「齊藤京子 卒業コンサート」「5回目のひな誕祭」。どのような姿勢で、その先へ。
「齊藤京子 卒業コンサート」と「5回目のひな誕祭」2Days。
横浜スタジアムで三日間にわたって開催された日向坂46のライブに通しで参加して、自分が思ったこと、考えたことについて。魅力的なことが行われていると強く感じた一方で、どうしてもチラついてしまう、坂道アイドルというシステムの根本に潜む「残酷さ」。
そういうことをフックに、今の自分の頭の中を少し、言語化しておく。
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誰の目にも明らかなように、東京ドームの地に立つという目標を達成した日向坂46は、以降、大きな原動力、求心力となる「何か」を掴みあぐねていた。不遇時代という状況そのものと、それを乗り越えてきたという物語、そして設定された東京ドームに立つという目標。これらがどれも非常に明瞭であったがために、その次を見出すのは難しい。
ライブの舞台、という側面から捉えれば、東京ドームの次は世界展開!といった類の物語を設定することはできそうに見える。しかし、グループやファンの中で醸成され、共有していると思われる理念、つまり、親密な関係性、距離の近さ、温かみ、そういった要素と、世界展開を目指す的な、外向きの矢印を強く打ち出す物語は相性があまり良くなさそうだ。そういうのじゃないんだけどな……的な。
(一方、櫻坂46において、外向き指向の果ての無い目標設定、その手段としてとにかく数字を回そうといった類の試みが、エネルギーとして良い塩梅で機能しているように(現状)見えるのは、櫻坂46がファンと共有する理念の根底に「作品」に誇りを持ち、それを重視する・大切にする、という傾向性が備わっているからではないかと踏んでいる。この素晴らしい「作品」を多くの人に届けたい、見てもらいたい、というモチベーションと、世界展開という目標および数字を回すという手段は親和性が高そうに見える。)
昨年開催、「4回目のひな誕祭」で披露された、四期生による『青春の馬』は、日向坂46がその時点においてすでに抱えていた、こういった問題を解決する糸口の提示として捉えるに値するものであったように思えたが、残念ながら、その後の四期生の活動機会はまるで足りていなかった。それはもはや、飼い殺しと言っても過言では無い。
(「5回目のひな誕祭」2日目、『JOYFUL LOVE』曲中のコメントにおいて正源司陽子は、四期生は機会に恵まれていたと述べていたが、他の坂道と比較すればそれが誤認もしくは建前の言葉であることは明らかだ。)
そのような状況のもと、昨年11月に開催された「新参者」全10公演がターニングポイントになったのは間違いなさそうだ。四期生だけで作り上げるライブ。その中で生まれた「一体感」というキャッチフレーズ。そして、グループに選抜制度が採用され、四期生のうち、5名が表題曲に参加する。
11thシングル『君はハニーデュー』。
センター、四期生、正源司陽子。
その裏にある、一期生、齊藤京子の卒業。
この2人のダブルセンターで披露された『シーラカンス』。
「今は、未来が、始まる瞬間。」
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絶対視できる「価値」の物差しが消滅した=それを生み出さなければならない時代。回り続ける資本主義経済という舞台の上に立つ以上、それを生み出し続けなければならない時代。現代。
その中で歩みを進める多人数アイドルグループにおいて、メンバーの「加入・卒業」という、所属する人間を流動的にするギミックが、新たな「価値」を生み出し、それが求心力となり、グループを駆動する原動力になっている、という事実がある。これらのギミックは、様々ないわゆるエモい物語の生産に寄与するなど、魅力的な面が多数ある一方で、人間を道具的に、それも、消耗品的に消費する「残酷さ」という側面を併せ持つ。
もちろん、こういった話題は最早、システムにおける前提と化している部分に関するものであるため、「今さら言うまでも無いことでしょう?」「そういうものでしょう?」という考え方をすることもできる。できるのだが、なんというか、それで本当に良いのだろうかと思っている自分がいる。
このギミックが持つ甚大なエネルギーを、あまりに全面的に提示された三日間だったと感じてしまったがために、つまり、齊藤京子の卒業に涙し、翌日、四期生が『月と星が踊るMidnight』を継承したことに心を打たれ、そして、『君はハニーデュー』のセンターに立つ正源司陽子、実質的に日向坂46の未来を背負うことになった若干17歳の少女の、不安と期待と覚悟によって彩られたその表情を、終始、固唾を呑んで見守っていた自分。それらを後から振り返り、結果、こうして改めて、このギミックの多義性に関する話題にしっかりと自らが対峙し、その際に生じるモヤモヤを、どうにか言語化しておきたい、という衝動に駆られてしまっているらしい。
