【小説】花より団子、月より兎(1)
社畜OLと月からきたちょっとドジな兎の話。3話で終わる予定です。
背後で白い無機質な扉が閉まる音がした。
パンプスを脱ぎ散らかして、スーツもかけずにそのままベッドの上に倒れ込む。毛先の傷んだ長髪が白いシーツの海に散らばった。放り投げたカバンが床にあたって鈍い音が響く。壁掛け時計の短針はとっくにてっぺんをまたいでいた。
「あーあ、今日も終電ギリギリかあ」
女は溜息をつく。連日の残業で体も心も限界をむかえていた。夕飯を食べる気力すらわかない。
その時顔に光が差し込んだ。思わず顔を光の方に向けるとアパートの狭い窓からちょうど黄金色のまん丸顔がこちらを覗き込んでいる。
「そういえば今日はスーパームーンとかニュースで言ってたっけ」
夜空を見上げるなどいつぶりだろう。最近はずっとコンクリートの地面を眺めていた記憶しかない。寝転がったまま女は兎が餅をつく模様を眺めた。
「季節外れだけど月見団子食べたくなるわね」
月には兎がいるのだと信じて空に浮かぶ球体を追いかけていた純粋なあの頃を思い出す。昔の自分が今のくたびれた姿を見たら何を思うのだろうか。
昔は未来ってもっとキラキラしているものだと思っていた。ドラマに出てくるスーツをビシッと決めたキャリアウーマンはいかにもできる大人って感じでかっこよくて、自分もいつかあんな感じでバリバリ働いて、お洒落なカフェでコーヒーでも飲んでいるようになりたいって憧れて。
でも現実はこれ。仕事に追われ、上司に𠮟られる日々。夢見た生活とはほど遠い。
「あーあ。あの頃に戻れたらなあ。仕事休みたーい」
思わず愚痴めいた言葉が漏れた。それでも明日はやってくる。また朝日が昇れば灰色の日常が待っている。
「はあ、とっとと化粧落としてシャワー浴びて寝なきゃ」
女は一つ伸びをして立ち上がると洗面所へと向かっていった。
「こんばんはお姉さん」
再びベッドに戻ると何やら白い物体が枕元に鎮座していた。女の肩からタオルが滑り落ち、髪から滴る雫が寝間着に吸い込まれていく。しかし女はそれを気にもとめずにポカンと口を開けた。
「え、なにこれ?」
女の問いかけに白い毛玉は小首をかしげる。それに連動して長い耳がぴょこぴょこと動いた。
「あっ、そうか。初めまして! 実は僕、月に帰る途中で問題が起きちゃって、さっきお姉さんの部屋の上に不時着したところなんです。そこで船が直るまでここにいさせてもらえないでしょうか」
つやのある黒いビーズがこちらを見つめる。女はそれをじっと見つめ返し、息を吸った。
「嫌よ」
「えっ!? そんな!」
大きな目がさらに見開かれる。兎は慌てて女の足元に駆け寄ってつぶらな瞳をうるうるさせた。だがそんな憐憫を誘うような表情にも女の心は動かされない。
「だってしゃべる兎なんて変だし、うちペット飼うほどの余裕ないから。大体ね、私疲れているのよ。これ以上面倒事なんて御免だわ。明日も仕事だし。さっさとその船だかなんだか知らないけど、それ持って出ていってちょうだい」
今すぐ布団に飛び込みたいくらいには疲弊しているのだ。この妙な生物に割く時間も勿体ない。
「そ、そこをなんとか。船はちゃんと見つからないようにしますし、迷惑かけないようにしますから! お願いです。僕居場所なくなっちゃう」
おろおろと両手をすり合わせて懇願する自称月の兎を見て女はため息をついた。
「わかった。ここにいてもいいわ。ただしちょっとでも面倒事を起こした日にはすぐにここからたたき出してやるからね」
髪をかき上げ、再びため息をつくと女は洗面所に足を向ける。とりあえずとっとと寝てしまいたかった。
「えっいいんですか? ありがとうございます!」
後ろから先ほどとは打って変わった明るい声が聞こえてきたが、相手にするのも面倒だと無視してドライヤーをコンセントに差し込んだ。
ジリリリリ
耳元で耳障りな電子音が鳴り響く。
ああ、また憂鬱な朝がやってきた。
