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【短編小説】無花果

暗い話です。腐敗物を食べるシーンがあります。そこまで生々しくないとは思いますがご注意ください。

煮詰めすぎた片想いのなれの果て。


 机の上には赤みがかった暗い紫の実が転がっている。男はそれを一つ手に取った。というよりもそれ以外はろくな形も保っていない。少しの汚れも許さない皿の白が一層それらを非難しているようであった。

『これあげる。キミみたいでしょ?』
『そ、そうかな……?』
『うん! ほらいい感じ。我ながらセンスあるね!』

 脳裏に白いイベリスの花のように可憐な少女の笑顔が浮かぶ。透き通るような青空を背景にセミロングの髪を気ままにはためかせる彼女は男の中にいつまでも姿形を変えることなく居座っていた。

「あれはどこに置いたんだったか……」

 おそらく床のどこかに転がっているはずのキーホルダーは見当たらない。南国の海を切り取った青のキーホルダー。きらめく砂の代わりに薄汚れた埃をのせているはずなのだが。

 手のひらにのった無花果の皮は柔らかく、少し力を入れただけで果汁をあふれさせる。甘さを煮詰めすぎてしまった汁は、ただ男の指に不愉快なねばつきをもってまとわりついた。

『私、けっこうキミみたいな人好きかも』

 こちらを覗きこむ彼女は天使のように清らかで無邪気なのに、言動は小悪魔そのものだ。いつも彼女はそうだった。

 男の中の彼女は変わらない。夏空が似合う彼女はどれほど時が経っても、髪の毛一本だって老いの気配を感じさせなかった。

 腰あたりまでの高さしかない低いタンスの上に飾られた彼女はどれも輝く笑顔をみせている。幼いころ行った遊園地、中学の卒業式、修学旅行の沖縄、大学の入学式、そして最後に純白のドレスをまとった幸せあふれる彼女の微笑み。
 最後の写真以外は隣にろくに手入れもされていないぼさぼさの髪をもつ陰気な男子が映っていた。

 果実を齧る。食べ頃をとうに過ぎた果実は腐った匂いと共に酷い味をまき散らした。異様な柔らかさがさらに不快感を伝えてくる。

『今度ね、結婚するんだ。あなたも来てくれるでしょ?』

 優しい笑みで彼女は死刑宣告をした。昔、自分だけに向けてくれた笑顔と寸分違わぬ笑みで。

 嚙む。咀嚼する。腐ったもの独特の酸っぱさが口いっぱいに広がって男は顔をしかめた。吐き出したくなる衝動を抑えて飲み込む。

「我ながらどうしようもないな」

 独りっきりの空間で男は嘲笑った。自分自身を嘲笑った。床に散らばるビール缶も、何度もゴミ回収を免れたゴミ袋も、床に転がる食べカスやシミすらどうでもよかった。

 無花果を齧る。腐敗が進み、元の甘さなど欠片もなくなった実を齧る。うっかり力をこめすぎてぶしゃっと間抜けな音をたてて果実は潰れた。実はもはや果肉と種の境界もわからなくなってしまったモノを見下ろす。どろどろの肉とも汁とも判別できぬものが滴った。

「なあ、馬鹿みたいだろ」

 この世のどこかにいる神に向かって男は中指を立てた。

 これが巷で話題の恋愛映画だったら、自分にも彼女と結ばれる世界線があったかもしれないのに。陳腐で使い古されたストーリーよりも現実は味気ない。いやそれを通り越して到底口にいれられたものじゃなかった。

 重力に従って手の中のモノが落ちる。腐臭をばら撒くそれをしばらく見つめた。

 長い間閉じ込めていた想いは発酵しすぎてどこにも出せない腐敗物となった。そう目の前の果実のように。ぐちゃぐちゃに崩れ、醜く、万人が目を背け、鼻をつまみたくなる臭いを吐き、しかしゴミ箱に捨てるには重すぎるこの世で最も嫌悪するものへ。

「おとぎ話のように綺麗なものが詰まった世界じゃねえんだよ。このクソったれな世界はよ」

 吐き捨てる男は嗤った。そしてすっと視線をずらす。この部屋で唯一清潔に整えられたベッドの上へと。そこには女神が眠っていた。純白のワンピースをまとった女神が。そこだけは聖域のように塵一つ見当たらない。

「本当におとぎ話であればよかったのにな」

 おとぎ話であれば、自分は彼女と出会うこともなかっただろう。強いて言うならば、村人Aとして登場できるかどうか。
 しかしそれならば身分不相応の感情を抱くこともなければ、自分の身の丈にあった平凡で詰まらないが、平和な生活を送っていたはずだ。甘い芳香を漂わせる美しい花は全てを狂わせる。近くにいればいるほど、その花に相応しいものだと錯覚してしまうのだ。たとえそれが蛆虫であったとしても。

「本当にごめんな。俺みたいなのが、本当にごめん」

 視界の端に机の上のモノたちにたかるハエが見えた。羽虫は電球の光に誘われて最後には熱に焼かれて死ぬという。それは太陽に焦がれて落下した蝋作りの男のようだ。まあ、あの神話は蝋がただ灼熱に焼かれて墜落死したので男以外被害がない分、まだいい結末だっただろう。
 ぼんやりと男は頭の片隅でそんなことを思った。

 のろのろと足を動かす。蜘蛛の巣が薄っすらとはられた台所には一振りの包丁が置いてある。薄暗い部屋に金属特有の冷たい輝きがやけに目に刺さった。

「よく恋愛物で来世でも一緒がいいとは言うが」

 己の喉に鋭い切っ先を向ける。

「俺は来世では関わりのない他人がいいよ。一切君と関わりない人生を送りたい」

 視界がゆがみ、醜い部屋が、自分がどんどん歪になっていく。

「……君に会いたくなんてなかった」

――今度は一生会いませんように。

 何かが倒れる鈍い音が響きわたった。じわりじわりと赤黒い海が広がっていく。哀れな人間の目から一筋の混じり気のない透明な雫が伝った。

ちなみにイベリスの花言葉は「心をひきつける、初恋の想い出、甘い誘惑」無花果は「実りある恋、子宝に恵まれる、裕福」らしいです。あと聖書の禁断の果実はリンゴ以外に無花果であるという説もあるそうです。

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