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祖父の話

 私の両親は共働きだった。

 私が保育園に通っていた頃、両親は迎えに来れなかったので、祖父が3つ隣の町から車で迎えに来てくれていた。


 小学校に上がると、送り迎えの必要がなくなり、その代わりに夏休みの間は祖父母の家に泊まるようになった。

 遊び盛りの私は、初めて見る自然や動物たちに大いにはしゃいだ。
 田んぼの中を長靴で歩き回り、足が抜けなくなって泣いた時には、祖父が助けてくれた。

 家に帰れば、畑で採れた野菜やスイカを食べさせてくれた。
 いつも私たち兄妹の為に冷凍庫にアイスを入れてくれていて「お腹が冷えるから1日1個までね」と言っていた。


 私が中学に上がると同時に引っ越してからは、会うことがほとんどなくなってしまった。
 でも、毎年新米の時期には米が、夏になれば野菜や果物が祖父から届くようになっていた。


 去年の夏、スイカが届いた。
 その頃には両親の離婚や転職など、色んなことがあってもう家に誰もいなかったので、一人で食べた。
 かなり大きくて、1人では切るのも大変だった。
 祖父は兄妹全員でとか、家族で食べることを想定して大きいスイカを送ってくれていたんだと思う。何も話してなくてごめん。


 お礼の電話をかけた時、祖父は病院にいた。
 何か病気にでもなったのかと聞くと、祖父は笑って「ただの健康診断。○○は元気か?」と言った。

 その後近況報告をしたが、私はいつものように嘘をついた。
 私が高校を中退していることを祖父母は知らなかった。

 通話の最後に、祖父は「来年は○○が成人だからお祝いしないとなぁ」と笑っていた。



 1ヶ月後、祖父が亡くなったと電話があった。
 母が泣き腫らした目で「葬式はもう終わっている」と言った。

 祖父の葬式に、私たち家族は呼ばれなかった。
 いや、厳密には呼ばれてなかった訳ではない。祖母の代わりに叔父が母に1度だけ電話をかけていたからだ。
 ただ、かけられたのはその1度だけ。
 「電話をかけたが、出なかったから」という理由で、私たちは祖父の死を葬式が終わり、墓に納められるまで知らずにいた。
 母は叔父に怒りを通り越して呆れて、ものも言えないようだった。



 祖父の死因は脳出血だった。
 亡くなる2ヶ月前に階段から転落する事故があり、その時に頭を打って出血もしていたらしい。
 後から悪化する場合もあるため、定期的に通院をしていたらしく、私が電話をかけた時もその検査のためだったようだ。

 数年ぶりに家族全員が揃ったのは祖父の墓参りのためだった。

 久しぶりに見た祖母は背骨が曲がっていて、記憶の中にいる祖母よりも小さくなっていた。
 座った状態から立ちあがるのも何か支えがないと困難らしく、手を差し伸べた私を見て「ごめんねぇ」と申し訳なさそうに言った。

 謝るのは私の方だった。
 小さい頃の私は、周りの子供たちと比べてずっとわがままで、あなた達に大変な迷惑をかけただろう。

 構ってくれない両親への不満を、祖父母にぶつけてしまっていた。
 反抗期にも祖父母の家にいた。
 突然何も言わず家を飛び出して、森や田んぼを夜遅くなるまで歩き回ったこともあったから、不安にさせたかもしれない。私が感情のまま暴言を吐いた時も、しっかり目を見て叱ってくれた。


 後から知った話だが、祖父は私が泊まっていた時のことを母に嬉しそうに話していたらしい。「あんたのことが目に入れても痛くないくらい可愛いんよ」と母は言っていた。


 今年の夏はもう終わってしまうけど、スーパーのスイカを見て祖父のスイカを思い出すことがあったので、この文章を書いた。

 祖父が亡くなる前に本当のことをちゃんと言った方がよかったのか、言わないままでよかったのか、今でも分からない。

 結局、晴れ着姿も見せられなかったな。