アルテア8800もインテル社の8080も持っていない二人は、ハーバード大学の計算機センターに設置されていたDEC社のミニ・コンピュータPDP-10を利用してプログラムを組んだ。PDP-10に8080チップと同じ動作をするプログラムを走らせ、その上でBASICのインタプリタを開発したのである。75年2月にBASICは完成した。そしてアルテアを開発したMITS社とライセンス契約を結ぶためにマイクロソフト社が設立された。75年4月4日、場所はニューメキシコ州アルバカーキーであった。なお、アルバカーキーが選ばれた理由はアルテアを開発したMITS社がそこにあったからである。

 言うまでもなくBASICという言語は、ゲイツあるいはその友人のアレンが発明したものではない。オリジナルなBASICは63年に、ダートマス大学のジョン・ケメニー(John G. Kemeny)とトーマス・カーツ(Thomas E. Kurtz)によって開発された。このプログラム言語は、文化系の学生でも容易にコンピュータが利用できるようにと発明されたもので、コンピュータに指示を与える命令は簡単な英語と同じで、数式の形で演算を指示できるという分かりやすい言語であった。ゲイツとアレンがワシントン州のレイクサイド・スクール在学中にスクリーンのないコンピュータ端末(プリンタがスクリーンの役目を果たしていた)で使っていたコンピュータ言語もBASICであった。そして二人がアルテア8800用にBASICに取り組んだ頃には、既にパブリックドメイン・ソフトになっていた。つまり、誰でも自由に利用できるソフトウェアであった。とはいえ、マイクロソフト社の開発したBASICは当時大型計算機で動いていたBASICとは同じではない。なにしろ当時の標準的なアルテア8800のRAM(メモリ)は4Kバイトしかなかった(現在の標準的なPCの数千分の1である)。その4Kバイトも全部をインタプリタで使うわけにはいかない。ユーザがBASICでつくるプログラムの分を残しておかなければならない。おそらく当時は、BASICのような高級言語がアルテアのような小さなメモリしか持たないコンピュータの上で使えるようになるとは、誰も思ってなかったのではないだろうか。したがって極めてメモリ効率のよいこのプログラムを作成したビル・ゲイツとポール・アレンは確かに天才的なプログラマーなのだろう。しかし、彼らは何かを発明したのではない。BASICインタプリタという言語ソフトをマイクロコンピュータ用に書き直したのである。

 マイクロソフト社は、その後続々と発売されるアルテアより多少ましなマイクロ・コンピュータ用にBASICを書き、それをライセンスして金を稼いだ。77年にはマイクロ・コンピュータ用のFORTRAN(数値計算用の高級言語)を、78年にはCOBOL(事務計算用の高級言語)を開発したが、BASICが中心となる商品であった。(言うまでもないが、FORTRANもCOBOLも言語としてはマイクロソフト社が発明したものではない)

MS-DOSの出自

 マイクロソフト社がOS(オペレーティング・システム)市場に参入したのは、80年になってからのことである。意外なことに最初のOS製品はUNIXである。80年2月に発表されたXENIXは、AT&Tのベル研究所からUNIXのライセンスを取得して16ビットのマイクロコンピュータ用に移植したものであった。まったく余談だが、このXENIXの最初の顧客は、イーサネットを発明したボブ・メトカーフによって設立された3コム(3Com)社であった。
 あのMS-DOSバーション.1.0が登場したは81年8月である。あのIBM PCと一緒にである。この話は多くの本や雑誌に書かれているので、要点だけ書くと次のようになる。

 IBM社はパーソナル・コンピュータ市場に参入するため、80年7月に「チェス」というプロジェクトをスタートさせた。80年8月下旬、IBM社とマイクロソフト社の2回目の会談が行われ、IBM社はマイクロソフト社にIBM PC用のBASIC等のソフト開発を依頼した。9月になってIBM社はOSが必要であることに気付いた。当時のマイクロソフト社のBASICはOSなしで実行できたのだが、他の言語はOSを必要とするからだ。当時のマイクロ・コンピュータ用OSのデファクト・スタンダードはデジタルリサーチ社のCP/M (Control Program/Monitor) であった。ビル・ゲイツがデジタルリサーチ社のゲーリー・キルドールをIBM社に紹介し、運命の会合がデジタルリサーチ社のあるカリフォルニア州パシフィックグローブで行われたのである。

