作品という鏡に映して見る、櫻坂46の今。
2015年に欅坂46としてスタートし、5年後に改名し、そこから数えて4年目となる2024年の櫻坂46。
このグループが歩んできた道のり、そして現在の立ち位置を、作品(=表現)という観点を中心にして一本の流れとして捉えていこうとするとき、私たちはそこに「近代」およびその地続きにある「今」という、喧噪の時代のうちで揺らぐ現実の人間たち、つまり、私たち自身のすがたを映し見ることができる。通底するのはアイデンティティに関する問題だ。我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか。
書こうとしていることと、その理由について。
櫻坂46は2024年6月、三度目の東京ドーム公演を行う。一度目は改名前、欅坂46として。二度目は櫻坂46として。前キャプテン、菅井友香の卒業の舞台として。そして三度目。8thシングル『何歳の頃に戻りたいのか?』を引っ提げて回る、ライブツアーの追加公演として。
躍進の2023年。その地続きにある2024年の「今」。グループの勢いは未だ留まるところを知らない。前を向いて順調に歩を進めているように見える。絶好調と言っても過言では無い。ライブは楽しい。制作の質も優れている。コミュニティの空気感だって、極めて良い。……ように見える。
しかし、ふと落ち着いてこの状況を眺めるとき、自分はそこに何か危うさのようなものを感じることがある。そしてそれは、2023年の秋頃あたりからずっと、自分の内で見え隠れしているらしい。この得体のしれないナニカは一体どういうものなのか。その輪郭を捉えてみたい。というより、捉えなければいけないような、そんな義務感が自分の足首を後ろからがっしりと掴んでいる。このままでは三度目の東京ドーム公演を観に行くことができない、とまでは思わないまでも、やはり、このような状態のままで、あの場所での公演を観たいとは思えない。後に触れることになるが、東京ドームはグループにとって、というより、グループを見続けている自分にとって、因縁とも言えるような場所になってしまっているのだから。
自分の内でたびたび顔をのぞかせてくるナニカ。これを捉えるには、グループの「今」をしっかりと見定める必要がありそうだ。そして、そのためにはグループの「今」に至るまでの道のりを捉えることが欠かせない。このとき、積み重ねてきた数々の制作をあらためて読んでいく営みは大きな助けになると思う。グループ、そしてメンバーの状況そのものと制作内容の間に密接な繋がりを見いだす読み方は(これから言及していくことになるが/ならざるをえないが)極めて危険な側面を持つ。しかし、アイドルというコンテンツの根底にある前提、様々な二重性を前にして、両者の繋がりを否定することはできない。表現する側も、表現を受け取る側も、表現自体に全く影響を受けないなんてことは現実的に考えられない。
ゆえに、こういった読み方には少なくない意味を見いだせる。
絶好調に見える「今」この瞬間の解像度を上げるために「過去」を読む。そして、既に記したように、そこに通底するは一貫してアイデンティティに関する問題なのだから、これを捉えようとするうえで、現実の世界に生きる人間たちが辿ってきた価値観、思考様式の変化、その歴史は当然ながら参考になる。
というわけで、遠回りにはなるが、まずは「近代」という時代に生きる人間の姿を粗描するところから話を始めたい。
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個人主義の社会に生きる私たち。
科学技術と啓蒙思想の発展、それらに端を発する産業革命と市民革命によって用意された「近代」という舞台。その壇上に上がる「自由」で「平等」な個人としての人間たち。宗教、階級、伝統、共同体といった、これまでの社会において人間を厳格に規定していたさまざまな枠組みが瓦解していくなかで、人間は「自由」と「平等」を獲得する。そういう人間を構成単位とする、個人主義の社会ができあがる。
「今」に生きる私たちはみな、それぞれが固有の意志を持ち、それに基づく価値判断を行っている、という自覚症状がある。ゆえにそれを前提とし称揚する「自由」で「平等」な個人主義の社会という発明は、私たちにとって大きな価値がある……という常識を私たちの多くは持っている。
しかしこの発明は、必ずしも良い影響のみをもたらすものでは無い。
社会において人間を外側から規定するさまざまな表面上の枠組みが取り払われることで、その中に生きる人間は「自由」と「平等」を獲得する。認識を持つ。それは、みな等しく、剥き出しの個人になるということでもある。自分という存在を位置づけるものや、自分が価値判断を行う際に持ちいる物差しは、自らによって自分の内側からそれぞれが見いだすものだと捉えられるようになる。個人主義の社会は私たちに「自分らしく生きよ」とだけ、優しく、そしてぶっきらぼうに言い放つ。
ここに根本的で致命的な問題がある。
他の動物に比べて極めて未熟な状態で生まれてくる人間は、他者からの働きかけ(=社会において自らを外側から規定するさまざまな枠組み)によって自らのアイデンティティを徐々に形成していくしかない。もっとも根源的な話をしてしまえば、私たちは言語を用いて思考する、世界を意味付けていくが、その言語からして、もとより自らのうちにあるものではない。人間は他者から与えられた借り物の言語を用いることでしか、思考することができない。世界を認識することができない。精神分析学者、岸田秀の言葉を借りれば「人間は本能のこわれた動物である」。
私たち人間が健康的に生存していくためには、この問題を乗り越える必要がある。しかし「自由」で「平等」で「自分らしく生きよ」とだけ言い放つ個人主義の社会が広く浸透し、それが素朴に捉えられるようになるとき、その道は固く閉ざされてしまう。
たしかに、宗教、階級、伝統、共同体といった枠組みは、個人の意志を抑圧する機能を有している。しかし、それらは人間それぞれのアイデンティティを外側から規定する、ある意味、拠りどころでもある。それらを取り払うことで成立し、素朴に捉えられるようになった個人主義の社会において、その代わりとなるものは自らの内側にしかないとされる。ただし、当然ながらそれはかつてのように万人が自明のものとして共有できる類のものではないのだから、したがって、個人主義の社会に生きる人間は慢性的な不安を抱えてしまう。このような話題について政治学者の宇野重樹は、アレクシ・ド・トクヴィルによる議論を参照しながら、以下のように纏めている。
無力感にさいなまれる個人、社会のなかで宙づりになっている個人は、自分という存在を規定してくれる、分かりやすい「何か」を求めずにはいられない。「自由」や「平等」といった概念は実のところ非常に難しい。そしてそれらを前提とする個人主義の社会も難しい。かけがえのないものだと思えると同時に、とても重たい。
私たちは今、非常に難しい時代を生きている。
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欅坂46が描くもの、「欅坂46らしさ」について。
