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会社員2年目、1年前の0人前な僕へ

つい最近、中村文則の掏摸(すり)という小説を読んだ。

朧げな記憶だけど2年前空港で飛行機を待っているとき「何か面白そうな本でも読むか」という殊勝な考えのもと買った文庫本。

いつも外出するときに肩からぶら下げるカバンに忍ばせ、電車で座ったときに読むはずだった。その目論見が達成されていればもうとっくに読み終わっていたはずだった。

そんな目論見が達成されることはなく、今に至りとうとうこの前風呂場でその物語の終わりを迎えた。こんなこじんまりした成人男性の部屋のこじんまりしてじめじめした風呂場でその終わりを迎えて、この本は少しかわいそうだ。そう思った。

仕事というのはスーパーやコンビニの脇にある割引ワゴンから少しでもマシな商品を探し出す作業だと思っている。仕事なんてみんなやりたくない。やりたくない仕事を少しでも楽にするための労働が発生するぐらいだ。でもそんな仕事からちょっとでも面白い、光るモノがあればよりうれしいんだと思う。ワゴンから大好きなポッキーがあればその日1日ちょっとハッピーな気分になれるような、そんな感じ。

こんな僕にされる仕事もかわいそうだなと最近思うようになった。手をあげて受けた仕事なんて今のところ1つたりとて存在しないので、ミスマッチもミスマッチだ。もっとやる気のある人とマッチしたらもっと幸せだったろうななんて考える。だが残念だ、お前は僕がなぁなぁで片づけてなぁなぁな僕の成果報告の一部になる。

1年前の僕がもっとちゃんとしていたらギターは今頃もっとうまくなっているだろうし、お仕事で必要な技術力もついているだろうし、片手懸垂だってできるようになっているんだろう。怠け者の僕に使ってもらえない頭も、ギターも、筋肉もミスマッチでかわいそうだなと思う。

一方で1年前の僕が近所の古着屋でいっぱい古着を買ったおかげで出かけるための服には困っていないし、ほどよく飲み会に出たおかげで一部先輩には気に入ってもらえたような気がするし、出不精なりに色んなところに出かけたおかげでいい飯屋と銭湯を知れたし、大学や高校の友達と定期的に遊んでいたおかげで貴重な縁もなんとか途切れずにすんだ。この過程で出会い触れたもの全ては僕にはもったいなくミスマッチでかわいそうな気もするが、僕は少なくとも幸せになった。

掏摸の中に、貴族に運命を握られた少年の話を語るくだりがある。
今の僕の運命を握っているのは1日前の僕、1か月前の僕、それとも1年前の僕なんだろうか。それともそれ以外の誰かなんだろうか。そして今の僕は誰かの運命を握っているんだろうか。

1年前の僕は今の僕をみてどう思っているんだろうか。かわいそうだと思っているのかな、職場や社会とは相変わらずミスマッチだなと思っているのかな、それとも幸せそうだなと思ってくれているのかな。見ていたら教えてほしい。

1年後の僕から1年前の僕が言えることとしては、今の僕の運命も誰かの運命もたいして握っていないだろうということ。悲しいことかもしれないが、だからこそ気負わずに生きていいと思う。だから明日やろうはバカヤローなんて今日の僕に無茶なことは言わないでほしい。明日は明日の風が吹くという都合のいい言葉を胸に生きてほしい。そして余裕があれば誰かの運命を握ったときの心づもりもしておいてほしい。

1年前の僕にこんな甘っちょろいことを言ってくれるのは今の僕か僕の親ぐらいだと思う。それも胸にとどめておいてほしい。

1年後を楽しみにしてほしい、では。








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