「今」の櫻坂46について自分が思うことをようやく整理する。 ~欅坂46時代編
櫻坂46の話をしたいので、その前身である欅坂46の話をする。
まずは導入から。
2018年4月6~8日開催「欅坂46 2nd YEAR ANNIVERSARY LIVE」
自分が初めて欅坂46の現場に足を運んだライブ。2016年にデビュー曲『サイレントマジョリティー』のMVを見てから興味自体はあり、情報こそ追ってはいたものの、そのときは別の現場に通っていたため、自分の初現場はこのタイミングになった。理由は特に無くて本当に単なる思い付き、偶然。
そしてそこで披露されたのが、
キャプテン菅井友香センターによる『不協和音』。
今思い返してみると、あの衝撃を最初に食らっていなかったとしたら、こうして今櫻坂46に対してズブズブにはなっていなかったように思う。それぐらいの気迫が、あの『不協和音』にはあった。
さて、そんな菅井友香が卒業する。
欅坂46が始まり、終わり、櫻坂46としてリスタートして、そしてその第1章がここで終わろうとしている。もうすぐ3期生も加入してくるし、いよいよ櫻坂46としての第2章が始まっていくのだな、という感じがする。
自分としては、彼女が先頭に立って引っ張り、纏めてきたこのグループを彼女が去った後も大事に見続けていく気満々なのであるが、ところで最近、そろそろこのグループのことをしっかり一度、欅坂46から櫻坂46の「今」に至るまでの流れで捉え、整理しておきたいなと思うようになった。
『サイレントマジョリティー』のMVを初めて見てから早6年半(といっても色々と調べるようになったのは1stアルバム『真っ白なものは汚したくなる』を買ってからで、ライブに行くようになったのは前述のとおり2018年4月からなのだが)。色々なことがあり、そのときそのときで多くの感情を経験したが、やはり「改名」というのは最も大きなポイントで間違いない。そしてこの件に関して、当時の自分が思っていたであろうことと、今の自分が思っていることはだいぶ違う。
それは櫻坂46としての1年目2年目を見続けてきて、自分の中で思考の変化が生じたことによるものが大きいのだが、さて、その思考の変化とは具体的にどのようなものか。それをもたらす櫻坂46の1年目2年目とはなんだったのか。そして、そもそも欅坂46はなぜ「改名」することになったのか。こういう話について「今」の自分がどう解釈しているのかということを文章化して整理したい。これはおおよそ自己満足のためなのだが、一応、実用的な理由も内包している。
というのも現在の自分は、自分が大好きなこの櫻坂46というグループの事を周りの人に紹介したい・オススメしたい、という欲がとても強い。であれば、自分の中でちゃんと情報を整理しなければならない。
とはいえ、「今」の櫻坂46の魅力を伝えるために、欅坂46の話をする必要はあるのか?つまりは、ガッツリ過去の話まで遡ってする必要があるのか?これが大アリなのだ。なぜなら自分は、櫻坂46の「今」は欅坂46の地続きにあり、それがあるからこそ櫻坂46の「今」が面白い、という視点を持っているから。自分にとって、櫻坂46の話をするうえで、その前身たる欅坂46の話を避けて通ることは不可能なのだ。
櫻坂46としての1年目は欅坂時代の話をすること自体がタブー視される空気感があり、こういう話はしにくかった。今はそれも落ち着いてきた。ちょうどいいタイミングなのではないか。
さて、そろそろ本題に入る。まずは、2020年9月4日に公開された欅坂46のドキュメンタリー映画「僕たちの嘘と真実 Documentary of 欅坂46」をとっかかりに話を始めようと思う。
欅坂46というグループが始動してから改名に至るまでの過程を、時間軸まで無視した大体な編集と要所要所に挿入されるアイロニカルなライブシーンで見事に表現したドキュメンタリー映画「僕たちの嘘と真実 Documentary of 欅坂46」。このドキュメンタリー映画は全体的に作為の跡が色濃く見える作りになっているため、資料としての使い勝手はイマイチ……だし、所謂「ファン」目線での評判もよろしいものではない。が、その中でもひとつ個人的に強く印象に残った一連の流れがあり、それがこのセリフの前後部分。