 この伝説ともなっている会合の詳細は、関係者によって話が異なり、真相は薮の中である。いくつかの文献を総合するとこういうことになる。まず、最初にIBM社の一行が、CP/Mのライセンス交渉のためにデジタルリサーチ社にやってきた時、キルドールは自家用飛行機で出張中だった。IBMの一行を出迎えたのはキルドールの妻で、彼女は、IBM側がサインを求めた守秘義務合意書へのサインを拒んだ。その後、キルドールとIBMの話合いは行われたのだが、IBM社の要求する厳しいスケジュールに、キルドールは首を縦に振らなかった。キルドール自身は、IBM社の代表のジャック・サムズと会って、IBM PC用のCP/Mを開発しIBM社に提供することで合意できたと思ったと語っているが、一方のサムズは、キルドールの説得をあきらめてビル・ゲイツのところに相談に戻った。そして、9月末にはマイクロソフト社は、IBM PC用のOSを提供することを決定し、デジタルリサーチ社は千載一遇のチャンスを逃してしまった。

 実は、オリジナルなMS-DOSはマイクロソフト社で開発されたものではない(これもこの世界では有名な話である。"Hoover's Handbook of American Business" の僅か1ページのマイクロソフト社の概要にまでこの話は載っている)。最初のMS-DOSの正体は、シアトル・コンピュータ・プロダクツ社のティム・パターソンの開発したQDOS (Quick and Dirty Operating System) である。ビル・ゲイツも最近の著書で「ディム・パターソンは事実上、MS-DOSの父だといっていい」と書いている。

 当時、マイクロ・コンピュータのベストセラーは、アップル・コンピュータ社のアップルIIであり、そのキラーアプリケーションが最初の表計算ソフト「ビジカルク」であった。そして、そのアップルIIでCP/Mを動作させるための「ソフトカード」と呼ばれる拡張カードをマイクロソフト社が販売していたのだが、そのソフトカードはマイクロソフト社の依頼を受けてシアトル・コンピュータ・プロダクツ社のティム・パターソンが開発したものであった。したがって、マイクロソフト社は、間違いなくQDOSの存在を知っていたはずで、IBM社とデジタルリサーチ社の話合いがうまく進んでいないことを知り、QDOSの買い取りを考えたに違いない。

 実はQDOS自身も独創的なソフトではなかった。QDOSのコマンドはすべてCP/Mと同じだったのである。CP/Mの開発者のキルドールはQDOSのプログラムコードはかなりの部分CP/Mのコピーだと主張していた。一方、パターソンは「CP/Mのマニュアルは読んでも、コードのコピーはしていない」と述べている。そんなQDOSの販売権をマイクロソフト社は5万ドルで買い取った。もちろん、当時の年間売上高が300億ドルというIBM社がサブサイセンス先だとは明かさずにである。こうした経緯で、IBM PCに、MS-DOS バーション.1.0(IBM社ではPC-DOSと呼ばれていた)が採用されることになり、マイクロソフト社は大企業への道を歩み始めるのである。
 それからMS-DOSはマイクロソフト社によって改良されていくことになったのだが、重要な点は、最初のMS-DOSは(IBM-PC用に少し書き直されてはいるが)取引のあった企業から買ったソフトだったことである。

OSの価格

 マイクロソフト社がIBM社のパソコン用のOSを提供することになったという事実を知ったキルドールは、おそらく相当頭にきたに違いない。MS-DOSの基になったQDOSのかなりの部分がCP/Mのコピーだと信じていたキルドールは、マイクロソフト社とIBM社を訴えるつもりがあると両社に伝えた。これにマイクロソフト社がどう反応したかは、どの文献にも見つからなかった。IBM社はキルドールの要望を聞き、IBM-PC用のCP/Mをデジタル・リサーチ社も提供することを受け入れた。
 つまり、IBM-PCのユーザは、OSとしてPC-DOS(MS-DOSのIBM社バージョン)とCP/M-86、それにUCSDパスカルP-システムの3つから好きなものを選ぶことができたのである。