この流れを踏まえたうえで、欅坂46の作品によって描かれていた人間、アイデンティティに関する問題と対峙する個人の描かれ方と、グループ自体が辿ることになった道のりをあらためて捉えていく。欅坂46が描いていた「自分らしさ」、そして「欅坂46らしさ」を巡る問題とはどのようなものか。
絶対的センターというアイコンを作りあげ、先ほど記してきたような時代の地続きにある「今」に生きる個人の潮流に合う、ウケの良いイメージ(例えば、大人に歯向かい、社会に中指を突き立て、もしくは、自己に閉じこもり、どちらにせよ他者を否定することで、自らの立ち位置、「自分らしさ」をなんとか確保しようとする、といったもの)を、分かりやすく前面に出す制作やプロモーションを連続させること、所謂「欅坂46らしさ」の確立は、グループの躍進に大きく貢献した。
特に顕著だったのは、4thシングル『不協和音』と、1stアルバム『真っ白なものは汚したくなる』で間違いない。
表題曲の『不協和音』は言わずもがなとして、カップリング曲の『エキセントリック』、『真っ白なものは汚したくなる』のリード曲『月曜日の朝、スカートを切られた』、どれも所謂「欅坂46らしさ」に溢れている。
それらに続いて発売された5thシングル表題曲『風に吹かれても』は、この行き過ぎたイメージを柔らかくしようとした作品だと捉えられる。
しかしこの楽曲は当時「笑わないアイドルが笑った!」的なプロモーションが音楽番組等において大量に行われた。結果、これまでに積み上げてきた所謂「欅坂46らしさ」というイメージがさらに固まることになった。『風に吹かれても』は発売当時、不評な意見がそれなりに多かったことも付け加えておく。
そして6thシングル表題曲『ガラスを割れ』。すっかり凝り固まってしまった所謂「欅坂46らしさ」というイメージを壊して次の領域に進んで行こうとする楽曲、という読み方をすんなりできる楽曲だが、これも今までの枠組みの中で消化されてしまったように思える。割られるべき「目の前のガラス」は「眼前に広がる理不尽な社会」として捉えられていた。
素朴に捉えられた個人主義の社会に生きる不安な個人に対してドラッグ的な快楽を提供する所謂「欅坂46らしさ」に、自分を含め、多くのファンが熱狂していた。コンテンツの方向性の舵を取る大人たちも、みな、熱狂していた。自身の身体によってこれを表現するメンバー本人たちも、少なからず影響を受けていた。人格形成の真っただ中、多感な時期にあったメンバーにとって、それはもはや必然とも言える。
作品と表現者は固く結びつき、欅坂46の活動は、所謂「欅坂46らしさ」によってがんじがらめになっていった。
このような状況のまずさは明らかだが、そもそも「自分らしさ」という問題についての葛藤に対するアプローチは、所謂「欅坂46らしさ」の中で繰り返し表現されていたような類のもので本当に良いのだろうか、という疑問も大きい。大人に歯向かい、社会に中指を突き立て、もしくは自己に閉じこもり、どちらにせよ他者を否定することで、自らの立ち位置、「自分らしさ」を確保しようとする。それが「自分らしく生きる」ということなのか。繰り返しになるが「自分らしさ」とは、他者の存在を前提にして形成されていくものなのであり、その前提から目を瞑りながら頑なに大切にしようとする自らの思う「自分らしさ」なぞ、実のところ、ただの空虚でしかありえないのではないか。そのような素朴な捉え方のままでいられるのは、せいぜい子どものうちだけなのではないか……
いや、もちろん、そんなことは誰もが本当は分かっている。自分が欅坂46に傾倒したのはちょうど大学を卒業し、社会人になりたての時期だった。満員電車の中でイヤホンを付け、大音量で『エキセントリック』を再生する。居心地の悪さを感じている自分が、楽曲の中の「僕」によって承認されたような気になる。安心する。そして薄っすらと、ある種の恥ずかしさがこみ上げてくる。これでいいのだろうか……
しかし、いちど確立したあまりにも強くて分かりやすい、そして心地の良いイメージ、所謂「欅坂46らしさ」を手放すことはどうしてもできなかったらしい。
8thシングル表題曲『黒い羊』は、まさに所謂「欅坂46らしさ」の最終到達地点として捉えられる。
ところが『黒い羊』は、グループが初めて東京ドームで行った公演「欅坂46 LIVE at 東京ドーム ~ARENA TOUR 2019 FINAL~」において(当時の最新シングル表題曲であったにも関わらず)セットリストから外されていた。タイトルからも分かるとおり、この公演は2019年に行われたアリーナツアーの追加公演としての位置にある。しかし内容は全くもって別物で、そして、このアリーナツアーにおいても『黒い羊』は披露されていない。
そして本公演の話題に触れたからには、そのダブルアンコールで披露された平手友梨奈によるソロ楽曲、『角を曲がる』に注目しないワケにはいかないだろう。この楽曲は極めて異質な立ち位置にあるからだ。
そもそもこの楽曲は最初から欅坂46の名義で世に放たれたものではない、というのがポイントだ。平手友梨奈が主演を務めた『響 -HIBIKI-』という映画が2018年9月に公開され、そのエンドロールで流れたのが、平手友梨奈ソロ名義としての『角を曲がる』だった。この楽曲は映画公開後にCDが発売されるわけでも無く、音源が配信されるわけでも無く、突如一年後の東京ドーム公演、そのDay2、ダブルアンコールで披露され、その後、欅坂46のYoutubeチャンネルにてMVが公開された。
このとき、名義は平手友梨奈から欅坂46に変更された。
自分はそこに、意図を読まずにはいられない。
他者から提示される「自分らしさ」との折り合いをつけられず、どうすれば良いのかが分からなくなり、一人きりで角を曲がる孤独な散歩者。そのすがたはグループが辿ってきた道のりと綺麗に当てはまるように見えてしまうし、「自分の同等者の総体である社会の声に対し、無力感にさいなまれてしま」った、自由で平等な個人主義の社会に生きる、自己矛盾を抱えた個人のどん詰まりとも捉えられてしまうではないか。
『ガラスを割れ!』で始まり、『角を曲がる』で終わる。『黒い羊』にはならない。そういうセットリストが組まれた、東京ドーム公演。このように読んでいけば、東京ドーム公演に際して唐突に提示された「破壊と再生」というテーマや、それに合わせて物販に追加された「Be yourself」とだけ書かれた奇妙なグッズの数々などの裏側に、様々な「含み」を見いだすことができる。
しかし、2024年現在の私たちには分かるとおり、あのとき、グループの再生は叶わなかった。そもそも破壊すること自体ができていなかった。
ファンも、コンテンツの舵を取る大人たちも、そしてメンバーたち自身も、この所謂「欅坂46らしさ」という呪縛を解くことができなかった。
未知の脅威によって社会全体がパニック状態に陥っていたという不運も重なり、発売が延期されていた9thシングル『10月のプールに飛び込んだ』の制作は中止となり、そのカップリング曲として予定されていた『誰がその鐘を鳴らすのか』を形式的に最後の楽曲と位置づけ、欅坂46は幕を閉じる。