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自分は以前、櫻坂46の選抜制度について考える試みを行い、選抜と非選抜の境界は「価値観」を巡る「運」による影響が少なくないために、そこにはある種の「残酷さ」があることを指摘し、であればそれは慎重にケアされてしかるべきだ、という立場を取った。
なるほど、同じようなステップで話ができそうだ。
「加入・卒業」というギミックには「価値」を生み出す「良さ」がある。しかし、「残酷さ」もある。事実として、ある。であれば「良さ」のみを称揚し「残酷さ」については無視をする、というあり方は好ましく思えない。メンバーに降り注ぐ「残酷さ」は回避された方がもちろん良いのだが、システムの前提となるこのギミックにおいて「良さ」と「残酷さ」はセットであるために、「残酷さ」の根絶を目指すことはできない。ゆえに「残酷さ」をいかに抑えるか、いかに乗り越えるか、といった議論、つまりケアの話が欠かせないように思う。
ところで。
今、自分が考えている「残酷さ」。人間が道具的に消費されるという「残酷さ」。人間が非人間的に扱われるという「残酷さ」。この「残酷さ」は、資本主義経済のもとで私たちをひとつの大きな社会として纏め上げ、維持するために、意図的に用いられる重要な要素でもある、というのはポイントだろう。私たちはみな等しく、この「残酷さ」を他者に振りかざしているし、常に晒されている。人間に付与される「価値」には、そういう側面がある。それなくして、大きな社会を維持することは不可能と言ってよい。
ではなぜ、通常、私たちの多くは平気でいられるのか。
それは、私たちの晒されている「残酷さ」が、通常、許容できる量で済んでいるから、そして、この「残酷さ」をケアする「承認」(人間を一人の人間として捉えるという意味での「承認」)が供給されているからに他ならないだろう。コンビニで会計を済ませて商品を受け取るとき、公共の施設で作業中の清掃員の前を通るとき、私たちは、少なくとも、会釈くらいはするものだ。それはまさに「残酷さ」をケアする「承認」である。「残酷さ」に晒され続け、「承認」も途絶えたとき、人間は平気ではいられなくなる。
したがって、この「残酷さ」は程度の問題で捉えられるのが相応しい。
20世紀初頭、マックス・ウェーバーは、人間はシステムを作り、その後、システムの中で隷属状態になるということを「鉄の檻」という重たい比喩を用いて描いた。この告発は常に意識下に留めておきたいと思う。システムは、常に、内側から、アップデートの道が開かれていた方が良いだろうし、そのためには、システムを批判的に捉える視座が必要になる。
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では、誰が、どの立場の人間が、どのようにシステムをアップデートをするのか、という話を考えてみたい。
まずは、立場に関する話を掘り下げてみる。
アイドルというコンテンツを取り巻く人間の立場は、運営、アイドル、ファン、と、大きく三つに分類できる。しかし、直感的に明らかなように、それぞれの力関係は、まったくもって対等ではない。
運営とファンに挟まれる形で、メンバーが最も劣勢なのだ。
運営が提示する方針に対して、メンバーが抵抗することは現実的に難しく(これは即急に改善されるべき問題だ)、ファンが金銭を支払う立場であり、運営は金銭を支払うファンを意識しながらコンテンツの方針を定める以上、ファンの要求にメンバーが否を突きつけることも難しい。(これは、先に記した、運営>メンバーという力関係を加味している。)
運営が方向づける「価値」や、ファンが見出す「価値」を体現する立場にあるメンバー(=「価値」に付随する「残酷さ」に直接晒されることになるメンバー)が、きわめて異議申し立てしにくい構造があるという歪み。
ここに、コンプライアンスをチェックする機構が外部から介入する重要性がある。これは、いくら強調してもしすぎることは無い。
そして当然ながら、コンテンツの内部においても、運営による適切な方向づけと管理が、ファンによる責任感のある取り組みの仕方が求められる。今、取り組みという言葉を使ったのは意図的で、つまり、自分はそこに、ある種の「能動性」という意味を含めている。思考停止の否定。さらに付け加えれば、無条件の全肯定ですら、好ましくは思えないと言いたいのだ。
しかし、こういったことを言っていると、他方から以下のような意見が飛んでくる。「ファンは与えられたものを与えられたように摂取し、金を払うだけだろう?」「それが気に入らなければ違うところに行けばいいじゃないか」「余計なことを言って水を差すのか?」「それはエゴの押し付けではないか」「ファンが運営に口を出し始めたら終わり」エトセトラ。
