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『オッペンハイマー』鑑賞で受けたショック、そして確固たる反戦映画だと思う理由

 クリストファー・ノーラン(Christopher Nolan)による映画『オッペンハイマー(Oppenheimer)』が7月21日にアメリカなどで公開された。自分はノーランファンの1人だが、今作には好きな監督の新作以上の意味があることは言うまでもない。実際、8月4日現在でも日本公開は未定で、唯一の戦争被爆国として慎重になるのも当然だ。ただ、だからこそ観ないといけないとも思ったし、自分は現在オーストラリアに住んでいるため幸運にも鑑賞する機会に恵まれた。本稿では「『オッペンハイマー』は反戦映画だ」というテーマを掲げて自分なりの考えをまとめていく。

※ネタバレは極力控えているがトレイラーや既報に出ているシーンには言及した。初鑑賞の所感を重視しつつも、今後も数回観る予定のため加筆をする可能性がある。

「IMAX Melbourne」という施設でIMAX 1570フィルム版を観た。スクリーンサイズは横32m、縦23m。価格は45オーストラリアドル(約4200円)

被害から目を背ける視点

 『オッペンハイマー』は、1945年に日本に落とされた原子爆弾をめぐる映画で、メインはオッペンハイマーの視点となる。なぜ広島や長崎の被害を描かないのかという批判も上がっているように、日本に関しては会話でのみ言及されている。要は相手の姿が見えないのだが、ノーランファンであれば似たような設定に心当たりがあるだろう。『ダンケルク(Dunkirk)』(2017年)だ。この映画でも相手国の人影は見えず、兵士達はいつどこから来るかわからない攻撃に怯える。そして『オッペンハイマー』においても相手が見えないことは重要な点だと感じた。余談だがゲームクリエイターの小島秀夫監督は『メタルギアソリッド』(1998年)に関して「『銃を撃つゲームの癖に反戦反核とはふざけてるの』と批判された」と振り返っている。戦争シーンを映す=戦争讃歌ではないように、戦争シーンを映さない=被害を軽視していると簡単には言えないだろう。

 物語の主人公ロバート・オッペンハイマー(Robert Oppenheimer)は、そのカリスマ性と高いリーダーシップによって原子爆弾を開発するマンハッタン計画を指揮していく。話の軸となるのは、原子爆弾を生み出してしまった物理学者であり1人の人間としての葛藤だ。そして話の行く末を知っている観客からすると、彼の言葉は幾分アイロニカルかつ虚しく響く。オッペンハイマーの複雑な胸中は本当の意味で理解されることはない。特にトレイラー内にもある会話は象徴的だ。オッペンハイマーの「原子爆弾を実際に使うことはほぼないだろう」という考えは脆くも崩れ去る。

"Are we saying there’s a chance that when we push that button, we destroy the world?"

"Chances are near zero."

"Near zero?"

"What do you want from theory alone?"

"Zero would be nice."

『オッペンハイマー』トレイラーより 1分33秒あたり〜

 『ダークナイト(The Dark Knight)』(2008年)のジョーカーは、人間の良心を試すようにとあるゲームを仕掛けた。一般市民が乗った船と囚人が乗った船それぞれにもう片方の船に仕掛けられた爆弾が爆発するスイッチを用意し、相手を爆発させれば自分達の船は助かるというものだ。市民側では「囚人は自業自得だ」として催促する声も出たが、ついにスイッチが押されることはなかった。だが現実世界は違った。“ボタン1つ”で“見えない人間”の命が簡単に奪われてしまった。そんな呆気なさに恐怖を感じずにいられるだろうか。