いったいどこで道を間違えたのか。何がいけなかったのか。どうすれば良かったのか。欅坂46を捉えなおす試みは既に何度も行っているが、そのたびに心の中にはモヤモヤが残る。そのうえで、時間を少し進めてみたい。
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三作品を通して行われる、やり直し。その下地『桜月』。
櫻坂46の2023年における大躍進を支えた作品、6thシングル表題曲『Start over!』と、7thシングル表題曲『承認欲求』。そして、それらに続く8thシングル表題曲『何歳の頃に戻りたいのか?』。三作連続で表題曲のMVの監督を務めた加藤ヒデジンによれば、これらの作品は一連の流れとして捉えることのできる制作がなされており、そこにはやはり、アイデンティティに関する問題が通底している。
『Start over!』。やり直す。何を?……というよりも、なぜこのタイミングで「やり直す」なのか?という疑問が先に浮かぶかもしれない。改名し、1stシングル『Nobody's fault』で再デビューしてからすでに3年が経っている。まずはこの疑問を解決する糸口を探ってみたい。
注目したいのは『Start over!』が初めて披露されたタイミング。それはグループにとってどういう位置づけで、その直前には何が行われていたのか。
2022年11月、前キャプテン、菅井友香が卒業する。年が明け、グループに新しいメンバー、三期生が加入する。2023年2月に5thシングル『桜月』が発売され、それを引っ提げて回るライブツアーが4月から開催される。その千秋楽直前に『Start over!』のMVが公開され、そして、千秋楽のアンコールが初披露の舞台になる。『桜月』を軸に据えたツアー。新キャプテン、松田里奈体制による初めてのツアー。三期生という、欅坂46だった時期の無いメンバーが加入してから回る、初めてのツアー。その最後にやり直しの宣言が行われる。
2023年4月に発売された雑誌『BRODY 4月号』を読み返してみる。そこでは5thシングル表題曲『桜月』に関する特集が47ページに渡って大々的に組まれており、センターを務めた守屋麗奈やその他メンバーのほか、振付師のTAKAHIRO、MV監督の金野恵利香、アートディレクターの安田晃大が前面に乗り出す形で、『桜月』の制作を、そして、グループそのものを、様々な角度から言語化する営みが展開されている。
表紙に付されるキャッチコピーは「櫻坂46“第二章”開幕」。
『桜月』によって櫻坂46「第二章」の幕が上がる。では『桜月』という楽曲は一体どういうものなのか。あらためて捉えてみることにしよう。
MV監督を務めた金野恵利香によれば、『桜月』のテーマは「別れ」、そして「審美眼」だとされる。これを踏まえたうえで歌詞を読み、MVを観ていく。
大切な人との「別れ」を経験した主人公「守屋」。12人のメンバーによって模された時計が逆向きに回りはじめる。「守屋」はその中心にいる。ときに本を広げ、ときに瞼を閉じ、その人との思い出、過去を振り返っていく。もちろん、過去は美しいだけではない。すれ違い、葛藤、閉塞感、様々な負の側面が想起される。抱いていた夢や理想は思うようにならない。しかし、それらすべてを踏まえたうえで「美しい」と捉えていく。閉じた瞼の先に見える夜空。そこに映る満開の桜。それを見いだす「審美眼」。時計は動き出す。そして、肯定的な新たな一歩が踏み出される。
もはやひとつひとつ、言葉の間を埋める必要は無いと思われる。『桜月』は、まさに櫻坂46の「第二章」その始まりの楽曲として相応しい読みができる、そういう「含み」のある楽曲として作られているように感じられる。
では、新たな一歩が踏み出され、「第二章」が始まり、そしてやり直しの宣言が行われるにあたって振り返られることになった過去、すなわち、櫻坂46の「第一章」とは、どのようなものだったのか。進めすぎた時間を、今度は少し、巻き戻してみよう。
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蓋をすることで行われる欅からの離反、そして軋轢。
所謂「欅坂46らしさ」という呪縛を、グループ名を変更するという荒業によって解こうとした欅坂46→櫻坂46。当時のキャプテン、菅井友香による改名発表のスピーチや、その後の各種メディアにおけるインタビューなどにおいて、否定的な意味での改名では無いということが繰り返し強調されていたが、そもそも通常であれば改名なぞする必要が無いことを踏まえれば、そこに否定的な要因があったことは明らかだ。改名前後、様々な場所で多くのメンバーが葛藤を露わにしていたことからも、それは容易に読み取れる。
これを肯定的に捉えるのであれば、それでも前向きな改名であると主張し続けたのは、欅坂46としての5年間そのもの自体を否定的な形で終わらせたくなかったからだろう、という読みができる。もちろんそれもあるだろう。しかし、ここまでの読みを踏まえるならば、残酷ながら、このように捉えることもできそうだ。グループを取り巻いてたあらゆる立場の人間の手によって、大多数の人間の手によって、所謂「欅坂46らしさ」という呪縛が作り上げられ、それをどうにかして解くべく、グループは改名せざるを得なくなってしまった、という、その事実を認識することで生じてしまう罪悪感。これをうやむやにしようという意図が働いていたのではないか、と。
みなが共犯者で、みながそこから目を背けた。櫻坂46としての1stシングル表題曲『Nobody's fault』。誰のせいでもない。誰のせいでもないが、誰もが、悪い。しかしそれを、包み隠したい。うやむやにしてでも前に進まなければならない。そうでもしなければ、グループ自体が瓦解してしまう。
大切に取っておくというよりむしろ、蓋をして見えなくする。とはいえ、欅坂46としての5年間が無かったことになるわけでは決して無い。
根底部分に処理することを保留にした不発弾を抱えたまま、櫻坂46としての活動は始まる。ゆえにグループが辿ることになる道のり、そして表現は、複雑な色味を呈するようになる。それは深みとして機能する一方で、多くの軋轢を生んでしまう。
所謂「欅坂46らしさ」からの離反、というテーマ。櫻坂46としてのデビューシングル『Nobody's fault』は、その三本柱『Nobody's fault』『なぜ 恋をして来なかったんだろう?』『Buddies』において、それが明確な形で描かれている。他者を否定し、自らの内側に籠る、もしくは分かりやすい何かに飛びつくことで自分を守る、から、矢印を外側に向けること、そして、自らの内に信念を持つことへの変化。
しかし、現実は複雑で難しい。人間は、変わろうとしたところで、なかなか変われるものではない。
矢印を外側に向ければ、当然ながらそこには自分とは異なる存在、自分にはどうすることもできない存在、他者がいる。そして、他者との関わりには必ず、摩擦が生じる。しかしそれ自体を拒否することは前提の否定であり、ナンセンスなのだ。