近くにあったスマホのアラームを止めて欠伸をし、のろのろと女は起き上がる。周りを見渡してもあの奇妙な毛玉は見当たらない。
「よっぽど疲れていたのかしら。しゃべる兎の夢をみるなんて」
額に手を当てて首を振った。そんなことより準備しなくては。朝はそこまで時間がない。いつものように扉を開けてリビング兼キッチンの部屋に入ると、
「あっ、お姉さん。おはようございます」
キッチンの戸棚をあけようと背伸びしているもふもふが振り返った。
「……なんでいるのよ」
「え? だってお姉さんここにいてもいいっていったじゃないですか」
呆然とした声が落ちると、兎はきょとんとした顔でこちらを見る。
「まさかもう僕なにかしちゃいましたか? あっ、別にその戸棚の中とか漁ってないですよ。ただちょっと食べられる物とかないかなーと思っていただけで」
わたわたと弁明し始める兎に女は深いため息をついた。
「夢じゃなかったのね。もういいわ。冷蔵庫……ってわからないか。ちょっと待ってて。ニンジン買ってあったかな」
「ニンジンじゃなくても、人が食べられるものなら大体なんでも食べられますよ? 僕地球の兎と全く違いますし」
「あっそう」
不思議そうにこちらを見る兎を放っておいて、女は冷蔵庫を漁った。しかしあったのは卵と冷凍餃子、そして冷凍保存した白米だけ。
「そういや最近はずっとゼリーとかプロテインバーとか片手間に食べられるものしか食べてなかったのよね」
振り返って兎を見る。兎はくりくりの瞳でこちらを見つめ返した。
「どうしたんですか?」
「餃子焼くと時間がかかるし……アンタ、卵かけご飯でもいい?」
「そのたまごかけごはんって何だかわからないですけど、多分だいじょうぶです」
元気よく返事した兎を椅子に座らせ、冷凍ご飯を茶碗に盛り、電子レンジに突っ込む。その間に顔を洗って、ハミガキとコップをリビングに持ち込み、戸棚からプロテインバーを出した。袋を破って口の中に放り込む。ぱさぱさの人工的な甘さが口の中に広がった。
タイミングよく無機質な電子音が響く。湯気の立つ白米に卵をいれて、醬油をたらし兎の目の前にどんと置いた。
「時間ないからちゃっちゃと食べちゃってよね。箸持てる?スプーンのほうがいいか」
兎はほかほかのご飯に目を丸くした後こちらを仰ぎ見た。
「お姉さんは食べないんですか?」
「さっき食べたでしょ」
怪訝な顔で返すと兎は啞然とする。
「ええ!? あれだけですか。お姉さん倒れちゃいますよ」
「いつもこのくらいよ。さっさと食べなさい。時間ないって言っているでしょ」
歯磨き粉をブラシにつけながら言い捨てると渋々兎はスプーンを持って混ぜ始めた。兎が食べている間に歯磨きを終え、着がえをすまし、顔を洗って、軽く化粧をする。
「あのー食べ終わったんですけど、この後どうすればいいですか」
控えめに声をかけられて女は振り返った。
「ああ、食べ終わったならそこ置いといて。片付けるから」
ぱっと洗剤で洗って適当に片付ける。そのときふと女は気がついた。
「そういや、お昼の準備できないけど、あんたこれでもいい?」
戸棚から先程と同じ袋を目の前で振ってみせる。兎はこくんと頷いた。
「大丈夫です。それに今日は船の修理する予定なのでもしかしたら食べている暇ないかもしれないですし」
「そういえば、なんか船が故障したとかみたいなことを昨日言っていた気がするわ。まあ、いいけど。いい、部屋のもの一つでも壊したり、大きな音だしたりしたら叩きだすからね」
そして壁掛け時計の時刻を確認する。ヤバい、もう行かなくちゃ。
「じゃあ、私もう行くから。部屋の外には出ないでよ。大事になるから」
喋る兎なんて見つかった日にはそれこそ大ニュースだ。念を押すと兎は再びこくんと頷いた。
「わかりました。いってらっしゃい」
「はいはい。あんたも気を付けてよね」
パソコンやら資料やらをカバンに詰め込んで女はバタバタと出ていった。
帰宅したのは昨日と同じ時間。ただ昨日と違うのは真っ暗闇ではなく電気が煌々とついていたところである。
