見出し画像

2021.07.25.

自己犠牲の精神と職業倫理は反するのかどうか。人の福祉のためには、それらを統合することが必要なのだろう。

「社会的意義のある仕事に経済的な報酬・待遇は(むしろ)いらない」「仕事の動機付けを仕事そのもの、碑益者・受益者そのものに置ける者のみが従事できる」というような寄付労働仮説。ボランタリー精神のユートピアを叶え、ブラックな労働を正当化する手段であるかのように僕には思えていたが、必ずしもそれだけではないのかもしれない。

ボランタリー精神を消費行動として捉え、消費的動機で自らの仕事を捉える人もいる。投資的動機で、いずれ来る自己利益と市場機会というキャリアデザインのためにボランティアをする者もいる。

仕事を作用・反作用の構造で捉える人には、損得勘定が入り込む。「これは自分の仕事なのか?」「やったからといって評価されるのか?」「もらっている報酬に合った仕事なのか?」こうした疑問が生じる人の胸の中で、愛は目的的なものとなり、その中に或る欺瞞を他者は見抜くのだろう。

福祉を職業化させると、専門性の市場化・細分化・デジタル化が進み、結果として効率的に育成された人材が生まれる一方で、人々の全体観が失われるだろう。それは大学で起きた学問の問題に似ている。細分化した学問を構造化する技能は衰え、学際的な研究と称したパッチワーク論文が世にはびこる様になった。閑話休題、福祉に置き換えれば、全体観とは人の人生そのものである。(人の人生を見ない)分野横断的な福祉とは、それをやりたいだけの人間の道楽だと云われることだろう。

たとえ裏切られたとしても、期待外れであっても構わない。労力を、苦労を、骨折ることを厭わない。何らかの取引を前提とする者では、こうは成らない。それを職業倫理として、思想として持てるようになるだけの原体験。

全身全霊を向けたいという気持ちは、純然たる自発性に基づくものであり続けなければならない。神は碑益者の方にいる。内なる神は、向かう先にあられる。

ピースの又吉直樹さんがYouTubeで話していた"祈り"と"呪い"。彼は、他者の自由を縛る詞を"呪い"といい、他者の幸せを願う詞を”祈り”といった。

福祉という詞を辞書で引くと、人の「しあわせ」や「ゆたかさ」を意味する言葉、とある。祈りを捧げるように、僕は自らを捧げられるだろうか。捧げられなかった過去を呪いにしてはいないだろうか。他者の幸せを大切にしたいという祈りを持っているのだろうか。自分は、そのために何ができるだろうか。自分は、祈られたことがあったろうか。なかったんだろうか。

貴重な時間のなか、拙文をお読みいただき 有り難う御座いました。戴いたサポートのお金はすべて、僕の親友の店(https://note.mu/toru0218/n/nfee56721684c)でのお食事に使います。叶えられた彼の夢が、ずっと続きますように。