ゆえに、櫻坂46の「第一章」を締めくくる位置づけにある1stアルバム『As you know?』のリード曲が『摩擦係数』であること、そして『摩擦係数』が現在、櫻坂46の名刺代わりの一曲として位置づけられていることの意味合いは非常に強く感じられる。
所謂「欅坂46らしさ」からの離反を掲げつつも、すんなりそれに順応できるわけもなく、しかしそうであっても、アイデンティティに関する問題について、より現実的な形で、大人として向き合おうとするさま。このような緊張関係にあるからこそ、ときに『条件反射で泣けてくる』のである。
過去に蓋をしつつも、制作においては、過去からの一本の筋が明確に読み取れる。所謂「欅坂らしさ」からの離反。その先へ。
しかし、この一本の筋が分かりやすい形でファンに提示されることは、櫻坂46「第一章」の大部分においてはほぼ無かったと感じる。
過去に蓋をしているのだから当たり前と言えば当たり前なのだが、そもそも、作品の「意味」を前面に提示すること自体が明確に避けられていたことは強調しておきたい。ストーリーや世界観を重視したライブは行われなくなり、楽曲やMVの解釈に関する言語化も抑えられるようになった。それらは「意味」の固定化に繋がりやすいものだから、かつてのようなコンテンツ全体の硬直化を避けるために、といった意図が働いていたのかもしれない。気づけばいつからか「世界観」という言葉は「世界」という言葉に置き換えられるようになっていた。これもおそらく意図的だ。
解釈をファンに全面的に委ねる、それを促すという方針が、コミュニティ内の豊かな土壌の形成に大きく寄与していったことは間違いないだろう。ただし一方で、おそらくこのような方針を選択したがために、グループおよびメンバーと、一部のファンの間で軋轢が生じてしまうケースが少なくなかったということは、忘れずに記しておかなければならない。
例えば、2021年7月9,10,11日と3日間に渡って富士急ハイランド・コニファーフォレストで開催された「W-KEYAKI FES.2021」。このライブの後に起きた騒動は、私たちの記憶にいまだ深い傷を残している。日向坂46との合同開催で行われたライブ、その初日は櫻坂46による単独公演であり、それは改名してからグループ全体で行う、初めての大型ライブだった。
過去に蓋をした櫻坂46は、その時点で持っている櫻坂46名義の楽曲すべてを使って、できるかぎりのパフォーマンスをした。(シングルが二枚しか発売されていないため)そもそも曲数が足りない。偏ったフォーメーションの楽曲しか持っていなかった(=前列八名を固定して最後列のメンバーのみを入れ替えるという、変則的な選抜制度を取っていた)ことから、広い会場に複数設営されたステージを移動する時間を埋められるような、一連のセットリストを組むこともできない。結果、ほぼすべての楽曲の間にダンストラックを挟んでライブを乗り切るという荒業が行われた。
グループはこの苦境をなんとか乗り切った。それを演出するかのように、公演中、降っていた雨は徐々に止んでいった。
しかし、ライブ終了後、一部のファン(それも少なくない数のファン)からは「物足りない」「欅坂のときの曲を聞きたかった」といった声が上がり、それがメンバーたち自身にも届く事態になってしまった。前者の意見に関しては確かに仕方のない部分もある。が、後者については慎重に考えねばならないはずだ。
向いている方向、意識の食い違い。そしてそれは、櫻坂46「第一章」の最終節、2022年11月8.9日に開催された「2nd TOUR 2022 “As you know?” TOUR FINAL at 東京ドーム 〜with YUUKA SUGAI Graduation Ceremony〜」において爆発してしまう。
二度目の東京ドーム。櫻坂46としては初めての東京ドーム。キャプテン菅井友香の卒業の舞台。
その一日目。本編を〆る楽曲『摩擦係数』の終了直後、会場全体が白から緑へと変わっていった。そしてアンコールが明け、菅井友香の卒業セレモニーが始まった。欅坂46時代の『Overture』が流れると同時に、ファンの内で湧き上がった「何か」が放出され、それがどよめきとなった。一曲目『10月のプールに飛び込んだ』のイントロが流れ始めた。その瞬間、誰かの嗚咽、むせび泣く声をマイクが拾っていた。そのマイクはすぐにスイッチを落とされた。森田ひかるはステージ上にいなかった。
そして、二日目。本編後半『Buddies』二番の冒頭、各々が自由にポーズを決める箇所にて、藤吉夏鈴は頭を下げ、その前で手を組み、観客側に向けて祈りを捧げていた。
これらは行われたことの表面を羅列したにすぎず、その裏側は現在に至るまで明かされていない。今後も明かされないような気がしている。ゆえにその真意は読むしかない。そして自分はそれを、櫻坂46の根底部分にある「処理することを保留にした不発弾」という問題が前景化した瞬間であったと捉えている。
所謂「欅坂46らしさ」からの離反を急ぐにあたって過去に蓋をし、その清算を明確な形では行ってこなかった櫻坂46。「意味」を前面に提示することを控えるようになった櫻坂46。しかしここまでに記してきたように、グループやメンバーの振る舞い、表現される作品を見れば、そこに過去と今を繋ぐ一本の筋と、グループが、メンバーが「今」向いている方向そのものを読むことは容易にできる。
そもそも「2nd TOUR 2022 “As you know?”」の本編は『条件反射で泣けてくる』に始まり、『摩擦係数』で終わるのだ。各々がそれらを自らの内によって解釈し、「過去」を消化すること。おそらく期待されていたのはそういうことで、しかし、それはまるで伝わっていなかったのではないか……
そしてその一ヶ月後、2022年12月8,9日に「2nd YEAR ANNIVERSARY ~Buddies感謝祭〜」が開催される。
櫻坂46「第一章」のポストクレジットシーンとして捉えることのできる本イベントは、そのタイトルからも分かるとおり、所謂ファンミーティングのような形式で行われた。そこでは、クリエイティブ面を中心に櫻坂46において多岐にわたる役割を担う、振付師のTAKAHIRO自らがステージに立ち、ライブパフォーマンス、そして、自身が組み立てる振り付けを軸にしながら楽曲およびグループそのものの解説、共有を行う時間が大々的に設けられた。
選ばれた楽曲は、デビュー曲『Nobody's fault』、そして、1stアルバム『As you know?』の収録曲『条件反射で泣けてくる』だった。
なぜ、このタイミングでこのような試みが行われるのか。なぜ「第二章」の始まりが『桜月』で、直後、その解説が雑誌において大々的に特集されるのか。そしてなぜ『桜月』を下地にして『Start over!』、やり直しの宣言が行われるのか。ここまでくれば、すべては言うまでもないことのように思えてしまう。
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アイデンティティに関する問題を、やり直す。
