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新日本プロレス史#5【80年代後半②】

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グレート・ムタ

80年代は、新日本プロレスにとって激動の時期
でしたが、アメリカマット界も同様でした。
ハルク・ホーガンを擁したWWFが本格的に全米
進出に乗り出したからです。
ホーガンは「ハルカマニア」と呼ばれるファンの絶対的な支持を得て、既にカリスマとなっていました。
また、WWFは同時に、ホーガン以外にも、次々と他団体からスター選手を引き抜き、勢力を拡大していきました。
WWFが商業的成功を収める一方、それまで米プロレス団体の中でも1位、2位の地位にあったNWA、AWAは人気が低迷し、実質崩壊。
NWAは紆余曲折を経て、新団体WCWとなり
ます。

そんな激動のアメリカマット界を席巻した1人の
日本人レスラーがいます。
WCWでトップヒールとなったグレート・ムタ
(武藤敬司)です。
武藤は、190cm近い体格にもかかわらず、抜群の運動神経で、デビュー当時からムーンサルトを
使うなど、新人の頃から頭角を表していた、
いわゆる天才肌の選手です。
そんな武藤が海外遠征していたのが、WCWの
リングでした。
WCWは興業面ではWWFに対して劣勢でしたが、元々はNo.1団体のNWAが母体だったので、
良い選手が揃っていました。
その中で日本人がトップグループに入るのは、
大変なことです。
そんな中、武藤は忍者をモチーフにしたペイントレスラー「グレート・ムタ」として、トップ選手のリック・フレアーやスティングらと抗争を繰り広げました。
武藤が日本に帰ってくるまでの、ムタのWCWでの活動期間は2年程でしたが、当時のムタの活躍は、アメリカでは今でも語られる程の盛り上がり
でした。

闘魂三銃士

WWFが全米進出が進む中、新日本では、ジャパンプロレス勢やUWF勢の離脱等で、選手層が薄くなっていました。
そんな中で、武藤、橋本真也、蝶野正洋の3人が、
プエルトリコで「闘魂三銃士」を結成します。
武藤がムタとしてWCWで活躍する、少し前の
出来事でした。
3人はデビューが同期の間柄で、スピードと運動
神経の武藤、技の破壊力の橋本、クラシカルな技の蝶野と、それぞれが個性的で体格も充分で
あったことから、新日本の期待の若手でした。

東京ドーム進出

ただ、有望な若手を抱えつつも、新日本の選手層が薄かった事に変わりはありません。
しかし、過去の異種格闘技戦にしかり、ピンチの時こそ攻めの姿勢に転じ、逆境を力に変えてきたのが、アントニオ猪木という人物です。
猪木自身はまだまだ人気No.1選手でしたが、選手としてのピークは下降線をたどっていました。
それでも逆転の発想で勝負に出ます。
それが、1989年4月24日に開催された、
「格闘衛星⭐️闘強導夢」です。
プロレスの東京ドーム初進出でした✨
当日の入場者数が53800人。
当時のプロレスにおける観客数の記録を更新し、一定の成功を収めた大会となりました。
メインイベントには、猪木と当時ソ連の柔道家、ショータ・チョチョシビリとの異種格闘技戦が
組まれ、結果は猪木が異種格闘技戦で初めて
敗れるというショッキングな幕切れでしたが、
IWGPヘビー級王座決定トーナメントに、橋本、
蝶野やソ連の選手が参戦した他、獣神ライガー(現:獣神サンダー・ライガー)のデビュー戦が
組まれる等、選手層が充分でないながらも、
新日本の未来が見える大会でした。

そしてその後、猪木は、参議院選挙に出馬→当選した事から、試合もスポット参戦となり、徐々にフェードアウトしていく事となります。

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