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ダイエット幻想読書会交流会 受講生が語る「生きることの彩」

先週土曜日にあったこの会のふりかえり、というか、ぼーっと考えていたことを書き記す。当日はチャットで茶々を入れんと(←韻踏んでる)することにひたすらに専念していたのだが、頭の中では後述のようなことをずっと考えていたので割と忙しかった。

環境は、人類がいなくなれば良くなるのかどうか?

ヴィーガンなど殺生を忌避する思想は、すべての命を尊重し、犠牲を強いることなく生きるライフスタイルを指す(※他にも諸説、というか解釈の幅があります)。これにより環境を保全し、現在の状態を次世代につなげることが副次的な効果としても知られる。

この辺りの議論をすると、主作用と副作用の様に人によって理解が前後したり主従関係が逆だったりするのでしばしば議論が噛み合わなくなる。これらはあくまでも人の価値観の話であってそれ自体を全体に適用しようとするのは暴力だと思うので、あまり穏やかではない話(のような水掛け論)は苦手だ。

しかし、そもそも環境とは人類から見た視点だから「環境」なのであって、その命題にある主体と客体を明示的なものにしている大前提を疑わねばならないのでは。と、僕は思っている。なので、「人類がいなくなれば環境が良くなる」のは偽で、「人類がいなくなれば環境は存在しなくなる」が正だと考える。

こんなことを考えながら、僕は高校時代に聖書の時間割で聴いた絵画の歴史を思い出していた(キリスト教の学校だったので、聖書のコマがあった)。昔、宗教画は神様を描くことが目的だったので、人間や風景は”死んだ”背景でしかなかった。自然は人間に利用されるために創造されたのだというキリスト教的な思想を反映していると言えよう(あの哲学者デカルトですら「動物には一切の配慮は必要ない」と言い切っている)。しかし、後期ルネサンスのころから人間そのものや風景そのものを中心にした作品が増えていく。”死んだ存在”"下流"とされていた静物や風景が新興の芸術家によって生命の息吹を吹き込まれ、宗教的制約や人間(宗教≒神)中心主義から脱した芸術が増えていく。

背景とは脇役であり、主役に奉仕する存在である。この構造を相似形として環境問題に充てると、主役が人類の側にあることが分かる。

何故、自然を「環境」と称するのだろう?自然の一部として人類は位置するという包含関係にあるはずなのに、環境の一部に人類は位置しない。事実、環境保全のことを自然保護と称する動きもある。個人としても企業としても、SDGsの様な取り組みを一時的な流行や免罪符にしない姿勢が問われていると思う。

環境問題とは、自然そのものの問題だったはずなんだ。

「食べること」は人類を人間にするのかどうか?

人間がサプリのみで生きられるようになったら、人類はどうなるのか。咀嚼や食事におけるコミュニケーションが減り、脳が退化するのではないか。食物連鎖の連関はどうなるのか。生態系ピラミッドの頂点が無くなり新たな生態系となるのではないか。

とはいえ、サプリは無から生まれない。生物の何某かの成分が使われている。サプリメントで栄養を摂取したとて、結果的には動物・植物などの生物の栄養素を取っていることに変わりはない。さりとて、サプリのみで生きるという選択肢を人類全体(というか先進国全体)で採れば、企業の研究開発はサプリに最適化され、より命の犠牲を要請しない生産体制と食生活になっていくだろう。

現に、昆虫食はラオスなどの途上国で栄養価高く環境にもやさしい食事として取り入れられ、大豆肉は資本主義経済の象徴であるかのような"ファーストフード"のお店で食べられるようになりつつある(この"途上国に先進国の倫理を強制する開発・国際協力の動き"はとても不公正な取引だと思う)。完全食として広告宣伝されるサプリも登場した。

仮に、人類はサプリのみで生きるのだという選択肢を我々が採択したとすれば、サプリで生活する時代への完全移行は時間の問題なのかもしれない。そして人類はしぶとくそれに適応するだろうし、企業は「脳が退化しないサプリ」「社会性を向上させるサプリ」「現存する生態系を護るサプリ」のマーケティング戦略を成熟させていくのだろう(薬機法とか医療広告ガイドライン規制が気になるけれど)。創造と競争をドライブさせる資本主義経済の仕組みは、こうしたパラダイムシフトのときに真価を発揮するのだと思う。

という訳で、この問いは(一時的には揺り戻しがあるだろうが)否定されることになるだろう、と僕は想像する。とはいえ、まだ起きていない事態なので、実際のところは分からないけれど。

人類を人にするものとは何なのか?