「大人の責任ってなんでしょうね?」という質問を、監督・高橋栄樹がTAKAHIRO先生(欅坂46・櫻坂46のほぼすべての楽曲の振り付け、ライブステージングを担当している)にぶつけたときの返答が上記のもの。そこからTAKAHIRO先生はさらに「どう思いますか?」と言葉を続ける。そしてカットが変わり、1期生21人が「さくら坂」を背景にして横1列に並び、こちらをじっと見つめるシーン。数秒間の無音。
このTAKAHIRO先生の返答は映画公開当時やや物議を醸していて、自分もまぁなんだか腑に落ちない部分があるよなという思いをした。それはなぜか。このあたりの話をちゃんと文章化するためにはさしあたり、まずは唐突に出てきたあの抽象的な質問内容を具体的にかみ砕く必要がある。責任を問われている「大人」とは具体的にどういう立場の人間なのか。そもそも何についての「責任」なのか。
まずは「責任」という言葉について。
これについてはシンプルな解釈で良いと思われる。このシーンに至るまで、グループが上手く活動できない状況を長々と描いてきたのだから、それに対して「大人」が為すべきコトはなんだったと思いますか?という話。
続いて「大人」について。まず、明らかなのは「大人」=「運営サイドの人間」という捉え方がある。
彼女たちは日々、沢山の「大人」(=「運営サイドの人間」)に囲まれながら仕事をしている。沢山の「大人」は彼女たちを使って仕事をし、金銭を稼ぎ、その一部を給料として還元している。この関係性を文字で読むかぎりでは、一般的な企業と従業員との間に生じるそれと同様にも思えるが、それとは明確にニュアンスが違う、ということをまずは強調しなければならない。
なぜなら、この「坂道アイドル」というビジネスは、メンバー(しかも多くが未成年)の生活を、そして人生そのものをパッケージにして商品化するという、言ってしまえば非常に残酷な要素を孕むものだからである。こうした関係性において「大人」(=「運営サイドの人間」)が、メンバーたちを適切に配慮し、マネジメントしていくことが必須なのは説明するまでもない。決して「見守る」だけで良いワケがない。
TAKAHIRO先生のあの返答が物議を醸したのは、「大人」(=「運営サイドの人間」)が彼女たちに対する責任を問われた際の返答がアレ、というのはおかしいのではないか?と、多くの人が感じたからである。自分を含めて。
しかしよく考えてみると、そういった反応は浅はかだったのではないか。あの質問で提示された「大人」を「運営サイドの人間」のことだと安易に決めつけるのは違うのではないか。というのは、冒頭で書いたように、あのシーンの後に挿入されるのはじっと「こちら側」を見つめるメンバーのカットだから。
先に結論を書く。
責任を問われた「大人」というのは、あのときスクリーンの前でコーラを飲みながらのんきに映画を観ていた「こちら側」、つまり自分自身が含まれていたのではないか、という話である。「大人」=「欅坂46の観客・ファン」、それを広く捉えるなら「彼女たちの人生そのものを商品として消費する存在」全体のことを指していたのではないか。
順を踏んでいく。
なるほど、TAKAHIRO先生は「運営サイドの人間」よりの立場の人物ではあるが、とはいえ、その代表として選ばれる人物か?と考えればやや違和感がある。言ってしまえば、彼はあくまで振付・演出を担当しているにすぎない雇われの指導者。外部の人間なのだ。彼がグループのパフォーマンス内容の多くを考えているのは間違いないが、とはいえ最終的な決定権自体は持っていないだろう(実質的には持っているのかもしれないが……)。つまり「大人」=「運営サイドの人間」という解釈では、その代表としてTAKHIRO先生があの質問をされること自体、変なマッチングになっているのである。
そして、TAKAHIRO先生の立場・人物像を捉えるにあたり、単に「振付・演出を担当する指導者」というラベルのみで判断するのも早計のように思う。あの映画におけるTAKAHIRO先生は、彼女たちの指導者でありつつ、誰よりも優しく彼女たちに寄り添い続ける存在として描かれていた。映画内には沢山の大人たちが登場するが、この描かれ方は非常にレアケース。大半は彼女たちが乗り越えるべき壁の役割を担っている。