あらためて欅坂46を捉えなおし、櫻坂46の「第一章」を捉えなおし、「第二章」の始まりである『桜月』を捉えなおし、これでようやく、『Start over!』『承認欲求』『何歳の頃に戻りたいのか?』という三部作に向き合う準備が整った。櫻坂46の「今」に向き合うことができそうだ。
6thシングル表題曲『Start over!』。やり直す。
加藤ヒデジンによれば、そのMVの中で描かれるのは「凝り固まったものを破壊するような単純さと無邪気さ」である。
楽曲の主人公「藤吉」は、閉塞的なオフィスの中で書類をぶちまけ、花瓶から花を引っこ抜き、コピー機を落とし、豪快にラックを倒して暴れまわる。中盤、退屈気に佇む「小林」の腕を掴んで引っ張っていき、壁を打ち破り、熱い抱擁をし、スパークラーによって煌びやかに演出された空間で二人だけの世界を踊る。噛み締める。そして「君は僕の過去みたいだな 僕は君の未来になるよ」という一節から、ラストの解放へと向かっていく。
このMVにおいて自分が最も注目したいのは、これら一連の流れが、主人公「藤吉」の内面においてなされる妄想だと読める演出にある。
冒頭部分、肘をついてなにか物言いたげな表情を浮かべる「藤吉」は、鼻血を垂らしながら机に突っ伏してしまう。肘にぶつかった青いマグカップが床に落ち、「藤吉」自身もそれに続く。そして、その直後のカットで無邪気な笑みを浮かべながら起き上がり、上に記したような展開がなされていく。
エンディングの方を見ていくと、この一連の流れの先で、冒頭部分に描かれた床に落ちていくマグカップの絵が逆再生されて机に戻っていく。合わせて、机に突っ伏していた「藤吉」も逆再生で上半身を起こす。そして何事も無かったかのように、元のオフィスのカットが提示される。
なるほど。「藤吉」は実際に暴れ回っていたわけでは無さそうだ。そもそも床に倒れ込んですらいないではないか。机に突っ伏しながら行われる妄想のなかで「凝り固まったものを破壊するような単純さと無邪気さ」が描かれている。そして、妄想を終えた「藤吉」は垂れる鼻血を手首でぬぐい、左の口角を血で赤く染めながら、含みのある笑みをこちらに向ける。
足踏み、心臓の鼓動、そして、鼻血。『Start over!』の主人公は、自らの内面において「自由」で主体的な自分を発見し、高揚感を感じている。そういう読みができそうだ。このような話題について、政治学者のフランシス・フクヤマは、著書『IDENTITY 尊厳の欲求と憤りの政治』の中で「「アイデンティティ」という概念の登場は、社会の近代化が始まるとともに現れた」と捉えながら、以下のように記している。
外面の自己、つまり、宗教、階級、伝統、共同体といった社会の枠組みによって定められる自分から、内なる自己=「ほんものの自分」への意識の移行。そのような枠組みを取り払っていくことと社会の近代化は密接に繋がっているのだから、近代に生きる人間において、枠組みによって定義されない内なる自己への意識が高まるのは必然と言える。
そしてフクヤマはこのアイデンティティという概念の登場を宗教改革と結び付け、この概念、人間の外面と内面を区別し、このうち内面の方を重視するという考え方の出発点になる人物が、宗教改革の中心人物、神学者のマルティン・ルターだと指摘する。
ルターによれば、カトリック教会が提示する儀式や行いをいくら重ねたところで、それは外面を取り繕うものにすぎず、人間に真の変化をもたらすものでは決して無い。なぜなら神の恵みは、神の自由な愛の行為によってのみ授けられるのだから。人間は目に見えない内面の信仰によって義とされる。
しかしフクヤマは、ルターはあくまで出発点にすぎず、現代のアイデンティティ理解からは遠いところにあると捉え、理由を次のように纏めている。
ここで私たちに馴染み深い言葉が登場する。そう「承認」である。キリスト教の精神を前提とした人間の外面と内面の区別、そして内面の重視は、その前提からして、着地点を神からの「承認」と設定する。ゆえにこの前提が崩れれば、当然ながらその着地点も変化していく。ここまでを踏まえたうえで、7thシングル表題曲『承認欲求』を捉えたい。
『承認欲求』のMVは、主人公「森田」が教会で祈りを捧げながら平穏な顔付きをしているカットから始まる。しかし「森田」は直後、イラつきを感じる。掛けていたメガネを床に落として、踏み潰す。ダンスシーン。舞台は聖堂から画廊へと移行する。展示されている絵画の数々は、画面右側から左側に向けて流れる一本の時間の筋を感じさせる。そして中央部、モネの『睡蓮』を背景にして「森田」の遊離が描かれ、ラストのダンスシーンに至る。
社会の近代化と、人間の思考様式の変化。その出発点についてフクヤマがルターの宗教改革に着目したように、哲学者のハンナ・アレントは著書『人間の条件』の中で、ガリレオ・ガリレイによる天体望遠鏡の発明を強調している。
天体望遠鏡の発明は世界の解像度を飛躍的に上げる。しかしそれは、人間の素朴な認識(例えば、地球の周りを星々が回っているように見えるという確かさ)の正しくなさが明らかになることとの背中合わせでもある。
そして、神の被造物たる人間、神の派出所たる人間の理性によってもたらされたこの認識が正しくないのであれば、神という絶対的なはずの前提部分にも揺らぎが生じるようになってしまう。
冒頭部分、教会で祈りを捧げる「森田」が着用し、直後に踏み潰すメガネという小道具と、アレントが『人間の条件』の中で採り上げるガリレオの天体望遠鏡は重なっているように見える。神からの「承認」に頼れなくなった人間は、内面の自己を「承認」してくれる代わりの何かを求めずにはいられない。慢性的な「承認欲求」にさいなまれる。
そして象徴的に映る、モネの『睡蓮』。
印象派と呼ばれた彼らが制作において重視したのはその名のとおり、個人が抱いた印象、主観であった。思考様式の変化が芸術の分野に対しても多大な影響を与えたことは言うまでも無い。近代の画家たちは徐々に既存の秩序から離れ、自らの主観を重視した制作を行うようになる。しかし、主観を重視すればするほど、できあがる作品の価値を担保する足場は崩れていく。客観性が薄れていく。当然ながら「承認」は得られにくくなる。印象派の技法によって作られた絵画空間は、主観と客観の力関係が極めて拮抗した場なのであり、だからこそ、それを背景に「森田」の遊離は描かれる。
加藤ヒデジンの言葉を読んでみる。人から決めつけられるもの、社会から決めつけられるもの、それらは、自らに押しつけられる「他者からの承認」と括ることができそうだ。しかし、その価値を絶対的なものとして担保してくれる足場はもうどこにもないのだから、そんなあやふやな「承認」でいくら自分を武装したところで、というより、武装すればするほど、自分という存在はどんどん不明瞭になっていく。不明瞭な私、私ではない私が暴走する。私ではない私の意思に敷かれる、この私。
「承認欲求」は治まらない。むしろ、それを埋めるために得ようとする「承認」によって、私がどんどん蝕まれていく。