 CP/M-86はIBM-PCの発売から少し経って完成した。なぜそれほど早く完成したかと言えば、IBM社の話を聞く前から、キルドールはインテル社の16ビットのマイクロプロセッサ8086や8088用のOSの開発を始めていたからである。当時、マイクロプロセッサは8ビットのものが主流で、16ビットは発売されたばかりであった。キルドールは、16ビットのマイクロプロセッサ用のOSが必要とされることを予測して開発を始めていたのである。そして、当時、CP/Mの最大の販売会社であったマイクロソフト社もその事実を知っていたのだという。しかし、IBM社との間で最初に取り交わされた守秘義務合意書があったので、マイクロソフト社側は、デジタル・リサーチ社が16ビット用のOSを間もなく完成させる予定であるという事実をIBM社に伝えられなかったのだと言われている。

 しかし、重要な点は、マイクロソフト社がIBM社に何を伝え、何を伝えなかったのかにあるのではない。この歴史から学ぶべき点は、これらのOSに付けられた価格にある。実は文献によって多少数字が異なるので困るのだが、ビル・ゲイツの著作を信用すると、PC-DOSが約60ドル、CP/M-86が約175ドル、UCSDが約450ドルであった(CP/M-86は240ドルであったという説もある)。この価格の意味するところは大きい。ビル・ゲイツは目先の金儲けより、まずMS-DOSを普及させ、事実上の標準(デファクト・スタンダード)にすることの重要性に気付いていたのである。
 かくして、優れたプログラマではあったが、先の見えるビジネスマンではなかったキルドールは「本当に」人生で最大のビジネスチャンスを逃してしまった。

ウィンドウズへの道

 ウィンドウズの発表がニューヨークのホテルで行われたのは83年11月10日のことで、ニューヨーク・タイムズ紙は次のように報じている。「パーソナル・コンピュータ用ソフトのリーディング・カンパニーであるマイクロソフト社は、コンピュータの画面をいくつかの窓(windows)に分割し、それぞれに別のプログラムを表示し、マウスが使える新しいプログラムを発表した。この新しいプログラムはビジコープ社のビジオン(VisiOn)と競合することになる。また、アップル・コンピュータ社のリサも同じ様にそれぞれのウィンドウに異なったプログラムを走らせることができる。マイクロソフト・ウィンドウズと呼ばれるこの製品はMS-DOSのオプションとなる予定である。」

 これもよく知られている事実であるが、現在マッキントッシュ(Macintosh)やウィンドウズが採用しているグラフィカル・ユーザ・インターフェース(GUI)を最初に実現したコンピュータは、ゼロックス社のパロアルト研究センター(PARC)で開発されたアルト(Alto)である。さらに歴史を紐解けば、スタンフォード研究所のダグラス・エンゲルバートの研究や、60年代初めのジョージ・エバンスとイヴァン・サザーランドの研究にまで遡ることができるのだが、それはまた別の機会にしよう。

 アップル社のスティーブ・ジョブズは、79年12月にPARCを訪問し、アルトの画面を見てリサを開発した。なんと大胆にも、PARC訪問の7カ月後にアルトのデモをみせてくれたプログラマのラリーテスラを引き抜いて、リサのGUI開発の責任者にしている。リサは83年1月に発表され、7月から出荷されたのだが、価格が1万ドルもするため、飛ぶようには売れなかった。GUIを広く一般に広めたのは、翌84年1月に発表されたマッキントッシュである。リサと平行して開発が進められていたマッキントッシュは、モトローラ社の32ビットMPUである68000を搭載し、メモリは125Kバイト、価格は約2500ドルとリサの4分の1であった。ワープロソフトのマックライト(MacWrite)とお絵かきソフトのマックペイント(MacPaint)が利用できた。マッキントッシュは3カ月あまりで7万台、年末までに25万台が売れた。

 一方、ビル・ゲイツも当時、GUIが将来のパソコンのユーザインタフェースになるという確信を持っていた。スティーブ・ジョブズがビル・ゲイツに開発中のマッキントッシュを見せたのが81年夏のことで、すぐにマイクロソフト社は、マッキントッシュ用のアプリケーションソフトの開発に着手した。このプロジェクトの担当は、PARCから移ってきた「プログラミングの天才」チャールズ・シモニイであった。実は、後にウィンドウズと呼ばれる「インターフェース・マネージャー」の開発は、この81年の後半(一般には開発中のマッキントッシュを見た後の9月だといわれている)に開始されている。ただ不思議なことに、ビル・ゲイツは「ビル・ゲイツ未来を語る」で「1983年、わたしは、グラフィカルなオペレーティングシステムの開発がマイクロソフトの次のステップだと考えた」と書いている。