「アンタ、まだ寝てなかったの?」
女は椅子にちょこんと座った兎に声をかける。兎の耳がピクリと動き、女の顔を見た。
「あっ、おかえりなさい。遅かったんですね」
にこやかに返されて女は一瞬呆けた。おかえりなんて最後に聞いたのはいつだっただろう。
「……ただいま。もしかしてアンタ私のこと待っていたの?」
「はい! まあ修理に思ったよりも時間がかかっちゃったっていうのもあるんですけどね」
照れ笑いを浮かべる兎に女はため息をついた。そして机に視線を移し、目を見開く。
「っていうかアンタこれ食べてないじゃない。食べないとお腹空くでしょう」
机の上には一切手をつけられていないプロテインバー。無機質な光に照らされ、ぽつりと存在している。
「もしかして食べられないものだったの? だったら最初から言いなさいよ」
女が詰め寄ると兎は慌てて首を振った。
「違いますよ。僕がただ修理に熱中していただけです!」
兎の言い分に女はほっと息をつく。
なんだ、食べられないわけじゃないのね。よかった。と、そこまで考えついてははっとした。
何よ、なんで昨日あったばかりの奴にこんな心配しなくちゃいけないわけ?
女は安心したことを悟られないようにわざと頭を大げさにかきあげた。
「ま、それならいいけど。でも今まで何も食べてなかったんじゃあお腹へっているでしょ。ちょっと待ってなさい。コンビニでなんか買ってくるから」
「わかりました。じゃあお姉さんも一緒に食べましょう」
兎の言葉に女は片眉を上げた。
「なんで私も食べる前提なわけ?」
「お姉さんはもう夕ご飯食べたんですか?」
兎は首をかしげて返す。
「食べてないけど。別にお腹へっているわけじゃないからいいじゃない。昼ご飯は食べたし」
その言葉に兎はただでさえ大きな瞳をさらに見開いた。
「お姉さん! 朝も思っていましたけど、食べなさすぎですよ。それじゃ、絶対いつか倒れます! とにかく僕と一緒に食べましょうよ」
平べったい足をバンバンと叩きつけ、兎は鼻息荒く抗議した。
「うるさい。近所迷惑よ。床に足を叩きつけないで。追い出されたいの?」
兎はすぐさま止めたが、責めるようにじいっと女を見つめてくる。あまりにも視線が鬱陶しいので女は大きく舌打ちした。
「はいはい、わかったわよ。一緒に食べればいいんでしょ、食べれば。ちょっとそこで待ってなさいよ」
途端に兎は笑顔になった。
「はい! 楽しみに待ってます。ちゃんとお姉さんの分も用意してくださいね。絶対ですよ」
兎は口うるさく指図してくる。
これじゃどっちが家主なんだかわからないわね。
女は呆れ返りながらもアパート下にあるコンビニに行くために靴をつっかけた。
「で、これおいしい? 満足した?」
「はい!おいしいです」
机の上に並べられたのは色鮮やかなカット野菜とおにぎり二個、ペットボトルのお茶。ポリポリと野菜をかじる兎の様子を女は片肘をついて眺めていた。
兎って本当にちまちま口動かして食べるのね。おにぎりの包装に手をかけながらぼんやりとそんなことを思った。
「ところでアンタ、名前なんていうのよ。まさか兎って名前ですなんて言わないでしょうね」
兎の手が止まった。ひくひくと鼻が動き、まんまるの黒玉が女を映す。
「お姉さんはなんて名前なんですか?」
「こっちの質問が先でしょ。まあいいわ。萩原佳奈子。私の名前は佳奈子よ。で、アンタの名前は?」
ため息をつきつつ答えると兎はうんうんと頷いた。
「カナコちゃんですね、覚えました! で、僕の名前は、えっと」
急に口ごもる兎に佳奈子は眉間に皺をよせた。
「何? 本当に僕の名前は兎ですなんて言うつもりなの?」
「違います!」
間髪入れずに兎は言い返す。
「じゃ、早く言いなさいよ」
すると兎はうろうろと視線をさまよわせた。
「えっとですね、そのぉ、僕って月からきたわけじゃないですか。月での名前だとカナコちゃんが呼びにくいんじゃないかなーと思って。ほら、月と地球じゃ言語が違うというか、なんというか」
