世にも奇妙な場所~閉鎖病棟での270日間~1回目の入院に至るまで

1回目の入院の「雑記帳」を記録していくうえで、まずは入院に至るまでの経緯を書いていきたいと思います。

2009年4月、私は大手証券系列会社に経営コンサルタントとして22歳で入社しました。その論理的思考力や分析力、プレゼン力を買われての「ポテンシャル採用」ということでした。当時はコンサルタントといえば花形の存在で、有頂天になっていたことを覚えています。ただ、一方で大学生活では人間関係、とくに同年代の人達と交友関係を結ぶことができず、自分のコミュニケーションの取り方のおかしさを強く実感していたので、果たして自分は大丈夫なのだろうか、という先行きに強い不安も感じていました。

1か月目の研修期間はとても順調でした。横浜にある研修センターで社内の同期のシステムエンジニアたちとチームを組み、仮想客相手にコンペを行い、それを最後の成果発表会で社長や役員、同期350名の前で発表するという研修でしたが、うちのチームは「JR東日本に対して、スイカ情報をもとに、各地域の顧客行動特性を分析してそれを自販機やキオスクの販売戦略に生かす」という、今でこそ当たり前ですが、当時としてはわりと珍しい提案を行い、見事大賞を獲得しました。発表の瞬間、喜びのあまり立ち上がって歓声を上げてしまい、周りから笑われたのをはっきりと覚えています。

2か月目、意気揚々と現場配置された私でしたが、初めて上司となった人との接し方に大きく悩みだします。その方はとても優秀なコンサルタントでアメリカの大学からの留学帰りで、営業力や提案力もあり、大きな案件を受注してくるため、とても部署内で影響力のある方でした。ただ、ものすごく細かい方で、かばんの大きさや置き方、おはしの持ち方やご飯粒を残していないか、など日常のいろいろな部分を気にされていました。かたや私は、そういう人が気になることを気になると理解できない、いわば当時よく言われた「KY」なタイプで、いつも頓珍漢なことを返答し、余計にいら立たせていたと思います。今なら大学生の時に広い交友関係を築けなかった理由が、結局コミュニケーションの問題、いわゆる発達障害にあったのだろうとわかりますが、当時私はそんな知識もなく、ただただ自分の至らない点を責める日々でした。

同じプロジェクトをやっているため、四六時中顔をつき合わせる必要がありました。周りからは、「相性が悪いのだから、今は耐えて半年後にある新しい配属先に行ったときにうまくやればいいじゃん」というアドバイスを何人からももらっていたのですが、当時の私は「とはいえ、この人に嫌われてしまったらこの会社で仕事ができなくなる」という恐怖心で、無理なコミュニケーションを繰り返しました。そうしているうちに、自分でもだんだんと、上司が何を怒っているのか言葉すらわからなくなってきました。日本語だとはわかるのですが、その前後関係が全く分からなったのです。より一層怒られ続けて、それはもう地獄の日々でした。

そうして1年もたたないうちに全く夜も眠れなくなり、一方で会社に行く時間になると頭痛と吐き気で起き上がれなくなり、ある日「あ、このままここにいたらいけない、富士山の樹海で首をつってしななきゃ」という発想にたどり着きました。今思うと、なんで富士山の樹海なの、と笑いそうになりながらこの記事を書いていますが、当時の私は真剣でした。そのまま朝、着替え数着と口座にあった現金20万円ぐらいを下ろし、失踪しました。携帯電話を置いて行ったので、連絡手段を断ち、本気で死ぬつもりだったのだと思います。

ただ、自分の住んでいた千葉県から山梨にある富士山の樹海までは東海道線を乗って行く必要がありました。東京を過ぎたころでしょうか、急に死ぬのが怖くなり、かといって戻ってあの日々を繰り返していく自信もなく、ちょどついた川崎駅で飛び降りるようにして電車を出ました。

そしてそこで懐の20万円をもとに、当時(そして今も好きですが、当時はもう完全な依存症でした)の駅地下にあったパチンコをやり、そのまま漫画喫茶で寝る、の生活を1週間ぐらい続けました。当然お金がなくなり、さりとてまだ富士山の樹海に行くのが怖かったため、片道切符分の現金を残したまま、漫画喫茶の代金をカードで払いつつ完全に引きこもる生活を始めました。1日の食事はポテトフライ1皿で、煙草も底をつきフィルターをあぶって吸い、漫画喫茶においてある漫画という漫画を片っ端から読む生活を送りました。

2週間ぐらいたったある日、ふと、あ、そろそろ死ねる、ただ死体が腐っていくのだったら、親にメールだけ送ってそれをきちんと伝えよう、と思い、PCを起動し、メールボックスを開きました。メールボックスの中には親からのメールがたくさん入っており、どれも私を心配してくれるものばかりでした。その中の一通に「会社の部長もあなたのことを心配している。同期も心の底から心配している」という文面があり、あ、会社も私を心配してくれているのか、もしかしたらまだ私は死ななくてもいいかもしれない、何とかなるかもしれない、と思い、帰ろう、と思いました。そして2週間ぶりに漫画喫茶のシャワーを浴びて、川崎を後にしました。

うちに戻ってからも当然大変でした。両親、特に父親からは強く責められ、自衛隊にでも行け、そこで精神を磨いてこい、と言われ泣きながら自衛隊のHPを見ていたことを思い出します。ただそんな奇行を見ていた母親がさすがにおかしいだろうとネット検索した結果、どうやらそれはうつ病というものかもしれない、と気づいてくれて、病院に連れて行ってくれたのでした。結果診断名は「うつ病」。最初は自宅療養でしたが、一向に希死念慮が収まらず家族でも止められない可能性が高かったため、なかば措置入院のような形で入院。

こうして、1回目の閉鎖病棟生活は始まったのでした。

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