出荷遅延

 話を戻そう。83年11月にウィンドウズの開発を発表したビル・ゲイツは、84年末までにはウィンドウズはMS-DOSのマシンの90%以上で使われることになるだろうと予言している。そして84年2月頃に、3月末には完成するという噂がマイクロソフト社の幹部から流れた。しかし、それはやはり噂にすぎず、84年5月にはリリースは8月末に変更され、さらに10月には85年6月に延期された。85年5月の春のコムデックスにマイクロソフト社はウィンドウズを出品し、6月には発売すると約束をした。しかし、6月28日に出荷されたのはテスト用のベータ版で、結局、ウィンドウズが完成したのは85年11月であった。プロジェクトのスタートが81年9月だすれば、5年強の歳月を要したことになる。当初予定より1年あまりの出荷遅延だが、遅延はこの世界ではそう珍しいものではない。この後にもいくつかの出荷遅延話を書くことになる。

 さらに言えば、ウィンドウズが本格的に普及したのは90年5月に発表されたウィンドウズ3.0以降である。マイクロソフト社は87年末までに50万本のウィンドウズを出荷したと述べているが、このほとんどは無償配布したものだと言われている。一方、ウィンドウズ3.0は最初の1年で約300万本の売上を達成した。しかし、マッキントッシュが80年代半ばに実現していた機能のいくつかは、最初のウィンドウズが発売されてから約10年後に発売されたウィンドウズ95を待たなければならなかった。

 ここでの重要なポイントは、アップル社が4年あまりで完成させたGUIを、IBMコンパチブルなPCの上で実現し、普及させるのに、膨大な時間と労力を費やしたということではない。重要なのは「何故ビル・ゲイツが83年11月にウィンドウズの発表をしたのか」である。

 80年代前半には、多くの企業がパソコン用GUIの開発に取り組んでいた。82年の11月のコムデックスではビジコープ社がDOSの上で動くGUIプログラム「ビジオン」を開発していることを明らかにし、83年10月には製品を発表した。同じ頃クォーターデック社も「デスク(DESQ)」というGUIの開発を発表した。アップル社は83年7月にはリサを出荷していたし、84年にはマッキントッシュがデビューすることをビル・ゲイツは知っていた。こうした背景があって、83年11月にウィンドウズの開発計画を大々的に発表したのである。発売時期を何度も延期するウィンドウズを、業界誌は「ベイパーウェア(vaporware)」と呼んだ。その昔、発表はされたけれどなかなか姿をみせないIBM社の製品をマスコミは「ファントム・プロダクト(Phantom Product)」と呼んだが、それと同じ意味である。

 つまり、ユーザに優れた競合他社の製品を買わせないようにするためには、それよりさらに優れた製品を開発中であることを発表すればよい。もちろん、完成の目途がたっていなくてもかまわない。ユーザが待ってくれるであろう期間を計算して、出荷予定時期についてコメントすればよい。たとえその後、開発が遅れて出荷時期を何度か送らせることになっても、多くのユーザは、ここまで待ったのだからもう少し待とうと考えるだろうから。これは現在も有効な手段である。

ウィンドウズ95

 ウィンドウズ95に関する最初の公式発表がいつであったかはっきりしないのだが、91年の初めには「次期のウィンドウズはオブジェクト指向技術を取り入れ、極めて使いやすいものになる。93年の第4四半期までに出荷する予定である」とマイクロソフト社は述べている。

 93年3月には、開発コード名「シカゴ(Chicago)」(後のウィンドウズ95)は、従来のウィンドウズと異なりDOSを必要としないと公表された。これまでに世界中で6000万本以上出荷されてきたウィンドウズは正確にはOSとは呼べない。というのはウィンドウズを動かすためにはDOSを必要とするからである。つまり、ウィンドウズはDOSの上でGUIを提供するソフトウェアなのである。この時点でシカゴは94年第4四半期には出荷される計画であった。
 当初、開発は順調に進んでいるかのように見えた。93年8月にアルファ版が一部のアプリケーションを開発している企業に配布された。そして94年6月から7月にかけて最初のベータ版(内部ではM6と呼ばれているもの)が出荷された。
 しかし、マイクロソフト社のバルマー副社長は94年8月、インフォワールド誌のインタビューのなかで、シカゴを94年中に出荷するのは不可能で、出荷は大幅に遅れて95年5月くらいになるだろうと述べた。そして94年9月にマイクロソフト社は、シカゴの製品名を「ウィンドウズ95」とすることと、出荷時期を95年第2四半期まで延期することを発表した。