『Start over!』の中で描かれる、自らの内面にある「自由」で主体的な自分を発見する人間。高揚感を感じる人間。しかしそれは同時に、満たされることのない『承認欲求』という呪いを抱え込んでしまう。この呪いを根本的な形で解くことはできるのか。そして、それがもしできないとしたら、私たちはどのようにしてこの呪いと向き合っていけば良いのか。(7thシングル『承認欲求』のカップリング曲として収録されている三期生楽曲『マモリビト』は、その糸口のひとつを提示する楽曲としても捉えられるが、その話はまた別の場所で行いたい。)
櫻坂46の「第二章」、アイデンティティに関する問題をやり直す。それは作品の中であらためて描かれていく問題であると同時に、グループの在り方そのものの問題でもある。櫻坂46とは。「櫻坂46らしさ」とは。
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『何歳の頃に戻りたいのか?』と、櫻坂46の「今」について。
こうして三部作の最後、8thシングル表題曲『何歳の頃に戻りたいのか?』にたどり着く。作品の中で描かれるもの。それを表現する櫻坂46の「今」。それは一体、どのようなものなのか。そこから何を、読めるのか。
8thシングル表題曲『何歳の頃に戻りたいのか?』。そのMVにおいて描かれる世界は、主人公「山﨑」を震源とした極めてポジティブに見える色味の変化で溢れている。
屋外の飲食店。主体性に欠ける複製的なウェイターの集団と、それに冷ややかな視線を向ける客たちがいる。後者の服装は差異こそあれど似通っており、そういう意味ではどちらも複製的だと捉えられる。その中で唯一固有の色を示す「山﨑」は、ウェイターたちの方へと走り寄り、自らの踊りを見せつける。導かれるウェイターと、それに触発されて動を示す客たち。
舞台は室内のレストランに移る。先ほどのウェイターの衣装に身を包んだ「山﨑」が一人、他のウェイターや客たちの中心で踊っている。ウェイターと客、それぞれ一人ずつの腕を掴んで舞台に引っ張り上げる。見つめ合うウェイターと客。初めは敵対するように、直後、呼応するようにパフォーマンスが行われる。それを見ながら得意気な表情を浮かべる「山﨑」が映る。衣装は既に固有の色を示すもの(それでいて、先ほどとは違うもの)に変化している。そして自分もと言わんばかりに立ち上がり、場のすべての人間を巻き込んで踊り出す。みな、充実感に満ち溢れ、自由に体を動かしている。その中心にいる「山﨑」は至福の顔付きで床に寝ころび、その後、担ぎ上げられる。
最後、舞台は再び屋外に戻り、室内でのシーンと同様にすべての人間によるパフォーマンスが行われる。中心にはやはり「山﨑」がいる。表情の方向性も変わらない。しかし決定的に違う部分もある。これはある意味で最も注目すべき点かもしれない。それは、すべての人間の動きが綺麗に揃い、整っているということだ。そして、すべての人間が楽しげで、輝いている。
これらのシークエンスを挟むように、バーに一人座る「山﨑」のカットが提示される。
加藤ヒデジンによれば、『何歳の頃に戻りたいのか?』のMVは「自分は何色にも染まれる同調の支配」であり「締めは救済」であるらしい。『Start over!』からの流れで「利己から利他になっていって」いるらしい。
不自然さを感じる妙な言葉選びがされているように感じられるため、あらためてMVを振り返りながら、これらをひとつずつ捉えていきたい。
「何色にも染まれる」。これは非常に分かりやすい。主人公「山﨑」はその身を包む衣装からして明らかに、他とは別枠の存在としての確固たる地位を与えられている。「山﨑」は固有の色を示す存在として、それも、無数の固有の色を示せる存在として世界に立つ。複製的なウェイターにも、なることができる。
「同調の支配」。何色にも染まれる「山﨑」の手によって、世界は充実感溢れるものに変化していく。なるほど。悪く聞こえる言い方にはなってしまうが、「山﨑」が周囲の人間を「山﨑」自身への「同調」の方へと(意識的にではおそらく無いにせよ)導いており、それを「山﨑」による場全体の「支配」という言葉で表すことは可能と言える。
「締めは救済で」。終盤において、中盤からの変化をもって明確に描かれる、同調によって(=自らの立ち位置が確保されて)充実感に溢れている人間たち。その中心で悦に入る「山﨑」。確かに「救済」という言葉は相応しいのかもしれない。
「利己から利他に」。そして最後に「山﨑」が利他の行動原理で動いているという捉え方がされている。利他の行動原理によって「救済」の手を差し伸べる「山﨑」。利己的な「自由」を妄想する『Start over!』から、利他の行動で「自由」を実際に獲得する『何歳の頃に戻りたいのか?』へ。
なにやら雲行きが怪しいのではないか。
『何歳の頃に戻りたいのか?』のMVは一見、非常に前向きでポジティブな印象を私たちに与えてくれる。描かれているものひとつひとつの表面は輝きに満ち溢れている。ところが、このように監督の言葉をひとつずつ捉えながらそこで行われている事柄を読み進めていくとき、そこからは意外にも、ぞくりとするような概念が想起されるようになっていく。
大衆社会。カリスマ的リーダーの称揚。全体主義。例えば、こういった言葉で表すことができる概念。もちろん、これらの概念を軸にして『何歳の頃に戻りたいのか?』のMVが制作されているのである、などと声高に主張したいワケではまったくない。繰り返すが、監督の言葉をひとつずつ捉えながらMVを読み進めていくとき、こういった概念が想起されるようになる、とだけ言いたいのだ。そしてこれは実のところ、まったくもって突飛な発想ではない。
アイデンティティに関する問題にフォーカスして『何歳の頃に戻りたいのか?』という作品を『Start over!』からの流れで捉えようとするとき、つまりは、自らの内面にある「自由」で主体的な自分を発見し、同時に『承認欲求』にさいなまれるようになった人間、それらを構成単位としてできあがる社会の、その先の姿が描かれているのではないか?といった切り口から『何歳の頃に戻りたいのか?』を捉えようとするとき、こういった概念は予定調和的に顔を覗かせてくる。実際の人間の歴史が、そのような道のりをすでに辿っているからだ。
例えば、アレクシ・ド・トクヴィルが『アメリカのデモクラシー』の中で予言し、フリードリヒ・ニーチェが『ツァラトゥストラはこう語った』の中で物語として描き、オルテガ・イ・ガセットが『大衆の反逆』の中で正面から向き合い、そして、ハンナ・アレントが『全体主義の起源』の中でこの悪夢が現実と化す有様を生々しく残している。
もちろん自分は、それらと櫻坂46の「今」の在り方がピタリと重なるとは微塵も考えていない。櫻坂46の「今」が全体主義的であると言いたいワケではまったく無い。しかし、その萌芽を見いだせないわけでは、残念ながら無い。なるほど、櫻坂46の「今」に対して自分が薄っすらと抱いている危うさは、おそらくそういう部分にあるのかもしれない。
ここで『何歳の頃に戻りたいのか?』の歌詞の方にも注目してみる。そこでは、前を向くことを極めてポジティブに捉えている人間が描かれている。
しかしそれは、過去を否定的に捉え、さらには未来についても深くは考えず、とにかく、前を向いている「今」を強調する人間でもある。