こういった意見はきわめて慎重に受け止めねばならない。ファンが声高に何かを主張し、それによってメンバーが、コンテンツが、危機的状況に晒される事案は、枚挙にいとまがないからだ。
そういう意味で、これらの意見は真っ当だと思う。
大人しく、全肯定しとけ。分かる。
しかし、自分としては、この問題の本質は、ファンによる主張、その内容や姿勢にあるのではないかとも思う。謙虚さと配慮の欠如。ファンが、メンバーを、コンテンツを、自身の欲望を満たす道具として扱う側面が前景化することによる、問題の爆発。
ファンは良かれと思って主張を行うが、それゆえに、その内容が正しいと信じてやまない状況に陥りがち。対象の現状をオカシイと決めつけ、自らの主張、自らの抱く理想的な状況、欲望を、善意をもとに、ゆえに声高に押し付けようとしてしまう。その対象が運営であればまだマシだが、それを、メンバーに直接押し付けた場合に極めて悲惨な状況が生じてしまうのは火を見るよりも明らかだ。先ほど示したように、ファンとメンバーの力関係は、まったくもって対等ではないのだから。
これはイデオロギーの暴力であり、自分が考えている「能動性」はこのような類のものとはもちろん異なる。自分は今、コンテンツを摂取するにあたって対話的な姿勢を取る、という意味での「能動性」を考えている。
イデオロギーといえば、その対立による分断の危機に瀕した19世紀のアメリカで生まれた、プラグマティズムという哲学がある。
20世紀の半ば以降、それをもとに哲学を展開したリチャード・ローティは、自身の議論の中で「会話」の重要性を強調している。
絶対的な「真理」を求めることはやめ、一見そう見えるものは偶然的なものであるという視座に立ち、だからといって素朴な相対主義に滑り込むのではなく、他者の声に耳を傾け、共感によって「われわれ」を拡張し、その過程の中でどうにかして共有できる「何か」を形作っていく。こうして形作られた「何か」も偶然的であらざるを得ないのだから、この営みは終わらない。続けていかなければならない……
これはローティ著『偶然性・アイロニー・連帯』の、自分の拙い読みによる咀嚼の結果なので恐縮だが、自分はこういった考え方に基づいたアップデートの方法に可能性を感じている。
メンバーを、自らの快楽のために道具的にのみ扱うのであれば、つまり、コンビニで買うコカ・コーラのように捉えるのであれば、確かに、対話的姿勢など基本的には必要ないだろう。コーヒーを買っても良いし、オレンジジュースを買っても良い。違う店で、買っても良い。しかし、アイドルというコンテンツは、そのように捉えられても良いものだろうか。というより、そもそも、捉えられるようなものだろうか。
運営とファンは、メンバーが「良い」状態に、より「良い」状態になって欲しいと願っている点で、あらかじめひとつの理想を共有しているはず(と思いたい)。であれば、前提となる状況は全然悪くなさそうだ。この理想を一本の軸に、健康的で建設的で対話的な営みは十分行われうると思うし、それによって、システムのアップデートも上手くなされていくと思う。
ところで。
ここまでの過程において、「残酷さ」という言葉で示される内容、取り扱っている問題の規模が拡張されているのは自然な流れだ。「加入・卒業」のギミックに付随するものとしての「残酷さ」から、「価値」形成における、メンバーを道具的に扱う=非人間的に扱う「残酷さ」へ。人間に「価値」が見出される際、この「残酷さ」は常に付きまとう。であれば、生身の人間が直接的に「価値」と接続される傾向性の強い、アイドルというコンテンツにおいて、それが特に強く意識されていなければならないのは間違いないように思う。
(アイドル=偶像、という命名からして、このコンテンツは人間を神的存在の似姿として、つまり、非人間的に扱う側面が強いことは伺える。)
この「残酷さ」を対話的な姿勢で乗り越えていくというのは、綺麗事かもしれない。ファンはファナティックだから、分かってはいても、すぐに一線を越えてしまう。その危険を冒すくらいなら、ファンは黙って全肯定に徹すべし、こういった話は全て、運営と、外部の機関が対処すべし、という意見が生まれるのも分からないではない。しかし、そもそもそんなことは現実的に可能だろうか。というより、そんな無責任で自分勝手な話があるだろうか。
したがってファンは、とにかく慎重でなければならないと思う。そして、自身の立場を厳格にわきまえる必要があると思う。しかし、それらのためには、じっくりと考えるための長い時間が必須であるから、多くのファンが意識的に「能動性」を示す必要があるとも、自分はまったく思わない。そういうことは、一部の時間的ゆとりのある物好きなファン、熱量の大きいファンがやればいい。しかし、そのようなファンはそのようなファンであるからこそ、一線を越えてしまう危険性が高いのも明らかなように見える。ゆえに、誰かとする「おしゃべり」がきわめて重要だと考える。