 94年の10月から11月にかけて第2段階のベータ版(M7)が約48,000本出荷された。おそらくその結果を見ての決定だと思われるが、94年12月になってマイクロソフト社はウィンドウズ95の出荷を6月から8月に延期すると発表した。95年3月、第3段階のベータ版(M8)約40万本が出荷された。
 94年下半期に2度も行われた出荷遅延のアナウンスについては、様々な情報、憶測がある。現在のバージョンで動いているアプリケーションソフトの一部が動かないとか、機種によってはインストールさえできないとか、マルチタスクで動くはずの32ビットアプリケーション・ソフトを複数立ちあげるとシステムがフリーズしてしまうとか………。
 ベータ版のソフトにはこうしたバグはあっておかしくない。そうしたバグを発見するのがベータ版を配布する目的の一つなのだから。発見されたバグは修正され、次のベータ版が作られる。こうして細かなバグはともかく、致命的なバグはすぐになくなるのが普通で、最後のベータ版はほぼ完成品に近いはずである。しかし、95年の春になっても、一部の業界誌は、ウィンドウズ95はまだ大きなバグを抱えているので「ウィンドウズ95はまもなくウィンドウズ96に改名される」という噂を冗談とも本気とも取れる調子で紹介していた。

 出荷遅延の理由として語られる話は他にもある。インターネットが急速に普及していくのを見て、ビル・ゲイツがウィンドウズ95にインターネットにアクセスする機能を追加するように指示したせいであるとか。新しいユーザ・インターフェースを取り入れて、画面のデザインを現在のウィンドウズと違うものにしたら、ユーザには不評で、昔のデザインに戻すことにしたとか。

 ともあれ、ウィンドウズ95は95年8月に発売され、調査会社や業界アナリストの予想は下回ったものの、歴史に残る売上げを達成した。最初のウィンドウズの時と同じように、出荷遅延を繰り返し、発売直後にいくつかの小さな(?)バグが発見されたけれど、大成功であったことは間違いない。
 あるアナリストは「なぜビル・ゲイツはあのようにはしゃいでいるのか」という問いに、「10年近くにわたるマッキントッシュ・コンプレックスからようやく解放されたからだ」と答えた。

OS/2

 マイクロソフト社の話になぜOS/2が出てくるのだろうとお思いの方もあるかもしれない。今は誰もがOS/2をIBM社が開発したパソコン用のOSだと思っている。ある面では正しいのだが、歴史を辿れば、OS/2の開発は、IBM社とマイクロソフト社の共同プロジェクトとしてスタートしている。そして92年までマイクロソフト社はOS/2の共同開発を続けていたのである。

 IBM社との共同開発契約は85年8月に結ばれており、IBM社がPS/2を発表した87年4月には、マイクロソフト社自身が、この共同開発契約に基づく最初の製品としてマイクロソフトOS/2を発表している。また、当時IBM社だけでなく、マイクロソフト社も、数年以内にOS/2はPC用OS市場の90%を占めるようになると予言していた。
 当初、このOS/2の基本的な設計はIBM社が行い、開発はマイクロソフト社にまかされた。OS/2は1台のコンピュータで同時に複数のアプリケーションを動かせる、マルチ・タスク機能をそなえ、DOSより大きなメモリ空間にアクセスできる(当時としては)画期的なOSであった。問題は、仕様は立派だが、当時のMPUには負荷が大きすぎて動作が遅い上に、OS/2用のアプリケーションも揃っていなかった。それでもOS/2の開発は継続され、IBM社とマイクロソフト社は88年10月、OS/2バージョン1.1と、ちょうどDOS上で動くウィンドウズと同じように、OS/2にGUIを提供するプレゼンテーション・マネージャーを発表した。しかし、価格は約340ドルと高い上に、やはりメモリをかなり増設しないとまともに動かず、また当時としては最新のインテル社MPUi386でないと十分な早さで動かなかった。さらに事態を悪化させたのは、87年にIBM社が発表したSAA(Systems Applications Architecture)構想の一部に組み込まれたことである。SAAはパーソナルコンピュータからメインフレームまですべてのコンピュータの統合を目指した計画で、現在のネットワーク・コンピューティングに近い発想なのだが、あまりにもメインフレーム中心に考えられていた。

