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【短編小説】月と太陽

少女と少女の太陽だった彼女の話

 フェンスにもたれかかって少女は街を眺めていた。夕暮れに沈む街を。色褪せた街を。

「どうしてあなたはここにいないの」

 呟いた一言は薄闇に溶けていく。思い出すのはあの日の約束。

『また二人でここに来ようね』

 彼女の笑った顔が脳裏をよぎる。あのとき彼女は幼い子供のように無邪気に笑っていた。その笑顔すらも徐々に記憶の海に沈んでいくのだ。それだけは耐えられない。
 しかし既に彼女の面影がモノクロになり始めている事実に少女は怯えていた。

 思えば少女は全くもって消極的で受動的だった。いつも重要な決定を下すのが苦手であった。特にその決定のせいで他の人に影響が及ぶものなら尚更。自分の判断を受け入れてほしいと思う反面、それを真正面から叩き折ってほしかった。
 そうすれば自分の責任はなくなるからだ。この重責から解放してほしかった。

 灰色の毎日をやり過ごし、ただ無駄に息を吸って吐いている日々。こんな無意味な時間を過ごすくらいならば、誰かに終わらせほしかった。いや自分の命すら他人に委ねている時点でどうしようもないのかもしれない。

 そんな少女を変えるきっかけを作ったのはある少女であった。クラス替えで出会った彼女はいつもクラスの中心にいるような子であった。だというのにクラスの隅っこで息を潜めるように生きてきた少女に話しかけてきて、常に少女の傍らにいた。
 普段ならばそのような子と一緒に過ごすなど苦痛以外の何物でもない。
 だが何故か彼女の隣は息がしやすかったことを覚えている。彼女と出会ってから少女の世界にも色がついた。

 夜空を見上げると青白い月が顔を覗かせている。

「月ってたしか太陽の光で輝くんだっけ」

 彼女と自分はまるで太陽と月だ。輝く彼女のおかげで自分も存在できたのだ。では太陽がなくなってしまった月はどうなるのだろう。輝かぬ月などただの巨大な石ころではないか。

 机の上に飾られた小さな花。少女の太陽は突然消えてしまった。その瞬間から少女の世界の色も失せた。

 足を一歩踏み出す。街全体を見渡せるこの高台からはぽつぽつと明かりが灯っていく様が目に入った。闇に輝く明かりたちは遊園地のようだ。ここは夜景の穴場スポットだと片思いの相手を教えるような調子で話してくれた彼女の声がよみがえる。
 しかしどんな美しい光景も少女の心を動かすことはない。

「一緒に来ようって言ったのに」

 恨みがましい言葉が落ちる。

 もしいなくなるのであれば一緒に連れていってほしかった。彼女がいない世界に意味はない。どうしてあのとき死ななかったのだろう。死ぬ機会も方法もいくらでもあったというのにという声が頭の中でずっと響き渡っている。
 それが無理ならば彼女と出会う前に戻してほしかった。一度も太陽の光を知らない石ころと一度でもその光を受けて輝いた石ころでは天と地ほども差があるのだから。

 一歩また一歩と足を動かす。眼下に広がる家々は相変わらず眩い光をきらめかせていた。そのきらめきがあまりにも楽しそうで少女は息を吐く。

「なんだかお祭りかサーカスみたい」

 そう皆楽しそうにくるくる回る。少女を置いてくるくる回る。少女の時間だけが止まっていた。

 さらに一歩また一歩と歩みを進める。あともう一歩踏み出せば彼女と会えるのだ。少女は知らず知らずのうちに笑みを浮かべていた。踏み出した片足が宙に浮く。そのときだった。

 にゃあ

 小さな鳴き声が耳に入った。思わず踏み出した足をひっこめて振り返る。暗闇にぼんやり浮かび上がる白い毛玉。太陽を連想させる金がこちらを見つめていた。

「なんだ猫かあ。じゃましないでよ」

 だが少女の意に反して子猫は少女の足元にすり寄ってきた。みゃあみゃあと甘える子猫は少女の決意を容易くぐらつかせる。

「ねえやめてってば。私今からあの子に会いにいくの。そんなことしないでよ。だって……」

 ただでさえ臆病な性格なのだ。ここで踏み出さねば彼女に会えない。非難じみた声はだんだん震えて最後には言葉にならなくなった。
 早く、早く一歩を踏み出さなくては。
 が、既に時遅し。情けないことに足はもう一歩も前に進まなかった。

「ねえどうしてじゃまするの。私、わたし、あの子に……」

 ぼろぼろと少女の目から涙がこぼれ落ちた。幼子のように声を上げて泣く少女に子猫はただ静かに寄り添っていた。

 泣き止んだときにはとっくに陽は沈んでいて、辺りは真っ暗だった。辛うじて公園内にある常夜灯が道標となっている。
 スカートに入った携帯が震えた。どうせ心配性の母からだろう。少女は携帯を開きもせずにもう一度目の前に広がる街を見下ろした。
 泣きはらした目が痛い。きっと今自分は酷い顔だと少女は思った。足元でじゃれつく子猫に目をやる。

「……あなたもくる?」

 にゃあと子猫は鳴いた。

「そう」

 少女はしゃがんで子猫に手を差し出した。子猫は大人しく腕の中に収まる。その温もりを抱きしめて少女は家路についた。


 月は太陽がなくなってもまた別の太陽を見つけて再び輝くのだろうか。それとも――
 あの日からそんなことを考えている。ふわりとレースのカーテンが揺れた。

「ねえあなたはどう思う?」

 にゃあと白猫は鳴いた。彼女の名前を受け継いだこの猫は今日も日向で丸くなっている。そして今日も少女は生きている。

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