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新日本プロレス史#3【80年代前半②】

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噛ませ犬発言と名勝負数え唄

ハルク・ホーガンの来日が少なくなる等、外国人不足により、それまでの日本人vs外国人の対決
図式が困難になった新日本は、苦肉の策として、日本人同士の対決をおこなうようになります。
その始まりが、長州力の「噛ませ犬発言」です。

アントニオ猪木が唯一無二の絶対的エースだった1980年代前半ですが、猪木の後を継ぐのは、
藤波辰巳(現:辰爾)と思われていました。
一方で長州は、ミュンヘンオリンピックにも出場経験のあるレスリングの猛者でしたが、当時は
まだ、藤波よりも下の位置にいました。
そんな長州でしたが、1982年のメキシコ遠征から帰国すると、一気にブレイクします。

「藤波、俺はお前の噛ませ犬じゃないぞ❗️」
それまで格上だった藤波に噛みつきます。
噛ませ犬とは、いわゆる負け役の事。
いつまでも藤波の下にいられない。
長い下積み生活が続いた長州が、初めて輝いた
瞬間でした✨
ただし、この台詞、今や名言になっていますが、実際のところは違ったようです💦
当時見ていた自分も何を言ってるのかも、正直、わかりませんでしたが、後になってこの台詞に
要約されたようです。

ともあれ、藤波vs長州の対決は、
「名勝負数え唄」と呼ばれるようになり、日本人対決はヒットします✨
今では当たり前の日本人同士の対決ですが、
本格的な始まりは、この時期からでした。

また、こうした長州の動きに、キラー・カーン、アニマル浜口、谷津嘉章らの反体制派が集結し、「維新軍」を結成します✨
今では当たり前のユニット抗争ですが、この、
新日正規軍と維新軍との抗争が、ユニット抗争として初めて成功した事例と言えるでしょう☺️

ジャパンプロレス

一方、当時の新日本プロレスは、名勝負数え唄
などのリング上の盛り上がりとは裏腹に、経営は常に火の車だったと言われています。
そうした会社の経営体制に不満を持った選手や
フロントが集まり、1983年に設立されたのが、
「ジャパンプロレス」でした。
この新日本の分裂劇に、長州ら維新軍は、
ジャパンプロレスの所属選手となります。
ジャパンプロレスは興行をおこなう会社という
よりは、選手を他団体に派遣するスタンスを
取っていました。
この先、長州以下ジャパンプロレス勢は、全日本プロレスのリングに上がることになるのですが、
これらの経緯については、諸説有るようで、実際のところは私もわかりません。
全日本プロレス社長のジャイアント馬場から、
ジャパンプロレスに接触したとも言われて
いますし、猪木の指示でジャパンプロレスから
全日本に向かったという話も聞きました。
ただ、真相はともかく、確かな事実は、長州らが全日本のリングに登場し、初めて本格的な
新日本vs全日本の図式がリング上で見られたと
いうことです。
長州らが全日本に参戦するようになり、特に長州と同世代のジャンボ鶴田、天龍源一郎との対決は、一気に全日本のリングを活性化させ、この
時期の日本プロレス界は、全日本が完全にリードしていたように見えました✨

長州力が残したもの

長州は、当時でこそ体格はそれ程大きくあり
ませんでしたが、若手の頃からレスリング仕込みのパワーには、目を見張るものがありました✨
一方で、パワーファイターらしく、技は決して
多くありませんでした。
目立った技といえば、

ラリアット
サソリ固め
ブレーンバスター
バックドロップ

せいぜいこの位です。
ですが、試合開始から感情むき出しで、技を出し惜しみせず目まぐるしく動く、ハイスパートな
試合スタイルは、当時の観客を魅了しました。
新日本での藤波との名勝負数え唄だけでなく、
全日本でも鶴田、天龍ら大型選手の試合ですら、感情的でスピード感のある試合が見られるようになり、日本プロレス界全体に大きな影響を与え
ました✨

本格的な日本人同士の対決
初めてのユニット抗争
団体の垣根を越えた戦い
ハイスパートな試合

どれもが、現代のプロレスに繋がる基礎となった画期的な事でした✨
長州の代名詞は「革命戦士」。
まさしく、日本のプロレス史に革命を起こした
選手だったと思います✨

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