近代化に際して既存の枠組みがひとつずつ取り払われ、それによって(平たい言い方にはなるが)社会が発展していくなかで、人間は自らの歴史という枠組み、参照軸をも解体してしまう。
微かなリグレット。あらゆる価値の判断基準が曖昧になり、自らを規定してくれるもの、拠りどころとなるものが無くなり、それによって翻弄される人間たちによって作られる社会。大衆社会。そして、そこに忍び寄る、甘美な囁き。全体主義。数字の魅力。新しさ。
こうしてみると『何歳の頃に戻りたいのか?』は、開き直りの楽曲としても捉えられるようになってくる。
自らの立つ足場、自らの「意味」や「価値」、アイデンティティがぐらついているのは仕方がない。だから前へと進んでいこう。前へ進むために、過去は否定しておこう。とはいえ行き先が分からない。でも、そんなことはどうでもいい。とにかく前へと進めばいいんだ。過去を否定し、未来を気にせず、「今」の自分を強調するものの、そのようにして強調される「今」は過去と未来から断絶されているために、その「意味」や「価値」を支える土台が極めて脆い。かといってそのことには触れず、とにかく前を向いて動いていく。動き続けている限り、動き続けていられる限り、自らの足元に目を向ける必要は無い。足場が崩れる前に次の足場に飛び移れるのなら、なにも問題無いではないか。
そして「数字」や「新しさ」といった指標はとても分かりやすいから、動くにあたっての指標として簡単に飛びつける。それらが足場を支える役割をも果たすだろう。しかし当然ながら、それら自体は一面的で、曖昧で、移ろいゆくものであるために、持続性がまったく無い。飛び移った先にある足場は、これまでと同様、極めて脆い。
ゆえに新しい「数字」、新しい「新しさ」を常に求め続けることを余儀なくされる。そして、それを糧にして、前へ進み、続けるしかない。脆い足場から脆い足場へ。その繰り返し……
こうして「今」の自分を支える「意味」や「価値」が脆くなっていく。アイデンティティが崩れていく。それは「今」の櫻坂46が行う、表現の傾向に繋がる話でもある。確かに「意味」への偏重はコンテンツ全体の硬直化を招く。かつてそれによって辛い経験をしているのだから、そこからの離反は望ましい。しかし、それを極度に押し進めようとするのであれば話は変わってくるだろう。
もちろん「今」の櫻坂46のスタンスがそちらに振り切っていると言いたいワケでは決して無い。しかし、向いている方向自体は(どちらかと言えば)そちら側なのであり、そしてそれは意識的に行われている。「第二章」における櫻坂46は、ライブ終了直前のMCなどにおいて、コンテンツによって得た活力を糧にして日々の現実を生き抜くよう、ファンに促すことが非常に多い。コンテンツに埋没させるのではなく、現実に引き戻す。自らの立ち位置を、ある意味でファン各々の痛み止め的な立場として強調することが多い。
いや、自分はそれに否定的なワケでもまったく無い。むしろ、エンターテイメントというコンテンツの在り方としては健康的で、良い傾向だと思っている。過去を踏まえても、「意味」を軽くすることはある程度、望ましい。
しかし「意味」を軽くしすぎることは、自らの立つ足場、アイデンティティを確保するにあたり、「数字」や「新しさ」といった、一面的かつ曖昧で移ろいゆくものへの依存を強めることに繋がってしまうのではないか。それによって、グループの立つ足場が脆くなってしまうのではないか。
なるほど、櫻坂46の「今」に対して自分が危惧しているのは、おそらくそういうところにありそうだ。
そして、慎重に話を進めると、そもそも自分は、「今」の櫻坂46が立つ足場は、様々な「意味」や「価値」によって十二分に堅固なものとして構築されていると感じている。ゆえに、この足場が今後脆くなっていく「可能性」に対して、不安を感じているのだと思う。
キャプテン、松田里奈はこのような話を頻繁に強調する。
確かに「今」の多くのファンは櫻坂46というコンテンツに対して、各々がそれぞれ固有の強固な「意味」や「価値」を見いだしているように見える。多角的に「意味」や「価値」が捉えられ、それらが「櫻坂46らしさ」というひとつの言葉の元に集結している。この分厚い「櫻坂46らしさ」は、コンテンツが立つ足場を堅固にする芯の部分になっている。この足場は表現を行う側による働きかけのみによって作られるのでは無い。表現を行う側とそれを受け取る側という、双方向からの力によって作られる。だからこそグループが、メンバーが、表現において「意味」や「価値」の提示を軽くしたとしても、ファンの受け取り方次第でこの足場はしっかりとしたものになる。
実際、「今」の櫻坂46が立つ足場は非常に安定している。
ここで補足したいのは、コンテンツの立つ足場が作られるにあたって、表現を行う側と受け取る側の間にある力関係は、前者による積極的な働きかけによって途端に差が生じる傾向にある、ということだ。それは受け取る側の無力化に、そして思考停止や全肯定の道へと容易に繋がってしまう。これは否定のしようがない。かつてあった、コンテンツ全体の硬直化の背景には、このような前提が多かれ少なかれ含まれている。
だからこそ、櫻坂46は改名以降「意味」や「価値」の提示を控えるようになり、受け取る側であるファンにそれを委ねる、促す方針を取るようになったのではないか。そしてこの方針からは、グループの、メンバーの、ファンを全面的に信頼する姿勢をも読み取ることができる。
しかし、櫻坂46の「第一章」においてたびたび前景化した軋轢の数々は、その信頼に曇りを生じさせた。ゆえに、表現を受け取る側=ファンに「意味」や「価値」を見いだす下地を提供するという程度に、「意味」や「価値」の提示を意識的に行った。そのうえでファンにそれを委ねる、促すという方針を『Start over!』。やり直した。
櫻坂46の「今」の多くのファンの内には、この下地がしっかりと根付いているように思う。この下地をもとにして、各々がそれぞれ固有の強固な「意味」や「価値」を積極的に見いだしている。そして櫻坂46の、この「今」の状況を、心の底から大切にしようとしている。守ろうとしている。その姿勢がコミュニティの中で共有されている。それはイベントに足を運び、会場の空気に触れれば即座に分かることだ。
この状況は決してアタリマエではない。むしろ奇跡のような状況だ。過去を振り返れば、それもすぐに分かることだ。過去の記憶が根強いから、もしくは「意味」や「価値」を見いだす下地を与えられる過程でそれを学んでいるから、実際には振り返らずとも分かってしまう。この状況はアタリマエではない。だからそれを大切にしたい。守りたい。
ファンコミュニティの全体で「数字」を回してコンテンツの勢力を広げることに尽力し、それが健康的な盛り上がり方を(現状)見せているのも、おそらくはこのような前提があるからこそのように思う。
根底部分でコンテンツに対する姿勢を共有した各々が、それぞれ固有の強固な「意味」や「価値」を積極的に見いだし、それによって多角的に捉えられる「櫻坂46らしさ」という素晴らしさ。この誇らしいグループを、多くの人間に知って欲しい!
