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「この人を悼む」シリーズ・1回目は愛川欽也氏から。(2015年4月15日没)

まあ「この人を悼む」シリーズではじめに「愛川欽也氏」を
選んだ第一の理由は以下の通り。

まあ小川びいの「こだわり声優事典’97」(徳間書店刊,
表紙等挿絵は水玉蛍之丞)をはじめとして男女の隔てなく、
かつ女性が先に書かれていない限り「声優」に関する事典で
冒頭にやってくるのはほぼ間違いなく愛川欽也氏であった
わけで。

そしてラジオ声優の時代から外画吹替創生期を経験して
いることもあり、「旧NHK放送劇団系」の声優の系譜を
提示するのにも適したのが愛川欽也氏(と後にまた採り
上げるであろう納谷六朗氏)なのでここに至ると。

浦和高校出身で俳優座養成所に入り、俳優座養成所では
3期の卒業(これは公募で初めて入所した小沢昭一(2期生)
の1期後輩にあたる。因みに名優華やかなりし、と言われる
もここ数年でバタバタと逝った地井武男、夏八木薫、林隆三
がいたのは15期にあたる)。その後は劇団三期会を経て
フリーに。一応河の会の流れを汲みつつ、最終的には個人
事務所として愛川企画室を開くことに。

(参考:松田咲實「声優白書」2000,オークラ出版,内p85
江口勝義・加藤進平「声優に関連するプロダクション・
劇団の系譜」)
河の会(劇団三十人会,1960-1975頃)
  │(主なかつての在籍者は富山敬、雨森雅司、高橋和枝、
  │肝付兼太、青野武、納谷六朗、向井真理子、
  │加藤みどりなど)
  ├←りんどう(-1964.09解散,ここからの流れの別働隊
  │はあり、竜の会を経て1965年に事務所を作った
  │若本則昭(則夫)の師匠でもあった黒沢良はこの流れ)
  ├→劇団三十人会解散を受け設立 劇集団 劇派
  │ (1975.10-)[植田譲→中川謙二]
  ├→劇団河(1975-,兼本新吾や矢田稔がかつて所属し、
  │愛川欽也と同年の2015年に没した白川澄子も在籍)
  ├→愛川企画室(愛川欽也の個人事務所)
  └→独立 江崎プロダクション(1974.04-2000)
     │(有限会社として設立-1995株式会社化)
     │[江崎加子男]
     ├←元は同人組織として創立(1969.04-1974)
     └→組織変更 マウスプロモーション
      (株式会社マウスプロモーション,2000-)
[江崎加子男→納谷光枝(小野光枝)→納谷僚介
→長谷川たか子]] 

そして当然のようにNHKの放送劇団出身者や俳優座養成所
出身の人達がメインとなって、初期(草創期)の洋画吹き替え
のノウハウが確立されていくのだけれども、声優としての
キャリアとしてはTVドラマ「スーパーマン」(1956年)の
ジミー少年役が嚆矢(初アフレコ)。

フィックスとしてはジャック・レモンを中心に活躍。
いわゆる「班長」としての声優時代はこれまた草創期かつ
試行錯誤を重ねていた国産テレビアニメの時代まで続き
『ハクション大魔王』のどうしたおじさんや『悟空の大冒険』
『マッハGoGoGo』などに出演、野沢雅子と丁々発止のアドリブ
芸をかますことなどで知られた『いなかっぺ大将』の
ニャンコ先生は後世になっても知られている当たり役の
一つとして広く知られていた、と。

まあキンキンと野沢雅子さんとの邂逅はそれ以前の黎明期
である洋画吹き替え時代ではあるので、その頃の仲間である
証明としても野沢さんは「班長」と読んでいたと思うのですが
(確か『ルート66』の主役マーチン・ミルナーの役割が
「班長」だったから、業界内で「班長」と呼ばれるように
なったの名残、だっけ)、その後もキンキン司会の「なるほど・
ザ・ワールド」で野沢雅子さんがナレーションをする機会も
多く、その掛け合いはやはり絶妙で、流れは後年宮内幸平
(『アルプスの少女ハイジ』でアルムのおんじも演じた名優。
1995年死去)の死後作られた映画版で亀仙人役を引き継いだ
ところまで繋がるのですが(結局キンキン(とマスオさん
二代目の増岡弘)以外は原則青二プロ声優の持ち役で、
前後においては八奈見乗児、石森達幸、で、現在多く
亀仙人を演じているのは佐藤正治。今やってるCM
家庭教師のトライでもアルムのおんじを宮内幸平から
引き継いでいる人)。