 この映画は原子爆弾を落とす相手やその被害から(意識的に)目を背けている。そして、目を背けている人物が他にもいる。それこそがオッペンハイマーだ。オッペンハイマー達が被害を写した写真を見るシーンで、彼は思わず目を背けてしまう。その写真は映画自体にも映し出されない。だが、その光景はオッペンハイマーの脳裏に焼き付いたのだろうか。とある重要なシーンにおいて、オッペンハイマーの意識内の出来事として顔の皮が剥けた女性のカットが差し込まれる(この一連のシーンは示唆に富んでいる一方で我々からするとかなりキツく、日本公開が未定となっている要因の1つでもあるように思える)。ノーランはこの女性役に自身の娘を起用しており、以下のように語っている。

「重要なのは、究極の破壊力を作り出せば、それは自分の近くの人々、大切に思っている人々をも破壊してしまうということだ。これは、わたしにとって、それを可能な限り強いやり方で表現したものだと思う」

シネマトゥデイ「顔の肉が剥がれ落ち…クリストファー・ノーラン、原爆犠牲者役に実の娘を起用」より

知らないということのグロテスクさ

 禁忌に近い題材だけに、原子爆弾の被害を映さないことに批判が上がることはもっともだ。一方で、これは自分の知り得ないところで爆弾が使われたことにショックを受けるオッペンハイマーを浮き立たせており、全編通して彼に色をつけることなく冷静に描いていたように思う。この映画は被害を映さない。ただ兵器は見えない相手を容赦なく殺める。自分から離れたところで殺戮が起こる恐怖、その被害から目を背けるグロテスクさがこの作品にはこびりついている。その対比として、ノーランは実の娘を起用することで戦争と向き合ったのではないだろうか。強大な力では身近な人と安心して暮らせる世界を生み出すことができない。

 劇中のオッペンハイマーらが実験に没頭する様子はあまりにもスタイリッシュに描かれている(だからこそ一連のシーンと、破壊力を目の当たりにした恐怖と後悔の念が入り混る実験後のオッペンハイマーの言葉にギャップが生まれ、兵器が当たり前のように使われたことに絶望する)。上映終了後に「手に汗握る映画だった」と席を立った観客も少なからずいたかもしれない。正直、筆者もそのシーンに嫌悪感を抱きながらも食い入るように観てしまい、そんな自分に呆れて全身から力が抜けてしまった。自分にとって戦争は知識の中だけのものだったから、こんな体験をしてしまったのかもしれない。巧みな映像・演出を通して、自分の戦争に対する認識と実情の距離を突きつけてくる(だからこそ監督がIMAXを推奨しているのかもと思った)。

 そうだ、自分は戦争のことを知らなかった。確かに学校では勉強しているし、実際に足を運んだ原爆ドームでは惨状を伝えるその佇まいに声を失ってしまった。亡くなった祖母から戦時中の話を聞いたことがある。今は戦争の匂いがする。この情勢は本当に最低で考えるだけで気分が悪くなる。でもどれだけ実感しているだろうか。自分は銃の重さも知らなければ、戦争の被害を完全に理解しているわけでもない。韓国人の友達から徴兵制の話を聞いて、「自分にはできないわ」と無神経な言葉が口から出かかったことがある。見えない敵に怯えることなく今夜も眠りにつく。

 政治に翻弄されたオッペンハイマーは後悔の念に駆られたとはいえ、彼に同情の念を抱けるはずがない。だが、その被害から目を背けつつも苦しむ彼の姿に思わず自分を重ねてしまいそうになる。自分も生まれ育った国の傷跡から目を背けていた、否、知っているふりをしてきた。恥じるしかない。この映画は、心の奥底、慢心や見せかけの平和主義のさらに下に沈澱した無知へのコンプレックスをかき混ぜ、さらには内側からズキズキと痛むかぎ爪のように突き刺さる。

 直接的な表現はなくとも、誤解を恐れずに戦争の惨憺たる裏側を描いた『オッペンハイマー』は、ノーランのキャリアハイと言える一作だった。日本で公開されればさまざまな批判や論争が起こることは間違いない。それでも戦争を知らない自分だからこそ観なければいけない作品だったと断言できる。日本でも、何かしらの方法で観られるようになることを切に願う。

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