 90年になってOS/2はバージョン1.2が発表された。いくらかは改良されていたが、やはり市場には受け入れられなかった。そして、マイクロソフト社は平行して開発を続けていたウィンドウズ3.0の出荷を90年5月に開始し、事実上OS/2から手を引いたのである。

 OS/2が離陸に失敗した原因は、方針を何度も変更し、貧弱な設計を行い、貧弱なコードを書いたIBM社にあると一般に言われている。しかし、マイクロソフト社も優秀なプログラマを200人以上投入していたのである。マイクロソフト社は常勝企業だと思われているかもしれないが、OS/2失敗の責任の一部はやはりマイクロソフト社にもあるのではないだろうか。

モザイクとエクスプローラ

 ブラウザと言えば、94年10月までは、モザイク(Mosaic)のことだった。93年にイリノイ州にあるNCSA (National Center for Supercomputing Applications) で開発されたモザイクは、1年間に少なくとも200万のインターネットユーザがダウンロードしたと言われている。当時のインターネットの規模は、今の10分の1以下であることを考えると、これは大変な数字である。
 NCSAは、連邦政府機関の一つであるNSF (National Science Foundation) がサポートしているスーパーコンピュータ・センターの一つで、イリノイ大学が管理している。開発したのは、マーク・アンドリーセン(Mark Andreessen)とその仲間である。94年4月にジェイムズ・クラーク(James Clark:シリコン・グラフィック社の創業者)は、彼らを誘って、ネットスケープ・コミュニケーションズ社を設立した(当時の名称はモザイク・コミュニケーションズ社、94年11月に社名変更)。ネットスケープ社は94年10月に「ネットスケープ・ナビゲーター(Netscape Navigator)1.0」のベータ版を公開し、正式なバージョンを12月に発表した。なんと95年6月には、推定3800万人のユーザがNavigatorを利用していたと言われている。

 マイクロソフト社は当初、このナビゲーターのライセンスを取得しようとしたのだが、ネットスケープ社と合意に至らなかったのだと言われている。そこでマイクロソフト社は、イリノイ大学からモザイクのライセンス権を供与されていたスパイグラス社から「強化版NCSAモザイク(Enhanced NCSA Mosaic)」のライセンスを得て、インターネット・エクスプローラ(IE:Internet Explorer)を開発した。最初のバージョンは95年8月に、バージョン2.0は95年11月に発表された。しかし、IEは、まったく目立たないブラウザの一つでしかなく、ネットスケープ・ナビゲーターがブラウザの市場の大半を占めるという時代が96年夏まで続いた。

 ところが、96年8月、マイクロソフトはエクスプローラ3.0でブラウザ市場に大攻勢をかけた。8月時点で実利用率でみたシェアは5%程度であったものが、数カ月で15%〜20%程度まで上昇した。バージョン3.0で普及が始まるのはウィンドウズと同じである(ちなみに、ビル・ゲイツの正式な名前は「ウィリアム・ヘンリー・ゲイツ三世」である)。

 もちろん、ソフトをインターネット上で公開して無償でダウンロードさせた効果もあるが、技術的にみても市場をリードするネットスケープ社のナビゲーターと同等かそれ以上であるというイメージ作りに成功したことが、ユーザ急増の大きな要因だろう。
 マイクロソフト社はブラウザをOSに組み込む方針を明らかにしており、このシェアはさらに上昇すると見られている。オラクル社のエリソン会長は、エクスプローラがウィンドウズ97に包含された時点で戦争は終結すると述べている。本当にそうなるかどうかはわからないが、少なくとも当面は、両社のブラウザをめぐる争いは続くだろう。

 余談であるが、エクスプローラに関連して気になる話が二つある。一つはエクスプローラの販売方法について司法省が調査しているという話である。具体的には、マイクロソフト社がパソコンメーカーに対して、エクスプローラを販売するパソコンにインストールしてくれれば(あるいはネットスケープ社のナビゲーターをインストールしなければ)ウィンドウズ95のライセンス料を割り引くという申し出をしたかどうかである。