第一に、生物と無生物のあいだを考えたい。The Cell(第六版)によると、生物の定義は下記の通り。

1.外界と自己を仕切るような境界線を持つ
2.代謝(物質やエネルギーの流れ)機能を持つ
3.自己複製能を持つ

この内、ウイルスは2と3を持たない(逆転写酵素を使い宿主DNAに自己複製を手助けしてもらいながら自己増殖するため、自律的な自己複製はできない)ので無生物であるとされる。しかし、僕の通っていた大学院のウイルス学の講義を持っていた講師は「ウイルスは、それでも生物なんです…」とかたくなに生物であるとガリレオ並みに言い続け、僕らバイオサイエンスを学んできた学生たちの理解を揺さぶった(あの人元気かなあ)。

無論、これには例外が存在するため完全には否定できない仮説ではある。ウイルスは生物なのかどうかを議論するとき、ウイルスと細菌の比較がよく例に挙げられ、細菌の中にも2や3を満たさない種がいるという事実からだ。しかし、ウイルスは群体や組織といった仕組みを(現時点では)持たず、動的平衡のシステムを単位内に持たないので便宜上無生物とすることがほとんどだ。

現在のサイエンスは生命の最小単位(基本単位)を細胞としている。細胞は、先述の3つの条件をすべてクリアする。ヒトはその最たるもので、60兆個の細胞で出来ている多細胞生物であり、その細胞内には様々な小器官を持つ。分化した細胞群は臓器としてとても複雑な機能と役割を果たし合いながら、個体としてのヒトの生命活動を支えている。

第二に、生物の中における動物の位置づけについて。

歴史的には、ミトコンドリアとの共生による好気呼吸の獲得が大きなティッピングポイントだったのだと思う。32億年前 原生代の地球にシアノバクテリア(またの名を藍藻)という原始的な光合成生物が誕生し、それから15億年後の20億年前には地球の大気中成分に酸素が存在するようになった(ただし、大気中に酸素が徐々に増加したプロセスや、地球規模で気候が急激に変化したプロセスは完全には分かっていない)。大気中の酸素は紫外線と反応しオゾンを作り、およそ21億年前にはオゾン層が出来上がった。

空が青いのは、酸素があるからだとされる。なので、シン・エヴァンゲリオン劇場版:||でコア化した世界の空が赤いのは酸素が低濃度で原始的な大気成分だからではないかと思う(たぶん違う)。

生物にとって、地球上にそれまで存在しなかったはずの酸素は毒だったので(それは自ら酸素を生成するシアノバクテリアにとってもそうで、光合成反応下で発生する活性酸素種の毒性により死んでしまう)、仲間同士で融合し、DNAを膜で包み込んで紫外線や酸素毒から保護する真核生物が誕生した。また時を同じくして、毒である酸素をエネルギーとして代謝する機構を持つ好気性細菌が誕生した。

この酸素を使った代謝系は爆発的なエネルギー代謝を現実のものとする水素伝達系の基になり、これを自己の中に共生させた真核生物は動物へと進化する素地を持つことになる。ミトコンドリアによるエネルギーの産出量は、生命体が必要とする全エネルギーの95%に上るほどだ。こうして、動物は酸素を介して膨大なエネルギーを作り出すプロセスを持つようになった。

ここで、「もしも、ミトコンドリアが意思を持つとしたら?」という空想科学を作品にしたSF小説がこちら。僕の大学時代を彩った文学のひとつである。

最後に、人の人たらしめるものとは何なのかについて考えたい。ヒトは、類人猿とは遺伝子の差異が数%しか存在しない。にもかかわらず、現在の人類・ホモサピエンスは約1250グラムという体重に比して大きすぎる脳を持ち、双方向に意思を表出できるような存在へと進化を遂げた。ヒトの脳は摂取する酸素・ブドウ糖/カロリーの25%を消費しており、大気中の酸素濃度が21%でなければ個体のパフォーマンスに直ぐ支障をきたすことから、人類は先述の地球環境の歴史の果てに最適化された生命体であるとも言える。

