続・白人の正体


3/1(火) 11:56配信

一部抜粋

続けてフロイスの『日本史』の記述を追ってみよう。
 天文19年(1550)厳冬、宣教師として来日したザビエル一行は周防の山口という「富貴な町」についた。大内義隆の領地である。山口の「侍臣や御殿の豪華」さは群を抜いていたが、国主の大内義隆は「放恣な振舞いと奔放な邪欲とに耽っているうえに、彼は自然に反するかの恥ずべき罪にも身をやつしていた」という。「恥ずべき罪」とは、男色のことである。やがてザビエル一行は大内家臣の目に留まり、義隆のもとへと招かれた。
 義隆は対談に応じたザビエルに遠慮なく質問を投げかけ、ザビエルはそれぞれ丁寧に応答した。はじめのうちは穏やかな対談が続いたが、やがてザビエルが日本人の罪(男色)について語り出し、雲行きが怪しくなってきた。
 「このようないやらしいこと(=男色)を行なう人間は豚よりも穢らわしく、犬やその他の道理を弁えない禽獣よりも下劣であります」
 義隆の顔色は瞬時に変わり、この場を立ち去るようザビエルに命じた。義隆は重臣・陶隆房と男色の関係にあったのだ。フロイスの記述によれば、「彼等(ザビエル一行)は王(義隆)に一言も返辞しなかった」という。一行は殺すよう命じられるかもしれないと危うく思いながらも、翌日には誰の許可も得ないまま、山口で布教活動を続けた。この逸話は宣教師の正義感と大内義隆のだらしなさを伝えるものとして、今も信じられている。

異人たちの熱心な活動は、大内義隆の知るところとなった。興味をもった義隆は対談を望み、一行を御前に招いた。ザビエル本人の証言を見てみよう。
 どのようなわけで日本へ来たのか、などと尋ねられました。私たちは神の教えを説くために日本へ派遣されたもので、神を礼拝し、全人類の救い主なるイエズス・キリストを信じなければ誰も救われる術(すべ)はないと答えました。領主(義隆)は神の教えを説明するように命じられましたので、私たちは[信仰箇条の]説明書の大部分を読みました。読んでいたのは一時間以上にも及びましたが、そのあいだ、領主はきわめて注意深く聞いておられました。その後私たちは[御前を退出し]領主は私たちを見送ってくださいました。
情報を整理しよう。ザビエルが山口で布教許可を得てからわずか2ヶ月後、大内家重臣の陶隆房が山口を襲撃し、義隆は自害させられた。大寧寺の変である。隆房に制圧された山口は戦禍に見舞われ、宣教師たちはまさに「生命の危険ありき」の状態に陥った。そのため彼らは別地方まで避難せざるを得なかった。ヌネスが書いた「生命の危険」とは、義隆ではなく隆房による恐怖の記憶が混同されたものと思われる。
 この時、既に日本国内では、朝倉宗滴や山本勘介らの記録に見えるように大内義隆批判が横行していた。死後、急速に悪化した義隆へのイメージから、フェルナンデスの記憶が曇ることになったのだろう。



私論

この記事をこう読み取ることができないでしょうか?

宣教師は布教と称して他国に入り込みその内情を探る

そして争いの火種があるならばそれを見つけ出し大きくして内部で争うように仕向ける

そしてその国全体に内乱を起こす

そこで漁夫の利を狙う

そして歴史は自分たちの都合のいい様に改竄する

その実例の一つがこれである










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