歯切れ悪く言い訳を並べる兎に佳奈子はさらに眉間の皺を深くした。
「ごちゃごちゃとうるさいわね。結局何が言いたいのよ」
「そのですね、僕の名前、カナコちゃんが適当に呼び名つけてくれないかなーなんて」
上目づかいでこちらを伺う兎に女は冷ややかな視線を送る。
「ニックネームでもつけろって話? 本当に手のかかる兎ね」
「そ、それはそうなんですけど……」
体を縮こませる兎を見て女はやれやれと首を振った。
「じゃあおだんご」
兎と言えば月。月といえば団子。ちょうどコイツとあった日はスーパームーンの日だったし。我ながらいいネーミングセンスだわと佳奈子は自画自賛した。
しかし佳奈子の言葉に兎はうーんと唸る。
「おだんごはちょっと……」
「じゃあ白玉粉からとってしらたま」
「ええーしらたまかあ……」
未だに不満そうな顔を崩さない兎に佳奈子はだんだん腹がたってきた。
「じゃあおしるこ。それがダメならぜんざい」
「それもちょっと……」
ついに佳奈子は机の上を思いっきり叩く。
「ああ、もう! 居候のくせに生意気ね。アンタ自分の立場分かってる? この中から選ばなかったら、問答無用で非常食って名前にするわよ」
佳奈子の勢いに兎は飛び上がり、びくびくと佳奈子を見上げた。
「す、すみません。じゃあしらたまでいいです」
「はあ? しらたま“で”いいですって? いつからそんなに偉くなったのよ、アンタ」
佳奈子が口調を荒げると兎は顔を青白くさせた。
「いえ、喜んでしらたまにさせてください。お願いします、カナコ様」
平伏する兎に佳奈子は鼻を鳴らした。
「最初からそう言いなさいよ。じゃあ、しらたまよろしく」
手を差し出せば自分よりも小さな手が触れる。白い毛は思っていたよりもずっとふわふわでやわらかかった。
「はい、よろしくお願いします、カナコちゃん!」
勢い良く手を握るしらたまを一瞥して佳奈子はおにぎりに口をつけた。
ジリリリ
またいつも通り不快な音が耳元で響く。佳奈子は止めるために手を伸ばした。が、届く前に音が途切れる。ゆっくりと目を開けると全面に映し出される真っ白な毛。
「おはようございます! カナコちゃん。朝ですよ。さあ起きましょう」
ゆさゆさと揺さぶられて、佳奈子の意識はようやく覚醒した。
「ああ、アンタが起こしてくれたの。ありがとうね」
あくびを一つしてしらたまを見やる。
「そうでしょう。ちゃんと起こしましたからね。さあ一緒にご飯食べましょう」
張り切るしらたまをみて佳奈子は気まずげに目をそらした。
「ああ、そのことなんだけどね、昨日あれしか買ってなかったから、今日のご飯いいのないのよ」
佳奈子の言葉にしらたまはきょとんとする。
「じゃあ今日もあのたまごかけごはんっていうやつですか?」
「そうなるわね……」
佳奈子は頬をかいて遠くを見やった。
あの時、適当になんか買っておけばよかったわとじわじわと後悔がこみ上げてくる。
「やった!あれおいしかったんですよ。さっ早く席に着きましょう。時間あんまりないんですよね?」
ぴょんと跳ねるしらたまを佳奈子はぽかんと眺めた。
「え、あれでいいの?」
「僕は全然構いませんよ。ほらカナコちゃん早く。たまごかけごはん作りますよー」
それでも動く気配のない佳奈子みて、しらたまはグイグイと押し始める。足にしがみつかれて、佳奈子はようやっと足を動かした。
「ところで今日も同じ時間に帰ってくるんですか?」
器用にスプーンを動かすしらたまを眺めていたら、唐突に話しかけられた。
「そうね。まあ、多分そうなるでしょうね。だから今日はさっさと寝ちゃっていいわよ。あ、あと今日の昼ご飯プロテインバーしかないのよね。どうする? 餃子でも焼いとく?」
やっぱり昨日のうちに買っておけばよかった。落ち込む佳奈子に明るい声が降ってきた。
「いえ、お構いなく。まだ時間がかかりそうですし、きっと今日も遅くまでやると思いますしから。それにカナコちゃんと一緒に食べたいので」
