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となりの家のナイトウさん

隣人であり、親友であり

隣の家、と言っても離れている。小さな道路と小さな畑を渡ったところに、ナイトウさんは一人で住んでいる。畑のお世話と、季節のお花を玄関に飾ることを楽しみにしながら。ここはポツンポツンと点在する家からなる、文字通り何もない村。というのもこの村、コンビニはおろか、自動販売機も信号機もない。あるのは山と川と土。古い佇まいの、義両親が待つ夫の生家に、結婚と同時に私は引っ越してきた。2人目の嫁として。もう10年も前だけど。私は生まれ育った環境に似ていたこの家に喜んで嫁いできた訳だけど、平和な村人たちにとってはビッグなニュース。なかにはずかずかと家の中に入ってきて、新生児を抱くパジャマ姿の朝10時の私に、家の務めから墓参りの仕方まで、なんやらかんやら説法をしていかれた人もいた。でも思慮深く控えめな性格のナイトウさんは違った。心地よい距離をずっとずっと保ってくれて、私がここの暮らしに慣れて余裕ができたころ、すこしずつ距離を縮めた私たちは、35歳という年齢差を超えて親友になった。

生き物たちとナイトウさん

近くの文字は苦手なくせに、植物や生き物はいち早く見つけるナイトウさん。付き合いはもう長いのに、年下の私にも丁寧な言葉遣いを欠かさない。その日も私たちはお上品に、何気ない立ち話をしていた。その時ナイトウさんのハイレベルレーダーがあるモノを捉えた。野ウサギだ。私のレーダーは標準レベルだから、事態の把握に時間がかかる。気づいたときにはナイトウさんはウサギと一緒にぴょんぴょんと山に消えてしまっていた。久しぶりに野ウサギを見ることができたのが嬉しかったのだろう。私はウサギと、それに続くナイトウさんの後ろ姿に、置いてきぼりになった。そして次の日にはまた丁寧な口調で、「昨日は失礼しました。」とか涼しい顔で言うのだ。かと思えばマムシは見逃せないらしく、庭先でやっつけていたりする。精一杯怖い顔をして。「また出たのよ。」と意気揚々とした報告を彼女から受けながら、そのキャラで蛇退治していること自体が可笑しくて、私は真面目な顔をして聞けている自信がない。彼女のそんなでこぼこしたところが、私は好きなのかもしれない。
おうちにランチに呼んでいただいた時にこんなことがあった。ナイトウさんは、「何もなくてきたない家でごめんなさいね。」と本当に申し訳なさそうに言いながら(そう、いつも申し訳なさそうにしている)、隣のキッチンでバタバタとしていた。手持無沙汰の私は、こたつで旅行雑誌のカニ特集を見ていた。するとナイトウさん、「私、今カニはダメなの。」聞くと、先日スーパーの外階段でサワガニを見つけたとのこと。「あんたこんなところで何してるの、危ないから川に帰ろうね。」と助手席に迷子のサワガニを乗せたものの、川の近くに車を停められる場所がなかなか見つからない。仕方なく停めた所で、川までは高さがあったけど「元気におやりよ。」と彼女は川に向けてサワガニを投げたらしい。サワガニの今後の幸せを祈って。けれども直後に聞こえた「ぐしゃ」という不吉な音によってそれは打ち砕かれた。ちなみに私たちの村を流れる川は上流だから、大きな岩がゴロゴロしている。ナイトウさんなりのたっぷりの愛を受けて、崖から放り投げられたことにより潰れてしまったサワガニは、確かに気の毒だ。でもそのことに心を痛めて「カニに悪いことしちゃったから」とまた申し訳なさそうにするナイトウさんを、私は愛おしく思わずにはいられない。どうかナイトウさんに、また美味しくカニが食べられる日が来ますように。