しかしここで一旦、私たちは慎重にならねばならないようにも思う。「数字」という指標は分かりやすく、効果も極めて大きいために、それは危険でもあるからだ。現代において万人に共有できる「意味」や「価値」の指標がもはや、金銭を稼げるか否か、再生回数が多いか少ないか、くらいしか見いだすことが現実的に困難なことからも明らかなように、「数字」という極めて分かりやすい指標の前景化は、その他の指標を容易に包み隠してしまう傾向性を備えている。であるならば、私たちはこの「数字」というものを注意して取り扱わねばならないのではないか。
各々がそれぞれ固有の強固な「意味」や「価値」を積極的に見いだし、しっかりと足場を固め、それを「数字」という分かりやすい指標でブーストすることで勢力図を拡大している現状に、自分は良さを感じる。しかし、各々がそれぞれ固有の強固な「意味」や「価値」を積極的に見いだす姿勢、コンテンツ全体を大切にしようとする姿勢、それらが今後、弱くなる可能性が少なくないとしたら?それによって、コンテンツの立つ足場が脆くなってしまう可能性が少なくないとしたら?
各々がそれぞれ固有の強固な「意味」や「価値」を積極的に見いだす姿勢や、コンテンツ全体を大切にしようとする姿勢は非常に重要であるように思う。しかし「数字」や、それによって増えた多数の新しいファンの存在は、コミュニティの中で広く共有されているそれらの姿勢、それが多数派であるというこの状況に揺さぶりをかける。
まずは前者。繰り返しになるが「数字」にはすべてを包み込んでしまう魔力がある。そのくせして、それは一面的かつ曖昧で、そして移ろいゆくという厄介な性質を併せ持つ。ゆえに、現状、各々によって見いだされているそれぞれ固有の強固な「意味」や「価値」が、徐々に「数字」へと置き換わっていく未来が容易に想像できてしまう。その未来は極めて不安定で、もしかしたら、私たちはすでにその未来に足を踏み入れているのかもしれない。現実の歴史は無慈悲にそれを裏打ちする。
(新しいMVが投稿されるにあたり、即、再生回数を増やすことについてのロビー活動が声高に行われ、それが大量に拡散され、実行され、結果として「数字」の話題がタイムラインの主流になる、という、今やお決まりの潮流について、自分はその重要性を認識すると同時に、ある種の寂しさ、虚しさ、そして恐れを感じてしまう。)
続いて後者。(もちろん、新規のファンの存在そのものを悪いと言いたいのでは決して無い、ということをあらかじめ強調したうえで話を進めるが、)新しく増えた多数のファンは、自らの内にコンテンツとの時間の積み重ねが少なく、コンテンツ自体が持つ歴史、それによって醸成された・されている空気感、文化のようなものについても、ほぼ知らない状態にある。したがって、彼ら彼女らは、それぞれ固有の強固な「意味」や「価値」を積極的に見いだす姿勢を取るために必要な下地を、当然ながら持っていない。この状況がアタリマエではない、という認識も無いために、それを意識的に大切にしようとする感覚も、持ちようがない。
なるほど。「今」このタイミングにおいて極めて重要なのは、あらためて「今」の足場をしっかりと固めることのように思える。櫻坂46は「今」、極めて調子が良い。過去を捉え、進むべき未来を考え、その間にある「今」を固める必要など、一見、まったく不要だと思えてしまう。調子が良いんだから、何も気にせず前を向いて動き続ければ良いじゃないか。私たちなら大丈夫!!『何歳の頃に戻りたいのか?』はそれを後押しする。
しかしそれは、下地のあるファンが多数派であるという前提に基づいた、極めて危うい発想ではないか。
改名から菅井友香卒業までの「第一章」と、その流れの先にある「今」の大きな違いは、コンテンツ全体が大きく広がり、新しいファンが増え、そしてその中で「数字」の持つ力が共有されたという点にある。であるならば、グループが『何歳の頃に戻りたいのか?』を高らかに歌い上げ、それをファンが素朴に捉え、全体として充実感に満ち溢れている勢いづいた「今」というこの状況はむしろ、これまでの中で一番、危ないのかもしれない。
『何歳の頃に戻りたいのか?』は、そのライブパフォーマンスにおいて山﨑天が一人きりでポーズを決めるという終わり方が設定されている。他のメンバーは全員、左右に捌ける。どうして一人きりなのだろう、という疑問が浮かぶ。激しいダンスを終え、呼吸の荒い音が聞こえる。凛として立つ、というよりは、なんとか静止している、という感じがする。自分はそれを見るたびに、うっすらと不安を感じてしまうのだ。
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『何歳の頃に戻りたいのか?』の、その先へ。
最後に、グループのこれからについても少し考えてみたい。先日、9thシングルの発売が発表され、その表題曲のタイトルは『自業自得』であった。
産業革命と市民革命。社会の枠組みが瓦解していく中で、個人主義の社会ができあがる。しかし、そこで想定された自由で主体的な個人、剥き出しの個人は強い不安にさいなまれ、たちまち、その在り方は大衆へと変わっていく。農村から都市へ。大衆社会の成立。イデオロギーの乱立。忍び寄る全体主義。数多の戦争。そして、世界全体を包み込むことになる資本主義。それを加速させる新自由主義的な経済政策。人間の原子化はさらに加速していく。資本主義は確かに大きな発展をもたらすが、その代償が極めて甚大であることは言うまでも無い。しかし、大きな発展の過程にあるとき、自らが立つ足場の状態を気にする必要は無い。前へ進めばいいのだから。そして、実際に前へ進めているのだから。では、前に進めなくなったら?
そのときに気づく。自らの立つ足場が極めて脆くなっていることに。問題を社会全体で解決できるような余裕はもはや無い。あらゆる問題は個人の問題へと巧みにすり替えられる。声高に「自己責任論」が語られる。すべては「自業自得」であると。
そういう「今」に私たちは生きている。「自業自得」だと社会から非難される個人。「自業自得」だと自らを非難する以外の選択肢が無いことを自明視する個人。糸口。諦念。離反。作品においてどのような切り口でこの言葉が描かれるにせよ、アイデンティティに関する問題はやはり続いていきそうだ。そしてそれは櫻坂46の「未来」を映す、かもしれないし、そうではないかもしれない。
おそらく、来たる東京ドーム公演が初披露の舞台になる。半年ほど抱えていた何かをなんとか掴むことができた「今」なら、それを落ち着いて捉えることができそうだ。
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