「でも昼ご飯食べなかったらお腹へるでしょ」
その言葉にしらたまはピンと耳を立てた。
「別にそこまで頻繫に食べなくても大丈夫ですよ。安心してください」
しかし佳奈子の顔は曇ったままだった。しらたまは佳奈子の表情を見て、再び口を開く。
「あっやっぱりお腹空くかもしれないので置いてくれませんか?」
つぶらな瞳が佳奈子を見上げる。佳奈子はわざとらしく大きな息をついた。
「しょうがないわね。じゃあ一応置いといてあげるわ。あと、喋るのもいいけど、さっさと食べなさいよ。時間ないんだから」
「もうすぐ終わりますよ。僕ちゃんと急いだんですから」
ほら、と見せてきたお椀の中は確かにあともう一口、二口で終わりそうだ。
「ふーん。ま、でも私もう終わったけどね。アンタ遅すぎない?」
「カナコちゃんより口小さいからしょうがないでしょう」
ムキになって叫んだしらたまを放って佳奈子は皿洗いのために席を立った。
「ただいまー」
「おかえりなさい」
すぐさま返ってきた返事に佳奈子は思わず口角をあげていた。家の中から物音がしたと思うと同時に白い毛玉がひょっこりと覗く。
「ほら、今日の夕飯」
コンビニのロゴが入ったビニール袋を掲げて見せれば、しらたまは目を輝かせた。
「わあ、今日の夕ご飯は何ですか」
「それは開けてみてからのお楽しみ。ま、今日は昨日よりもちょっとお高いものにしておいたわよ。感謝しなさい」
「おお! それは楽しみです」
ぴょんぴょん飛び跳ねるしらたまを見て佳奈子は笑みをこぼした。
「カナコちゃん、これ、すっごく食べやすいです」
瞳をきらきらさせ、しらたまがかじりついているのはオレンジの棒。佳奈子は野菜スティックを買ってきたのだった。角材のようなニンジンは小気味いい音を立て、小さな口に吸い込まれていく。
「アンタ兎だからその格好似合うわね。ま、気にいったならよかったけど」
クスクスと笑いながら佳奈子はカップからキュウリを手渡してやった。
「ところで宇宙船の修理は進んでいるの? そもそも船すら見当たらないけど」
「あっ、今降ろしてありますよ。見ます?」
てっきり断られるかと思っていた佳奈子は驚いた。
「いいの?」
「構いませんよ。カナコちゃんになら見られても大丈夫ですし。あっでもこれ食べ終わってからでいいですか」
口をもぐもぐさせて頷くしらたま。そこには何のためらいも浮かんでいなかった。
「まあ、そうね。どうせ明日は休みだしね。ゆっくり食べて構わないわ」
佳奈子も具材をかけたまま手を付けていない蕎麦に手を伸ばした。
「へえ、これが宇宙船? 全くそんな感じしないわね」
布団の上に置いてあったのはバランスボールほどの銀色の球体であった。見たところ入口どころかでこぼこ一つすらみあたらない完璧な球だ。どうやって操作するのか皆目見当もつかない。触れてみるとつるりと滑らかな感触が伝わってくる。
「ねえ、これどうやって乗るの? 入口すらないじゃない」
「あっ、それはですね……」
しらたまは球体に回り込むと何やら下の方を押した。するとキュイインと甲高い音を立てて球体が発光し始める。
「えっ、なんか光り輝いているんだけど」
「すぐ終わるんで安心してください。最新式じゃないので起動時ちょっとうるさいんですよね」
困惑する佳奈子にしらたまは平然と言った。言葉通りすぐに発光はおさまり、線が入って長方形を作ったと思った瞬間、ガコンと内側から開いた。開いたところがスロープのようになり、中身が現れる。流石に佳奈子の身長では中に入るのは難しいので、入口から覗き込んだ。
「わっ、すごい」
無意識のうちに感嘆の声が漏れる。中に広がっていたのは壁の三分の一を覆うほどの巨大な液晶パネルと無数のボタン。空間の真ん中には小さな赤い椅子も鎮座している。
「こんなに複雑そうなら、ちょっとぶつかっただけでも大変そうね」
見ただけで繊細な機械が詰まっているとわかる。一つ狂っただけでも不具合を起こしそうだ。