 もう一つは、マイクロソフト社がスパイグラス社に支払うべきライセンス料を支払っていないことが明らかになったことである。この事実は、スパイグラス社が、97年1月に公表したプレスリリースで公になった。スパイグラス社は、強化版モザイクの他に、エクスプローラに使われているフィルタリングのソフト「サーフウォッチ(SurfWatch)」もライセンスしており、少なくとも40万ドル以上が未払いだと述べている。純益が20億ドルもある会社がなぜこの程度のライセンス料を未払いにしているか不思議な話である。ちなみにネットスケープ社は、ゼロからナビゲーターを開発しているのでスパイグラス社からライセンスは受けていない。また、オリジナルなモザイクのプログラムは約9000行で、ウィンドウズ95の約800万行からみれば千分の一程度にすぎないのだが、ブラウザの製品化を急ぐためにはスパイグラス社からのライセンス取得は必須だったのだろうか。

独創性は必要か?

 94年10月5日、カリフォルニア州パロアルトで開かれたスタンフォード大学主催の「日本のNIIの未来(The Future of Japan's National Information Infrastructure)」と題する会議で、日本政府の政策についてスピーチをした後、司会役のカレン・ヨーク(Karen Yorke)から質問を受けた。記憶が正しければ、情報スーパーハイウェイの時代にはますます独創性が重要になると思われるが、日本は大丈夫だと思うか、というような質問であった。当時(恥ずかしいことに)質問に答えられるような自分の意見も持っておらず、適当に言葉をならべてごまかすだけの英語力もなかったので、ほとんどパニック状態に陥ってしまった。
 しかし、今なら胸をはって答えられる。「米国最大のソフトウェア企業は、独創的だと言えるでしょうか?」

 マイクロソフト社は、エクスプローラに限らず、96年2月に組織を再編してインターネット部門を新設してから、多くのインターネット関連ソフトとサービスを発表してきた。いまや思いつくインターネットビジネスでマイクロソフト社の手がけていないものはないように思える。ブラウザだけでなくWebサーバー側のソフトも、マルチメディア・コンテンツを作成するソフトも揃っているし、ISP 事業も行っていれば(MSN:マイクロソフトネットワーク)エレクトロニック・バンキングや遠隔教育にも熱心に取り組んでいる。ニュースを中心としたMSNBCや電子出版等のコンテンツ・ビジネスまで手がけている。まさに情報スーパーハイウェイ時代のオールラウンド・プレイヤーである。

 しかし、これまでマイクロソフト社が独創的な製品を生み出したことはあるのだろうか。大型汎用機の世界から、あるいはライバル企業の製品から(もちろんゼロックス社のPARCから)種々のアイデアを借用し、優れたソフトを買い取り、あるいはプログラムのライセンスを取得し、時には会社を丸ごと買収して製品を開発してきた。

 個人的には「日本人には独創性がない」という意見には賛成できないが、万が一そうだとしても、まったく心配はいらない。ここに立派なお手本がある。必要なのは先を見る目と、絶対に人には負けないという強い意志、そしてライセンス契約の時に必要な法律の知識か、優秀な弁護士である。

いくつかのエピソード

 ビル・ゲイツは55年10月28日にワシントン州シアトルで生まれた。「ビルゲイツ(Bill Gates Hard Drive)」という本によれば、彼は「すでに子供の頃から、何でも一番でなければ気がすまないという強迫観念にとりつかれていた」そうだ。記憶力が優れ、数学と理科が得意だったという。
 68年の春、彼が通うレイクサイド・スクールに一台のテレタイプ・マシンが設置された。そのコンピュータ端末は電話回線でシアトルのダウンタウンに設置されたDEC社のPDP-10に接続されていた。コンピュータとの出会いである。ポール・アレンともここで出会っている。そして71年には、オレゴン州ポートランドのインフォメーション・サイエンス社のために仲間とプログラムを書き、なんとロイヤリティ方式で収入まで得ているのである。

 アルテア8800用のBASICの時も、ビル・ゲイツは最初からビジネスを考えていた。完成したBASICを持ってアルバカーキーに飛んだアレンが、プログラムが無事に動いたことを電話でビル・ゲイツに知らせたとき、ビル・ゲイツはMITS社との契約のことを考え始めたのだそうだ。
 75年にMITS社との間で取り交わされたアルテア8800用のBASICのライセンス契約は、ビル・ゲイツと彼の父親、アルバカーキーの弁護士が作成したものだといわれている。このライセンス契約こそ、ソフトウェアのライセンス契約のひな形になった画期的なものであった。まず、マイクロソフト社はMITSから3000ドルのBASICライセンス供与に伴う使用料を受け取った。さらに、MITSがハードウェアと一緒にBASICを売った場合には1本につき30〜60ドル(バージョンによって異なる)のロイヤリティを受け取り、MITSがソフトだけを売った場合には売上げの50%をロイヤリティとして受け取るという契約であった。このソフトウェアのライセンス契約こそ彼の最大の功績かもしれない。

