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共有できない話。

今日、機会があり、みすず書房から出版されている「明るい部屋」という本をパラパラとめくっていた。
写真論について筆者の「覚書」を綴ったものらしいのだが、きちんと読むには時間が要りそうだったので、その場ではページを繰るにとどまった。
それでもなかなか面白そうな本だったので、今度ゆっくり読んでみたいと思う。

その本の中身でまぁ重要ではないのだろうけど心に留まった一節があった。
詳しい表現は忘れてしまったが、
「人生とは孤独の連続である」というような内容だった。

自分が感じたことは自分だけのものであり、完全に共感し合える他者などいないのだという意味で書いてあったと思う。

普段からひしひしと感じていることだけど、改めて頷いた。

例えば、私はオタクなのだけど、「アニメ好きなんです」「漫画よく読みます」という人とオタクな会話をしたいとはあまり思わない。
まず、好きな作品が被ることは稀だし、被ったとしても良いと思うポイントは違うと思うから。
自分が震えるほど感動した作品について熱く語りたいと思えば思うほど、目の前の相手との温度差にがっかりすることのほうが多い。
逆に、相手のそういう聖域を踏みにじる可能性も考えると、迂闊にその手の話題には触れたくない。

ので、まずは「この人は感覚が合うぞ」と思えることを確認できたら、存分に早口でキモオタトークをしてしまう。漫画でもアニメでも映画でも展示でも、何でも良いのだけれど。

けどそれって、自分と意見の合う人としか話せなくなってしまって、良くないのではないかとも思う。

この前、馴染みの飲食店で馴染みのスタッフに新人さんを紹介されて、「2人ともアニメ好きだし」と、新人さんとアニメの話をしなくてはいけない状況を作られてしまったことがあった。
彼の挙げる作品は私はひとつも見ていなくて、逆に私の挙げた作品はひとつも彼の好みをかすめなかった。
世代が違いすぎるしそりゃそうだろと、気まずく思っていたら、新人さんが
「じゃあおススメあります?」
と訊いてくれた。

あぁ良い子だな、と思い、「ゴールデンカムイ」という漫画を勧めてみた。
わーそれ気になってました、とそこで初めて会話が盛り上がった。

感覚の共有は難しくても、寄り添う姿勢って大事だよな、と、改めて気づいた出来事。

こういうコミュニケーションが取れる人間でありたい。

お酒と煙草でいいかんじにふわふわした頭で取り留めのないことを書きたくなったのでした。

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