また以前にも述べたように『おはよう!こどもショー』では
ロバくんの着ぐるみに入りながら演じる声優と操演をこなし、
後に同番組内でオンエアされた『とびだせ!バッチリ』では
あまり頼りにならないチビス警部役の他に着ぐるみの
ロバくんをイメージしたロバがアニメでも描かれていて
こちらもむろん愛川欽也が演じていた。

「いなかっぺ大将」のエンジンがかかってきた1971年頃に
ラジオの仕事もデモテープを売り込む傍ら「パック・イン・
ミュージック」で成功を収め、以降も文化放送の昼生ワイドを
長く続けた(『キンキンのサタデー歌謡ベストテン』
『MAZDA トークタウンToday』『一発逆転大放送! サンデー
SUPERキンキン』『キンキンのサタデー・ラジオ』『キンキン
のサンデー・ラジオ(キンサン)』)。

1975年、満艦飾の長距離トラック運転手を主人公とした映画を
企画し持ち込む。これが東映のドル箱シリーズとなった
『トラック野郎』。菅原文太と共演し相棒「やもめのジョナサン」
こと松下金造役を演じる。これが空前の大ヒットとなり
1979年までに全10作が製作・公開される。

といふことで結果的に1970年代生まれの世代的な感覚で言うと
「ラジオ声優出身で1970年代にキャラをカスタマイズさせた
黒柳徹子と並ぶ一癖あるテレビ司会者が出来る人」って
イメージがやはり付くのかな、と。
(その点で言うとなつかし番組レベルでしか声優時代の
エピソードを聞かない黒柳徹子よりは地方ワイドショーに
よって再放送のアニメ枠が潰れていなかった頃のテレビを
観ていたので『ハクション大魔王』の再放送は結構良く
観られる機会に恵まれていたから、大平透のハクション
大魔王も、堀江美都子の「アクビ娘」も、大好物の
ハンバーグな話も、そして場面転換で頻繁に使われる
キンキンの「それからどした」的なそれからどうしたの
ジングルをかますギャグキャラどうしたおじさんの響きも
そのまんま幼少の頃から覚えているだけ親近感はあったわけで)

(だからこそ転仲と他番組の特番圧力が重なって20話しか
オンエア出来なかった『ハクション大魔王2020』は不憫
だったなあと。おじさん役もロバくんの系譜よろしく
チョーさんがちゃんと役を引き継いでいただけに)

いろいろな浮気性的性格を騒がれた時期もあったが、
自身のレギュラー番組(昼のバラエティ番組)「シャボン
玉こんにちは」(元々あった昼バラの「シャボン玉
プレゼント」が腸捻転ネット解消で変化せざるを得なくなり、
TBSが牛乳石鹸一社提供の番組として後に立ちあげたもの)
で共演したうつみ宮土理と再婚してからはおしどり夫婦
としてその生涯を共にした。

(つなみついでに「シャボン玉こんにちは」はキンキンの
降板後低迷し、再登板するが1979年には番組終了、その後
ブラザー工業の提供番組として1979年の月曜夜からスタート
したのが『人生ゲームハイ&ロー』につながる(そういや
『人生ゲームハイ&ロー』のボードゲーム持ってたなあ、
とやけに述懐。その後キンキンは別のクイズ番組に引き
抜かれて、後代は玉置宏とか湯原昌幸とかも司会をしてた
のですが。一連の番組が終熄し消滅するのは1985年のこと))

別のクイズ番組に引き抜かれた愛川欽也氏はそうして
日テレ系の番組も多く司会するが、中には三波伸介が急逝
したため暫定司会者として「笑点」に立ったこともある。
担当は正月特番時で鶴亀大喜利のコーナー。1983年の1月
レギュラーからは5代目三遊亭圓楽に交代。日テレでは
木曜スペシャル内でやっていた「世界ビックリ大賞」の
印象が強い。一時期は楠田枝里子も司会に加わった時代が
ある(末期は山口智子・板東英二)。

ま、15年続いた愛川欽也と楠田枝里子が司会し、
初の女性で定年退職まで勤め上げた益田由美を生んだ
偉大なJAL協賛旭化成(これも結局現・AGC、と
簡素に書かねばならんのか)提供の紀行・クイズ番組、
と言えばフジの看板番組だった「はいッ、消えた」の
名調子でも有名な「なるほど・ザ・ワールド」なわけで。
ここでも野沢雅子さんとの付き合いは強く長く、多くの
ナレーションを野沢雅子さんが担当していた
(他のナレーターとしては南こうせつ、益田由美、
平野義和などがレギュラー時は担当)。