 もう一つエピソードを紹介しよう。76年初めにビル・ゲイツは、コンピュータ愛好者に向けて、ソフトウェアの不正コピーを止めるようにと手紙を書いた。この手紙は、アルテアの会報やシリコンバレーのコンピュータマニアの会「ホームブルー・コンピュータ・クラブ(Homebrew Computer Club)」の会報などに掲載された。当時アルテアのユーザの多くは、BASICを正規に購入せず、誰かのBASICを無断でコピーしていた(アルテアのユーザでBASICを購入したものは10%以下だったと言われている)。この行為に対して、ビル・ゲイツは、ソフトウェアを無断でコピーするものは、ソフトウェアを盗んでいるに等しいと、コンピュータ愛好家を泥棒呼ばわりしたのである。もちろん、ビル・ゲイツの抗議は100%正しいのだが、当時のコンピュータマニアの多くは、ソフトのコピーは当たり前のことで、実際、BASICで書かれた多くのソフトは自由にコピーされていた。自由にコピーしてかまわないソフト(パブリック・ドメイン・ソフト)とコピーすれば著作権を侵害することになるソフトとの違いに、多くのマニアは気付いていなかったのかもしれない。

 ともあれ、ソフトウェアの価値を正当に評価することによって、良質のソフトが生まれるのだということを広く一般に主張したのは彼が最初かもしれない。この点は評価できる。
 しかし、そのマイクロソフト社が現在エクスプローラを無料で配布しているのはどういう訳だろう。もちろん、マイクロソフト社としてはできるだけ早くブラウザ市場でトップシェアを取り、エクスプローラをデファクト・スタンダードにしようとしているのだろう。企業としての戦略は理解できる。しかし、ソフトウェアの価値を正当に評価することによって、優れたソフトウェアが生まれてくるというビル・ゲイツの論理からすれば、マイクロソフト社の戦略は優れたブラウザ技術が生まれる芽を摘んでいることになりはしないだろうか。

 また、マイクロソフト社は有望なソフトウェアを開発したソフトウェア企業を積極的に買収している。96年だけを見ても、インターネットのホームページ作成ツール「フロントページ(FrontPage)」を開発したバーミア・テクノロジーズ(Vermeer Technologies)社、インターネット・コマース用のソフトウェアで有名なイー・ショップ(eShop)社、インターネット上のゲームソフトで最も有名なエレクトリック・グラビティ(Electric Gravity)社、他にもエクソス(EXOS)社、アーハー・ソフトウェア(Aha Software)社、アスペクト(Aspect)社などがある(最近買収された企業の多くは、マイクロソフト社の戦略を反映して、インターネット関連企業が多い)。

 こうした一連の買収をみて思うことがある。それは「マイクロソフト社本体の開発能力が低下しているのではないかということ」ではない。もしそうだとしても、それは私がが心配することではない。心配は、こうした買収が、第二、第三のマイクロソフト社が育つ芽を摘んでいることになるのではないかということである。

【参考文献等】
「コンピュータ帝国の興亡」ロバート・X・クリンジリー著、薮暁彦訳、アスキー出版
「ビッグ・ブルース」ポール・キャロル著、近藤純夫訳、アスキー出版
「マイクロソフト ーソフトウェア帝国誕生の奇跡ー」Daniel Ichbiah/Susan L. Knepper著、椋田直子訳、アスキー出版
「ビル・ゲイツ未来を語る」ビル・ゲイツ著、西和彦訳、アスキー出版
「ビル・ゲイツ」ジェームズ・ウォレス、ジム・エリクソン著、奥野卓司訳、翔泳社
http://www.microsoft.com/
http://www.fys.ruu.nl/~bergmann/history.html
http://www.pcmag.com/
http://www.investor.msn.com/
http://www.iw.com/
http://www.vantek.net/pages/hydra/gates/bgjp.html
http://www.vantek.net/pages/hydra/gates/hatebill.txt
http://www.zpub.com/un/bill/gates.html

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