ドキュメンタリー映画というのはそもそも現実の映像を切り貼りした虚構であり、特にこの映画はその色が濃いのだから、もちろんそれを鵜呑みにしてはいけない。しかし映画に限った話ではなく、日々、メンバーの発言から零れ出るTAKAHIRO先生の像、本人が出演するテレビ・ラジオ・動画などでの立ち振る舞いや発言などを総合して解釈していくと(こういう言い方も語弊があるのは承知のうえで言うが)なんというか彼は、ある意味で超絶熱心な欅坂46・櫻坂46の「ファン」にも見えてくるのだ。このあたり、伝わりにくいかもしれないが勘弁して頂きたい。
「運営サイドの人間」であり熱心な「ファン」であるTAKAHIRO先生を対象にして、監督が「大人」の「責任」を問う。「ずっと見守るということ、と思います。それこそ、点じゃなくて、長く続く線で。」と答える。そして、メンバーがじっとこちら側を見つめる。「映画を観てるお前はどう思う?」とでも言いたげな演出で。
監督は「大人」という言葉を「彼女たちの人生そのものを消費する存在」全体(それはもちろん、先程まで安易にターゲットにしていた「運営サイドの人間」や、彼女たちをカメラで追い続ける仕事をする監督自身も対象になる)という意味で使っていたのではないか。
批評。問題提起。思考を促す舞台装置。
まだ飛躍しているかもしれないが、しかし、自分の中にはわりと思い当たる節、罪悪感とも形容できるそういう節がある。それは欅坂46が欅坂46でいられなくなった理由、「改名」の話に繋がっていく。
「改名」の理由はあまりにもたくさんあるであろう。が、さて、振り返ってみると、それらの多くは「彼女たちの人生そのものを消費する存在」の立ち振る舞い方に依拠していたように思う。もちろん「運営サイドの人間」による不適切なマネジメント、「アンチ」による心無い誹謗中傷などは言わずもがなであるが、それらは映画内で提示されるあの一連のシーンの本質では無くて。もっと「ファン」よりの人間からによる……なんというかぱっと見、そして実際に肯定的に捉えられるようなたぐいのもの。
「"あの"カッコいい欅坂46を見たい!」「もっと平手を見たい!」「ずっと下向いてたけど、ステージに立っていていてくれただけで嬉しい!本当にありがとう!」「欅坂46"らしい"ライブだった最高!!」「"あの"不協和音がまた観たい!!」
……例えば、そういう話。だからこそ、罪悪感という言葉が浮かぶ。
ここで一旦、ドキュメンタリー映画を出汁にした話をやめて、「欅坂46 LIVE at 東京ドーム ~ARENA TOUR 2019 FINAL~」の話に移る。
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欅坂46は2019年9月18~19日、東京ドームという舞台に立った。
アンコールで披露されたのは『不協和音』。そして、Day2のダブルアンコールは『角を曲がる』。
『不協和音』はとても人気が高い楽曲だ。紅白歌合戦で2回も披露されているし、そのときに起きた事故(メンバー数名がパフォーマンス後に倒れる)もあって世間的な知名度も非常に高い。まさに「欅坂46っぽい」曲の代名詞といっても過言ではない。
「『不協和音』?まさに欅坂らしい曲、って感じだよね!!」
さて、一方で『角を曲がる』とはどういう楽曲か。
そもそもこの楽曲はもともと、欅坂46の名義として世に出されたものではない。平手友梨奈が主演を務めた「響 -HIBIKI-」という映画が、2018年9月14日に公開。その映画のエンドロールに流れたのが、平手友梨奈ソロ名義の楽曲『角を曲がる』だった。この楽曲は映画公開後CDが発売されるわけでも無く、音源が配信されるわけでも無く、突如、1年後の東京ドーム公演Day2で、最後の最後、ダブルアンコールとして披露され、そのライブののちに欅坂46YoutubeチャンネルにてMVが公開、音源が欅坂46名義としてデジタルリリースされたのである。
この楽曲の扱いは全くもって異質極まりない。いくら平手友梨奈とはいえ、グループ初の東京ドーム公演という記念すべき節目のライブの最後の最後に、こういったポジションのソロ曲を配置するだろうか。なんだかそこに意図的なものを邪推してしまう。
ここで『角を曲がる』の歌詞を見てみたい。
(……と、思って引用しようと思ったのだが、通しで全部読んで欲しいと思ったので各自調べて欲しい。)
