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溜池随想録 #5 「SaaS と規模の経済」 (2009年10月)

ロングテール

 4、5年前に「ロングテール」という言葉が流行した。「Web2.0」を象徴するバズワードの一つである。2006年には” The Long Tail, Why the Future of Business is Selling Less of More”という本も出版されている(著者はワイアード誌編集長のクリス・アンダーソン、邦題は『ロングテール、「売れない商品」を宝の山に変える新戦略』)。

 まず、簡単にロングテールとは何かを説明しておこう。
 Amazon.comのようなネット小売りでは、膨大な商品を低コストで扱うことができるため、よく売れる商品だけでなく、あまり売れない商品からも利益を得ることができる。マーケティングの世界では「20:80の法則」(取扱商品の上位20%の売上が売上全体の80%を占めるという法則)が有名であるが、ロングテール理論は、このアンチテーゼである。

 縦軸を販売額(あるいは販売数量)、横軸を商品として、よく売れる商品から順に並べていくと右肩下がりの曲線になる。この曲線の右にずっと伸びた部分がロングテールである。現実の小売店では、店のスペース的な制限からよく売れる商品(グラフでは「ヘッド」と呼ばれう左の部分)のみを扱ってきたが、ネット小売りではあまり売れない商品(グラフでは右に長く伸びた「テール」と呼ばれる部分)も取り扱っており、この部分も十分ビジネスになるというのがロングテール理論である。

 この理論を提唱したクリス・アンダーソンは、Amazon.comは、現実の大規模書店が取り扱っていないような書籍(売上の多い順から数えて10万番目以降の書籍)から、売上の半分以上を得ているとワイアード誌に書いた。この数字は後に36%に修正され、現在では25~30%が正しい数字だとされているのだが、当時は「半分以上」という衝撃的な情報が独り歩きし、ロングテール理論がちょっとしたブームになった。

 ただ、ロングテール部分の売上が25~30%であっても、それほどロングテール理論の価値が落ちるわけではない。これまで切り捨てられてきたロングテール市場が、インターネット上では十分ビジネスになると分かっただけでも十分価値がある。

SaaSとロングテール

 では、次にSaaSとロングテールの関係を説明しよう。
 ます、情報処理サービスに対する潜在市場を、書籍の市場と同じようにグラフに書いてみる。縦軸に各企業が情報処理サービスに支払ってもよい金額をとり、横軸には企業を大企業から中小企業へと規模の順で並べる。大企業ほど情報処理に支払ってもよい金額は大きく、企業規模が小さくなるほど企業数が増えるため、グラフは右側に長く尾を引く形になる。これはAmazon.comの書籍のグラフと同じである。

出典:筆者作成

 さて、前回解説したように、マルチテナント方式のSaaSでは規模の経済が強くはたらく。これは、パッケージソフトと同じであると説明した。しかし、パッケージソフトの場合、規模の経済が強くはたらくのは、ソフトウェアの設計と開発のプロセスだけであって、その保守・運用のプロセスでは顧客毎の対応が必要となり、規模の経済はあまりはたらかない。これに対してSaaSの場合には、設計・開発のプロセスに加え、保守・運用のプロセスにおいても規模の経済がはたらく。

 したがって、マルチテナント方式のSaaSは、従来の情報システムに対して経済的に優位にあると考えられる。誤解を恐れずに平易にいえば、成功すればとても儲かるビジネスであり、顧客が負担するコストを従来の情報システムより安くすることが可能である。したがってSaaSは、従来の情報サービス産業が開拓できなかったロングテール市場を開拓できることになる。
 経済産業省が、SaaSを中小企業の情報化の鍵だと考え、J-SaaSプロジェクトを始めた理由はここにある。

マーケティングコスト

 しかし、ロングテール市場開拓には3つの課題をクリアする必要がある。

 第1の問題は、SaaSのユーザ企業1社あたりのコストが安くなる条件は、そのSaaSが成功すること、つまりユーザ企業数が一定以上になることである。利用企業が増えないとビジネスとしては成り立たない。

 第2の問題は、ここまでの議論ではマーケティングコストを考慮していないことである。規模の小さい企業を対象にしたビジネスでは、大企業、中堅企業を相手にしたような手厚い個別マーケティングはできない。個人を相手にしたようなマス・マーケティング、インターネットを利用したマーケティングを採用する必要がある。

 そして第3の課題は、アフターケアをできるだけ少なくすることである。もし、そのSaaSの利用方法が分かりにくいと、SaaSベンダーにはユーザ企業から問い合わせが殺到することになる。そうなると保守・運用コストが予定よりかさみ、採算が合わなくなる。つまり、手離れのよいSaaSであることがロングテール市場開拓の成功の条件となる。
 
 次回は、クラウド・コンピューティングを取り上げよう。

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