そのようなファンが所属するコミュニティにおいて、開かれた場所ではなく、ある程度、閉ざされた場所(飲みの場など)で、こういう話題について、つまり、今のグループがどういう状況で、どんなことが行われていて、それがどのようなものなのかについて、「残酷さ」が前景化しすぎていないか、「承認」は十分に満たされているかといった話題について、複数人で、批判的な「おしゃべり」が行われるのが良いと思う。ディベートでは無くて、「おしゃべり」。結論はいらない。むしろ結論が出ることは悪い。それは、「おしゃべり」が、浅い。
そういう、一見、無意味に見えるような飲み会が、録画の残らないスペースが、裏で、定期的に、各所で行われているようなファンダムが形成されているコンテンツは、じわじわと、自然な形で、より、健康的になると思う。
自分としては、そう、信じたい。
(作品から、活動から、人間から見出されるものを、すべて平たく数字に還元し、それを至上の価値とし、日々、邁進し、常にそれに振り回され、このようなきわめて不安定な土台に立ち続けようとする忙しなさ、つまり、資本主義経済が提示する物差しを唯一の真理とするような土壌にどっぷりと浸かる形で、アイドルというコンテンツが営まれていくような状況を、自分としては好ましく思わない。)
(また、応援行為が孕む危険性についても、あらためて共有しておきたい。応援行為というのは知らず知らずのうちに、自身の承認欲求を満たすための道具に転化しているケースが少なくない。そして、応援する側とされる側というこの関係性には、それが善意に基づくものであっても……というよりそうであればあるほど、ある意味で支配的な関係性、束縛への道が大きく開かれている。メンバーとファンの関係性においては基本的に金銭が絡むのだから、これはなおさらだ。)
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最後に、極めて慎重に、ふんわりと今の自分が持つボールを置いておく。
ここまでの話題の中心であった「残酷さ」について。
それは、「加入・卒業」というギミックが「価値」を生み出し、それがグループの求心力、駆動するエネルギー源になることにこびりつく「残酷さ」であり、これを抽象化すれば、人間が人間を道具的に扱う=非人間的に扱う「残酷さ」であった。
であれば、グループの求心力、駆動するエネルギー源は、まずもって、分散された方が良さそうだ。「価値」は人間を道具的に消費しない形でも生み出された方が良い。
しかしこれを、運営が提示するギミックの構造のみで対応しようとするのは不可能に見える。
伝統を大切にし、それを守り継いでいくというギミックが生む「価値」にしろ、作品の制作を重視するというギミックが生む「価値」にしろ、目標を設定し、それに向かって突っ走るというギミックが生む「価値」にしろ、どれもが、人間を道具的に消費し、非人間的に扱うという「残酷さ」を孕んでいる。そもそも私たちは日常的に、みな等しく、ある程度、この「残酷さ」を振り回し、そして、「残酷さ」に晒されているのだから当然だ。
と、するならばやはり、私たちファン側の向き合い方、咀嚼の仕方が重要そうになりそうだ。「価値」は双方向的な、対話的な営みの中で醸成されるのであり、運営の方向付けによって確定するようなものではないのだから。
つまり、私たちはこの「残酷さ」に抵抗し、メンバーそれぞれを、確固たる一人の人間として、責任感を持って意識的に捉え、「承認」し、そのもとで「価値」を見出そうとする姿勢を取る必要がある。
具体的にはどういうことか。
それぞれを、語られるべき歴史、背景を持ち、未来に拓けた存在、尊厳ある存在として捉えたうえで、それをもとに「価値」を見出すこと、と言えそうだ。自らの欲望、目的を満たす道具としての側面は一定量ある。これを否定するのは欺瞞だ。しかしそれ以上に、違う側面を意識的に重視する。一人の人間を、その集合としてのグループを、点ではなく、線で捉える。肯定的に咀嚼して「価値」を見出す。適切な道筋で。
(この観点においても、無条件の全肯定がそもそもナンセンスであるということが明らかになる。応援しているメンバーを、グループを、無条件に全肯定する立場に立つとき、その人は、メンバーの、グループの、素晴らしさ、かけがえのなさ、といったことについての咀嚼を放棄している。そして、共有なくして成立しない、それらの重要性という地平を自らの手で閉ざしてしまっている。無条件の全肯定は、その実、尊厳の否定に他ならない。)