『角を曲がる』では、周囲の人間によって作られた「自分らしさ」なるものと、自分自身が思う自分像とのズレに苦しみ、その場にいられなくなる人間が描かれる。平手友梨奈の脱退を実質的にグループの終焉と捉えるのであれば、「欅坂46 LIVE at 東京ドーム ~ARENA TOUR 2019 FINAL~」は、欅坂46が欅坂46として行った最後のライブであり、その〆にこの楽曲が披露される(なお、有観客で現地開催できたライブは実際にコレが最後)。
なんというか、欅坂46というグループが辿った道筋は、まさにこの曲そのものなのではないか。そんなことを思ったりする。
ポイントは「欅坂46らしさ」というフレーズだ。
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音楽番組・雑誌・ラジオ等、あらゆるメディアを通じて行われた「笑わないアイドル」「社会に鋭い刃を突き立てる新時代のアイドル」的なプロモーション(非常にキャッチー!!)は、凄まじい速度をもって欅坂46のイメージ「欅坂46らしさ」を大衆の中に確立させた。
それは4thシングル表題曲『不協和音』において言わずもがなであるが、そのカップリング曲『エキセントリック』のMVが後からYouTubeに公開されて、1stアルバム『真っ白なものは汚したくなる』にも収録されたり、そもそも、そのアルバムのリード曲が『月曜日の朝、スカートを切られた』(これも勿論、MVがある)だったあたり、非常に露骨なものであった。
「天才・平手友梨奈、不動の最年少センター」
このようなキャッチフレーズは何度見たか、聞いたか分からない。平手友梨奈という女の子はこの過程で「天才」というラベルをガチガチに貼られたように思う。「天才」、つまり、普遍的ま人間とは異なる存在として扱われるようになった。そして普遍的人間ではなくなった。
(実際、あまりにも凄まじい子であったことは間違いないと思うし、これを否定する人もあまりいないんじゃないかと思うのだが、それゆえにヤヤコシイ問題に発展しているように思われる。)
そういえば「欅坂46っぽい曲」という評もあの頃以降、よく耳にした。大抵の場合「大人・社会にファッキュー」的な路線の曲にあてがわれたものだが、これはプロモーションが大成功した証ではなかろうか。
先ほど書いたように自分は、このグループのあれこれをしっかりと見るようになったのが「欅坂46 2nd YEAR ANNIVERSARY LIVE」からであり、したがって、このような「欅坂46らしさ」の形成過程とも言える偏向的なプロモーションを一度モロに食らっている。1stアルバム『真っ白なものは汚したくなる』を手に取り、初めてひととおりの楽曲をしっかりと摂取し、あれ?実はなんか色々あるんだなと。自分はそのときようやく知ったのである。
(当時は音楽をサブスクで聞くという文化が常識では無かったというのも大きいだろう。カップリング曲を複数種の初回盤に分散して収録するというシステムのせいで、全体像を掴むためのハードルが高かったことは間違いない。)
さて、とはいえ、こうして確立された「欅坂46らしい」欅坂46の元に、沢山のファンが集まった。そして沢山のファンが「欅坂46らしい」欅坂46を求めた。運営は全面的に乗った。自分で蒔いてる種なのだから、あたりまえ。ファンは大喜び。自分も大喜び。だって楽しいですもん。好きですもん。何度だってそれを見たいですもん。一度確立された「欅坂46らしさ」は、時間が経つにつれてその強度をどんどん増していった。
しかし、こういった欅坂46の像が一側面でしかないことは改めて言うまでもない。それは1stアルバムの収録曲を1回すべて聴けばすぐに分かる話なのである。
(ここからはさらに自分の咀嚼が強くなるが、)欅坂46の楽曲は、まさにあのときのメンバーくらいの年齢帯の人間(中学生から20代前半くらいまで)が考えるであろう普遍的なことや、そういう立場の人間に向けたメッセージを幅広く言語化する傾向がある。