「そうなんですよね……。しかも僕結構派手にやっちゃって」
「そんなにやらかしたの?」
苦笑したしらたまに佳奈子は首をかしげた。壁には整然とスイッチやらモニターが並んでいる。見た感じそこまでおかしなところは見当たらないが、ここからでは見えない部分がおかしくなっているのだろうか。
「後ろ回れば分かりますよ」
「後ろ?」
首をひねろうとするとしらたまが慌てて言った。
「えっと船内じゃなくて、外から回ってもらえれば分かります」
佳奈子はぐるりと船の後ろに回って愕然とした。
「アンタ……想像以上に派手にやらかしたのね」
前からでは気付かなかったが、後ろ側は滑らかな面が無惨にもへこんでいた。しかもなかなか大きい。佳奈子の顔くらいはありそうなへこみだった。
「これちゃんと言ったの? というか連絡できた?」
「はい! 通信機はダメになっていなかったのでちゃんと上司には連絡しました。めちゃくちゃ怒られましたけど」
「でしょうね」
これは誰だって怒る。一体どのようなぶつけ方をしたらこんなへこみをこさえることができたのか。佳奈子はなんだか頭が痛くなってきた。
「はあ、アンタの上司に同情するわ。これならずいぶんかかりそうね」
佳奈子の言葉にしらたまはうなだれる。
「そうですよね……僕いつもそうなんです。ミスばっかりして周りに迷惑かけてばっかりで」
しょんぼりとした姿に佳奈子はついその白い毛並みに手を伸ばしていた。
「そんなに萎れないでよ。アンタ、その月の兎の中ではベテランの方なの?」
しらたまは弱々しく首を振った。
「いえ、むしろ新人のほうです」
「じゃあ仕方ないわよ。誰だって失敗はあるし、新人ならなおさら」
「でも……」
それでも気分が下がったままのしらたまに佳奈子はくしゃっと頭をかき混ぜた。
「そんなにグズグズしない。起こっちゃったものはしょうがないでしょ」
黒真珠のような目と佳奈子の視線が交じり合う。
「まあ気持ちはわからなくもないけどね。私も似たようなもんだし」
しらたまは大きく目を見開いた。
「えっ、カナコちゃんもよく失敗とかするんですか?」
「よくどころかいつもよ、いつも。いっつも上司には怒られるし皆には迷惑かけてばっか。今繫忙期だから余計に申し訳ないわよ。大体優秀ならいつもこんな終電ギリギリで帰ってこないわ」
じっとこちらの話に耳を傾けているしらたまに佳奈子はさらに言葉を紡いだ。
「今日も取引先で盛大な失敗やらかしたし。あーあ、上手くいかないことばっかりよ」
大げさに肩をすくめてみせると、しらたまが急に飛びついてきた。
「カナコちゃんだって十分がんばっていると思いますよ!」
「はいはい、ありがとね。でも急に飛びつくのはやめてちょうだい。びっくりするでしょ」
しかししらたまはさらにぐりぐりと頭を押し付けた。
「ちょっと聞いているの?」
「でもこうしてみるとカナコちゃんと僕って似ていますよね。えへへ、おそろいですね」
佳奈子の抗議を無視してしらたまはそうのたまった。思わず顔を背けたのはその照れ笑いにほだされたせいじゃない。そう決して。
「アンタとポンコツで一括りにされるのは気に食わないけどね。まあ早くこの船片付けてよ。寝れないじゃない」
「はあい。ちょっと待ってくださいね」
再び周りをいじくって扉を閉めると、ゴロゴロと転がしてベランダの方へと向かっていく。
「えっまさかベランダの方へ出す気? 雨とか大丈夫なの?」
戸惑う佳奈子にしらたまは不思議そうに返した。
「一応それ用の加工はされていますよ。流石に土砂降りのときはいれてもらいたいですけど。後ちゃんと透明化するので外に置いておいても見られる心配はないので、安心してください」
胸を張って答えるしらたまに佳奈子はため息をついた。
「あっそう」
一応スマホで天気を確認すると明日は見事な晴れ模様だった。ちなみに降水確率はゼロパーセントだった。
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