しかし、ヒトと人(人間)という単語のあいだには、生物学的な定義と世の中の思想すべての差異を孕んでいるように思う。

人間的とは何かな

答えの数が世の中の形

と、YOSHII LOVINSONは歌った。

これは正にその通りで、時代や空間・状況によって定義が相対的に変化し続けるのが人であり人間という存在だと思う。古来、人の起源は知性やコミュニケーション能力、社会性、創り出した文明などに依拠したものとして描かれてきた。他にも現代では「●●学的には~」「宗教的には~」というように学問や宗教・思想・文化ごとに定義付けが無数にあることだろう。

このように、人はなぜ人なのか?という禅問答にも似た問いかけには、未だ誰も絶対唯一の解に辿り着いてはいない。と同時に、これは危険な問いかけでもある。人とそうでない存在を分かつ境界線はどこなのか――やまゆり園事件の犯人の動機付けは、人を「人間かそうでないか」を分けたところにある。

あなたは、犬に話しかけたことはないだろうか(僕はたくさんある)。それは、他者を自分と同じ様な存在であることを願い、思いやり、コミュニケーションをしようとする営みなのだろう。こころを通わせ、その存在とのあいだにあるはずの唯一無二の"わたしたち"を見出そうとする行為。それが神様でもいい。自然でもいい。ロボットでもいい。

そんな存在とのあいだにある『何か』こそが人なんじゃないかと、このごろは思う。

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医療分子の恩恵で病気にならなくなった人類が作り出した、見せかけの優しさや倫理によって支配される未来。そんなユートピアで、自ら餓死することを選んだ少女たちの"死ねなかった"その後に起こる事件と復讐を描く。

『虐殺器官』で作家デビューしてからわずか2年ほどで早逝してしまった伊藤計劃さんの傑作SF小説。

亡くなられた後、僕がいた大学院の病院で彼が息を引き取っていたという事実を知った。僕は彼の享年から、もう2歳も歳を取ってしまった。

「もしも、ロボットが意思を持つとしたら?」という空想のプロセスを作品にした(!)SF小説がこちら。円城さんらしくもないし、伊藤さんらしくもない。しかし、そのお二人の合作となったこの作品が、世代を超えてずっと読まれますように。

「もしも、人の想念が意思を持つとしたら?」「神が現実的に観測可能な存在になったとしたら?」「神の起源が人類の意識だとしたら?」という空想科学を作品にしたSF小説がこちら。

最終的に(シナリオとしても文脈としても)物語は破綻を迎えるのだが、クライマックスで崩壊する研究所、その最中に登場人物の一人の研究員が実験動物のチンパンジーたちを助けに戻るシーンを憶えている。

僕の大学院進学を決めた作品でもある。

『利己的な遺伝子』そして『神は妄想である』著者のリチャード・ドーキンスの最新作(自叙伝などを除けば)。彼はもう遺伝子至上主義者と言っていいんじゃないか(でも面白い)。。

生命を音楽に見立て、その交響曲に指揮者は存在するか?という問いに答えようとした書籍はこちら。トップダウンでもボトムアップでもなく、"ミドルアウト"という概念でシステム生物学やエピジェネティクスを表現しようとする筆者の試みは斬新。

おわりに

長々と書いてきたが、ところどころ記憶があいまいだったのと最新の学説が気になったため、幾つかはネット検索しながら記述した(修士号取ってからもう10年経つし)。もしかすると抜け漏れがあって正しくない内容もあるかもしれないので、見付けた人は教えてください。やっぱサイエンスって面白いね。


貴重な時間のなか、拙文をお読みいただき 有り難う御座いました。戴いたサポートのお金はすべて、僕の親友の店(https://note.mu/toru0218/n/nfee56721684c)でのお食事に使います。叶えられた彼の夢が、ずっと続きますように。