完全なる「子ども」扱いこそされないものの、とはいえ「大人」扱いはしてくれない。現代社会において、この年齢帯の多くの人間はそういう立場に置かれている。それは学校に通っているから。社会に出ていないから。中学生くらいになると人間は、自分を取り巻く社会というものの存在を認識し始めて、様々なことを考えるようになる。しかし、いかんせんその社会なるものがよく分からない。分からないからこそ、自分が社会とどう向き合えば良いのかが分からない。視野が狭く、思考するうえでの物差しもロクに持っていないので、あら大変。どうにもならない葛藤を抱えがち。なぜ自分が悩んでいるのか、そもそも何に悩んでいるのかすら分からない、なんてこともざらにある。ええ、ありました。
でも、それは悪いことばかりでは決してない。視野が狭いからこそ思えることがある。言えることがある。できることがある。そういう活力は「大人」になるにつれ、社会を知るにつれ、失われていく。
だからこそ、欅坂46の2ndシングル表題曲は『世界には愛しかない』なのだと思う。
世界には愛しかない、ということを信じてる、なんて「大人」は恥ずかしくて言えない。でも、あのくらいの年齢帯の人間であれば、高らかに宣言できるかもしれない。したっていい。むしろ、していて欲しい。
さて、「欅坂46らしさ」として掲げられた「大人・社会にファッキュー」的な主義・主張がこの流れの一要素でしかないことは明白である。
こんなこと、あのくらいの年齢なら誰だって一度は思うではないか。様々なことを言葉にしていくグループだからこその、1stシングル『サイレントマジョリティー』、2ndシングル『世界には愛しかない』、3rdシングル『二人セゾン』だったと思われるのだが、4thシングル『不協和音』、続く1stアルバム『真っ白なものは汚したくなる』ならびに強固なイメージ戦略の結果、そういった方向性は取りにくくなってしまったように思う。
「欅坂46らしい」欅坂46、「欅坂46らしい」楽曲、「天才・平手友梨奈」という強固なイメージが形成された結果、欅坂46というグループの活動はそれにどんどん縛られていく。
5thシングル『風に吹かれても』は、行き過ぎたイメージ戦略をやや修正しようとした作品だと思われる。しかしこの楽曲には「笑わないアイドルが笑った!」といったようなプロモーションが大量に行われた。これではここまで積み上げてきた「欅坂46らしい」欅坂46というイメージがさらに固まるだけではないか。カップリング曲として収録された『避雷針』もポイントで、コレはまさに「欅坂46らしい」楽曲。非常に人気が高い。逆に表題曲の『風に吹かれても』は「欅坂46らしくない」から微妙、みたいな文句が当時それなりにあった。
6thシングル『ガラスを割れ』は所謂「欅坂46らしさ」というイメージを破壊する楽曲、という解釈の方がすんなりいくと個人的には思うのだが、これも「大人・社会にファッキュー」という今までの枠組みの中に内包されてしまったように感じる。「目の前のガラス」というのは「欅坂46らしさ」ではなく「目の前に広がる理不尽な社会」として捉えられた。またまたカップリング曲の話をすると、このシングルには『もう森へ帰ろうか』という、もはやヒッピーに片足突っ込んだような楽曲が収録されている。もちろんこれもド定番ソングになった。
強固なイメージ戦略の結果として手に入った沢山のファンは、「欅坂46らしい」欅坂46を求める。
コレを体現する「天才・平手友梨奈」を求める。当たり前。だからそれをお出しする。ビジネス的に正しい。でも、それらはすべて「幻想」の押し付けで間違いない。
ここで『角を曲がる』に戻る。この楽曲が東京ドーム公演の最後の最後に披露されているということには、重要な意味があると自分は思う。つまり、欅坂46が欅坂46でいられなくなった理由は、そういうことではないか。
運営のマネジメントがマズかった。それはそう。「天才・平手友梨奈」を作り上げ、その「天才」に全曲のセンターをやらせる、なんてのは明らかにおかしな話。少なくとも、9thシングル『10月のプールに飛び込んだ』制作時、MV撮影を拒否した時点で別のメンバーをセンターに変更するべきだった。平手友梨奈を下ろすべきだった。
ただですよ、ファンも「欅坂46らしい」欅坂46をすんげぇ求めていた。「天才・平手友梨奈」を求めていた。もちろん自分も求めていた。そういう「幻想」を彼女たちに背負わせた、という意味では「運営」も「ファン」も同罪ではないか。これを自分は否定することができない。
「「欅坂46らしい」欅坂46を見せてくれ!!」
