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2021.07.03.

スピッツの夜を駆けるという曲の詩に“いつしか止まった時計が 永遠の自由を与える”という詞があるけれど。最近はほんとうにそう思う。

時間は人生だ。過去も未来も。その境界線にある現在も、すべて。人生を気にせずスマホも腕時計も見ずただぼんやりとするひとときは、自由だ。

しいたけ占いを読んだ。それなりに影響をうけているぐらいには僕は宗教的な人間だ。

断捨離をしている。捨てることで広がる自宅。ミニマリストにはまだまだ程遠いが、YouTubeを見ながらいらないものを捨て続ける。憧れは動機付け。

オードリー若林さんのnoteが異次元レベルで素晴らしい。難しい哲学を、簡単な、しかし豊かな内容を含み持つ例え話で表現できる人だと思う。文学の人。

sarah kangというシンガーが好きだ。Sho Asanoと組んで歌った曲は自作の曲よりも息づかいがクール。自分はこっちの方が気に入っている。

今泉力哉監督の作品群で出会った、藤原季節さんという俳優が好きだ。和牛の川西さんぐらい好きだ。御本人のTwitterプロフィールには「藤原のシーズン来ました」とだけ書いてある。もう大好きだ。

Twitterを見ていると、近現代のマイノリティは"陰謀論を信じている人々"なのだと気付いた。それはSNSで見える化されただけで、昔からいたんだろう。

仕事柄、新興宗教の話を聞くことやその他マイノリティとされる人々の人権運動の話を聞くことがある。他者の思想に"陰謀論""新興宗教""マイノリティ"などと名付けることで引かれる境界線。僕の生きている間で、一体幾つの線が引かれるんだろう。

線の分、身動きが取れなくなる人と、線を越えられる通行手形を持つ人に分かれていく。通行手形は、線の向こう側にいる人々との接点か、教育や自学自習でしか手に入らない。

僕には通行手形はいらない。せめて迷惑をかけないようにしたい。日本人的だな。

自分の能力や組織の事業をレバレッジにすれば、自分のしたいことのできる環境にいる。このまま世の中への貢献を免罪符にずるずると生きていたい。浅薄で安直な発想だ。

売上は作らないと。

生産と競争が手段の目的化を果たして、自己実現の領域に"社会的な成功とその持続"が入り込んでいる世の中(そしてそのような浮世を現実として認識する自我)で、一人自分らしくあろうとする時間のほとんどは、マインドフルネス含め「死の疑似体験」であるという事実は割と真実であるように思う。
世の中や他者との関係性と自我の接続を切って、他に何の存在もしない純粋で孤独な闇にダイブする。そのためにランニングや瞑想、ヨガなどのマインドフルネス的な営み、他には入浴や睡眠が位置しているのだろう(自分の場合、ここに自死の疑似体験としての暴飲暴食や泥酔がランクインする)。社会的な存在としての人間が社会化を加速し高度情報化社会と一体化していく。その果てに「自我を社会化させない」ことが社会化のストレス対策となるならば、段階として手っ取り早いのはデジタルデトックスや瞑想だろう。恐らく、そのグラデーションの段階を進めば進むほど「死の疑似体験」に近づいていく。

良い睡眠を得ることこそが人生の目的なのかもしれない。人は誰しも永遠の眠りに就くのだから。

貴重な時間のなか、拙文をお読みいただき 有り難う御座いました。戴いたサポートのお金はすべて、僕の親友の店(https://note.mu/toru0218/n/nfee56721684c)でのお食事に使います。叶えられた彼の夢が、ずっと続きますように。