したがって、『君はハニーデュー』の咀嚼について言えば、それが「『キュン』『ドレミソラシド』的な、あの頃の日向坂が戻ってきた!やった!」といった形のみで行われてしまうのはあまり好ましくないと感じる(MV公開直後、YouTubeのコメント欄において、そういった意見が少なくなかったのは印象深い)。それは、正源司陽子を、今、現在の日向坂46を、過去を再生産する器としてしか捉えていない証拠であるのだから。
『月と星が踊るMidnight』と『君はハニーデュー』。その先へ。
対象を尊厳ある存在として捉えるには、対象の現在を、過去と未来に拓けているものとして捉える必要がある。そして、幸いにして、日向坂46は、過去に蓋をしない形で、ここまで活動することができている。
コンテンツを取り巻くあらゆる立場において、これまでの捉え方が、やや否定的な側に寄りがちだったのは事実だが(そういった解釈に基づく過去からの離反という物語が、このグループの原動力になっていた)、それでも歴史は語り続けられている。
Leminoで配信された『齊藤京子卒業コンサート特番「わたしには、まだ夢がある」』しかり、『僕に続け』MVしかり、『H46MODE vol.1』しかり、「ひなた坂46」という非選抜メンバーの命名しかり、今、歴史を咀嚼するための素材は潤沢だ。(ゆえに、齊藤京子卒業の道具的側面が自分の中で印象強く提示されているのだとも思う。)
「5回目のひな誕祭」、『JOYFUL LOVE』曲中のスピーチにおいて金村美玖は、「過去も、これからも、肯定的に捉えていく」といった旨の発言をしていた。高瀬愛奈は4/10に更新したブログで、過去の肯定的な側面を強調し、より良い未来に繋げようとする決意を表明していた。そしてその翌日、4/11に更新された森本茉莉、山口陽世のブログも同じ方向を向いている。
私たちファンも、この動きに乗っかるのが望ましいように思う。
歴史を肯定的に捉えることは「尊厳」を確保することに繋がる(もちろん、歴史修正主義の立場に立つことでは無い、ということは強調しておく)。それがコンテンツの内部において双方向的に行われることは、この危うい現代において、降り注ぐ「残酷さ」に抵抗しながら「価値」を見出していく、適切な道筋のように思えるから。
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オマケ。
ここまで色々と考えを巡らせてきたが、その過程においてずっと脳裏に浮かんでいた大きな問題があるので、最後の最後に補足として、これについても記述しておきたい。それは、「残酷さ」を抑えるためにこうやって色々と考えるからこそ、「残酷さ」が余計に浮き彫りになってしまうのではないか?という問題である。
なるほど。先に確認したように、この「残酷さ」はそもそも常に付きまとうものだが、とはいえ、通常の程度であれば気にしないでいられる「残酷さ」でもある。ならば、意識的に取り上げるのは逆効果ではないか……?というこの考え。一理ありそうだ。
しかし、繰り返す。
アイドルというコンテンツは、生身の人間が直接的に「価値」と接続される傾向性が強く備わっているコンテンツであるために、「残酷さ」が通常の程度から逸脱する危険性が、他のコンテンツに比べて常に高い。
この事実から目を逸らせるわけにはいかないだろう。ゆえに「残酷さ」について言及しないというのは、やはり好ましくないように思う。
とはいえ、ここで提示した問題も完全に否定することはできない。
なるほど。
おそらくこれも、程度の問題として捉えられた方が良いのだ。気にしつつ、気にしない。
直感的に楽曲を、ライブを、ミーグリを、番組を楽しみ、メンバーの加入や卒業、繋がるバトンの物語に感動し、そして、時に、影の部分について思考を巡らし、共有せんとする。考えすぎるのは良くないだろうし、考えなさすぎるのも良くないだろう。どれもが重要であり、突出するほど重要でないのであり、ゆえにバランスが求められる。なんともツマラナイ着地点かもしれないが、たぶん、何事も、それくらいの姿勢でいるのが良さそうに思える。
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追記。
こう考えていった先に、アイドルというコンテンツにおいて、「伝統」を重視する「良さ」や、「作品」を重視する「良さ」が自然と浮かび上がる。
つまり、「伝統」や「作品」は、生身の人間と「価値」との結びつきを和らげる。ゆえに「残酷さ」の程度を抑えられるということ。もちろん、それらに偏重することが人間を非人間的に扱う「残酷さ」の過剰に繋がってしまうというのも言うまでも無いのだから、これも程度の問題として捉えられるのが望ましい。
そういう話はまたいつか機会があれば考えてみたい。良くも悪くも、過去に蓋をしがちな、欅→櫻、的な話題の中で。『承認欲求』と『マモリビト』。
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