「『不協和音』をやってくれ!!」
この状況になってしまえば、もう過去の再生産しか取れる選択肢は無い。そしてそれは不可能なのだ。なぜなら「天才・平手友梨奈」はもう角を曲がっているのだから。
平手友梨奈が不参加の形でスタートした「欅坂46 夏の全国アリーナツアー2019」。地方公演中盤、大阪公演から彼女は突如『避雷針』のみという形で復帰した。そのときの歓声・どよめきは、それまでの公演でのそれとは比べ物にならないものだった。嬉しい。分かる。久しぶりに見れた!やったぁ!ありがとう!!でもそれはもう、みんな、アウトなのだ。
あのツアーは準備の時点で平手友梨奈が不参加という前提をもとに構成が組まれていた。で、中盤までそれを通してきた。なのに、突如1曲だけ参加する。『避雷針』のセンターはそれまで鈴本美愉が務めていたが、それは神奈川公演までになった。代理でセンターを務めることの重さや、それに伴う葛藤、覚悟などはこれまで幾度となく語られてきた。だからこそ、こんなめちゃくちゃな話があるかと。
でも、そういうことが頭の中では分かっていても、そこで観ることができた平手友梨奈センターの『避雷針』そのもの自体は最高だった、というこの事実。結局、ファンは"あの"『避雷針』が見たかった……
結局のところ、平手友梨奈がグループから離れても、「天才・平手友梨奈」がいる「欅坂46らしい」欅坂46という白昼夢から、運営も、ファンも、そしてメンバー本人すらも、みんな、目覚めることができないでいるというわけだ。ドキュメンタリー映画の話に戻ると、監督はそういう状況を察知して、ああいう質問を「運営」「ファン」両方の立場を内包しているTAKAHIRO先生にぶつけたんだと思う。そして、それを踏まえた上で捉えるTAKAHIRO先生のあの返答は身にしみるものがある。
「点」とはまさに、ここまで記してきた「欅坂46らしい」欅坂46のこと。でも、そうではいけない。なぜならその「欅坂46らしさ」というのは、「彼女たちの人生そのものを消費する存在」である外部の「大人」たちがみんなで作りあげた、作り上げてしまった幻想、イメージでしかない。それを彼女たちに押し付け続けるなよ、再生産を求め続けるなよ、という話。
当たり前だが、グループは、人間は、日々絶えず変化していく。だからこそその変化を「線」として見守り続けろと。「見る」ではなく「見守る」。あーだーこーだ好き放題言うのではなく、黙って「見守る」。それが、「人間の人生そのもの」を消費する行為が、残酷だけどとても楽しくて仕方が無いということを知ってしまった罪深い人間が持つべき「責任」なのではないか。そういうメッセージがあのシーンには込められているように思う。そして、それは本当にその通りだと思う。
この趣味は楽しすぎるけど、残酷すぎる。
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櫻坂46というグループの「今」を紹介するうえで避けては通れない、欅坂46というグループについて今の自分が考えることは、大体そんなところである。今の自分は、と書いたのは、欅坂46がばーーーーーか好きだったあの頃、そんな発想はまるで無かったからに他ならない。恥ずかしながら。
こういった考え方をするようになったのは、櫻坂46に改名した1年目の活動を追うようになってから。なぜ、今、このグループに与えられる楽曲がこういう感じなんだろう、というようなことを考えるようになってから。ドキュメンタリー映画の話からスタートしたのも、つい数カ月前、友人に櫻坂46を紹介する過程でこの映画を久しぶりに鑑賞したから。
なにはともあれ、ここまで来てようやく櫻坂46の話ができるようになった。次は、櫻坂46としての1年目2年目の話、櫻坂46の第1章の話をしようと思う(……まぁそれがいつ纏まるのかは分からないが)。
それに、まずは今日、櫻坂46として立つ初めての東京ドーム公演が、明日、キャプテン菅井友香のラストステージがどういったものになるのか。それをこの目に焼き付けなければならないことは言うまでも無い。
さて、どうなる。
(※これらはすべて、自分はこう思った、という解釈でしかありません。あしからず。)
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