フジではNG大賞や名珍場面大賞などの他に情報番組で
後に映画『ブタがいた教室』のモチーフを生んだ
「最終的に食べるためにクラスでブタを飼育する」
という授業のドキュメンタリーを放送した
笠井信輔(元フジテレビアナウンサー)との
コンビで作り上げてた番組『今夜は好奇心!』
(1990-1994)などの司会担当も担っていた。
(後にマンガやアニメで描かれた『銀の匙』の豚丼に
まつわるエピソードのモチーフになったものでもあると)

またテレ朝での主な仕事としては1980年代に一世を風靡し、
地下鉄表参道駅の駅弁だった「パクチカ」こそ今は無いが
現在もこの番組で製作した小淵沢駅の有名駅弁
「元気甲斐」は今もなお販売されている料理番組
『愛川欽也の探検レストラン』が有名。ナレーションも
この頃から武田広氏が務められていました(末期は「Eat9」
となり、食に関する討論番組に変貌してもいたが、これが
紆余曲折した挙げ句後の「TVタックル」になる)。
 また独自のニュースメディアを保とうとする姿勢は
CS時代の到来に応じて受け継がれ、朝日ニュースターの
「愛川欽也 パックインジャーナル」(1999-2012)から
kinkin.tv配信の「愛川欽也のパックインニュース」
(2012-2013)まで続いた。

情報バラエティ番組を各局で仕切っていた時期を経て、
『出没!アド街ック天国』に至るのは1995年からのこと。
その初期のコンセプトとしてはランキングもさながら、
その地元ならではのエッセンスを抽出して、その街の
CMをラストに製作してオンエアするものでもありました。

レギュラーパネラーとして薬丸の前に越川大介がいたのも
今は昔(ま、よく知られているのは島本須美さんの夫、
って話でもありますが。そういや島本須美さんがフリー
所属で長くいたのは子育てに邁進するため、とも言われて
いたし、ときメモとそれに附随する騒動の時は娘が詩織、
といふ名前だから、と用心していたことでも知られて
ましたが、娘さんも今は劇団所属の女優・声優=越川詩織
で、以前あった蟲師 続章 第14話「隠り江(こもりえ)」は
親娘で共演したりもしていたのかあ。それほど時代は
移ろってしまったのか、と)

アシスタントは八塩圭子→大江麻理子→須黒清華。
(キンキン司会時のアシスタントの変遷はここまで)
ナレーションは長く武田広と津野まさいの2人体制だったが、
2015年から多比良健が加わり3人体制となっている。
(その後また変遷しているがここでは略)
「街に詳しい」コメンテーターは当初泉麻人(浅井泉、
オカシ屋ケンちゃん、娘は「二軒目どうする?」に
出演するおつまみさんの一人で、ドラマにもなった
「ソロ活女子のススメ」の原作者にもなった朝井真由美)
だったが、レギュラーとしては1998年に降板、山田五郎
がその後は長く務めている。

それこそ初期はCM制作が目的でランキングも
「ベスト10」だったが、その後レギュラーに薬丸裕英が
入り「薬丸印の新名物」で「ボキャブラ要素」を発揮させる
ようになってからはランキングがメインとなり、情報を
詰め込んで「ベスト30」でオンエアされるケースが
多くなった。
 他にも(制作会社の)ハウフルスらしさに溢れた
ギミックは多く、メインストリートと両脇に並ぶ店を
早回しで紹介する「○○ストリート」やハウフルスらしい
ソウルミュージック中心のランキング映像で使用した
楽曲を3曲紹介する「選曲の3曲」も味のあるコーナー
だったがこれらは2005年頃にいずれも消滅している。
なので、今もたまに生き残っているコーナーでは
「アド街写真館」が一番印象的なのかなあ、と。

「街ってのは建物じゃない。人なんだ」が口癖だった
キンキンの人柄がコーナーとしてちゃんと滲みだして
いる名コーナーだと思います。

『出没!!アド街ック天国』の司会を、放送1000回目
となる2015年3月7日放送分で降板し、自宅療養しながら
自主製作映画の8作目「満洲の紅い陽」(遺作)を
製作していたが、体調不良から肺癌が発覚し、療養
するも薬石効なく2015年4月15日午前5時11分、肺がん
のため東京都内の自宅で死去。2015年4月17日に
事務所から公式発表された。

2015年4月18日のワールドビジネスサテライト
(WBS)ラス前のワンポイントニュース枠で
気丈に、でも感情こもって嗚咽まじりに大江麻理子
キャスターが訃報のアナウンスを読み上げましたが、
ここに溢れる「人情味、のようなもの」を表現
させえた力こそが、愛川欽也氏が育んできた
「テレ東・ザ・ワールド」のフィナーレとして
最も相応しい帰結を生んだのではないか、と
私は思っております。