植物たちとナイトウさん

私たちはよく一緒に散歩にでかけた。「もうすぐあそこのササユリが咲く頃だから行ってみませんか。」と植物を口実に、私たちは誘い合った。私のベビーカーに乗る子どもが3人変わっても、その後ベビーカーが手元を離れて身軽になっても、いつものコースを季節の花を愛でながら歩いた。セリバオウレンやショウジョウバカマに私たちは春先のため息を漏らし、オレンジ色のカキランに初夏の汗を拭いた。私も植物が好きだけど、ナイトウさんには敵わない。目印になる人工物なんて無い私たちの散歩道で、ナイトウさんは「この木の先のこのあたり」という風に山野草のありかをきちんと把握している。一方で植物は動いていることにも彼女はちゃんと気づいている。数年前まではこの植物とこの植物(私たちは植物を草とは呼ばない)の間で咲いていたこの株が、今年はこっちで咲いている。そんな小さな変化にも彼女は感銘を受けている。「山野草は偉いわよね。1週間咲いたら、はい次はあなたどうぞって、次のお花に譲るもの。いつまでも出しゃばってないものね。」花期の短い山野草を、そんな風に捉えるナイトウさんを、やはり私は愛おしく思う。
車の運転が少し苦手な彼女を、「遠足ですよ。」と口実をつけて、少し遠くにも私は連れ出した。「失礼します。」と遠慮深く小さく助手席に乗り込むナイトウさんを乗せて、私は山道を進む。助手席から見る景色は普段と違って開放的らしく、彼女はすぐに饒舌になる。握りこんでいた彼女の手がやがてカバンを離れて自由になる。そのことが運転席の私を既に十分幸せにする。行先はどこでもいいですと言う彼女の、喜びそうなスポットを私は事前に調べている。ある時連れて行った広島の深入山では、私たちが訪れる時期が少し遅かったササユリを、それでも心から喜んでいた。「来年も頑張って咲くのよ。」いつもそうやって、植物に目線を下ろして、声に出して話しかける。
見た目とは裏腹に実は後期高齢者であるナイトウさんを気遣いながら、私たちは初心者用の登山コースをゆっくり進んだ。75年と40年の人生経験があればお互い話題に困ることはなく、これまで全く違う環境で生きてきたお互いのささやかな経験談を、鳥のさえずりに祝福されるかのように、私たちは称え合った。
遠足の時、ただで連れて行ってもらっては申し訳ないからと、彼女はいつも私のお弁当を用意してくれる。お弁当を朝の戦場下で4個作ることはあっても、人からお弁当を作ってもらうことは皆無の私にとって、それがどれほど嬉しいことか、どうしたら伝わるだろう。若い人の口に合うか分からないと言いながら差し出されたそのお弁当には、クマザサの葉があしらわれていて、おから炒めや煮物が品よく並べられている。早朝にクマザサの葉を採りに一人歩いたナイトウさんの姿が容易に想像できて、私は気持ちを強く保たないと、ナイトウさん弁当を食べきることができない。帰りの時間も考慮して、休憩した東屋からは下山することにした。「広島にもこんなに素敵な山があるなんて知らなかったから、ここまで来れて十分嬉しいです。」と少女のように笑顔をこぼす彼女を、嫌いになる人はこの世にいないだろう。東屋の額縁の中で、若草色の稜線がなめらかに初夏の空を登っていた。

子育てとナイトウさん

実家からも遠く、知り合いもいない村で始まった子育ては、想像以上に孤独だった。前述した、ずかずか説法の第一村人に怖気づいた私は、「前の嫁さんの方がよかったね」などと他の村人からも好き勝手言われるのではないかと勝手にビクビクし、入村後しばらく散歩を封印していた。結局そんなことを言う人はいなかったのだけど、あの時はまだ私の方の、村人受け入れ態勢が整っていなかったのだ。だからまだナイトウさんとは軽く会釈をする程度の関係だった。しかし2時間も続けて寝ていられない初めての母親修行に心身ともに疲れた私は、気晴らしにベビーカーで散歩を始めた。公園なんて洒落た人工物は無いから、公園デビューならぬ村デビューだ。幸い村人は赤ちゃんを心から歓迎してくれて、私たちを見かける度に声をかけ気遣ってくれた。正直、最初はどの村人も同じ顔に見えていたのだけれど、私も余裕が出てきてだんだん彼らの個性を掴めるようになってきた。その中に光る個性を私は見逃さなかった。お隣のナイトウさんだ。謙虚で温かく、どこかくすっとさせるその人に、私は次第に安心して甘えるようになる。
ところで育児休暇制度を利用しながら続けて3人を出産した私は、在宅中という事実が入園要件にかなわず、子育ての一番大変な時期に上の子供を保育園に預けることができなかった。3人目の出産準備を理由に保育園にやっと預けることができるようになったとき、長男は既に4歳半を過ぎていた。男の子2人の子育てで手一杯のところに3人目を妊娠した私の毎朝は、今日一日をやり過ごすことの大変さに途方に暮れて、ベットで涙を流すところから始まった。そんな中「美味しくないかもしれないんだけど」とさり気なく手作りおやつを人数分焼いて届けてくれる彼女の気遣いは、とてもありがたかった。野田琺瑯のトレーに手作りおやつを乗せて、玄関先に現れるエプロン姿の天使に、私はこれまで何度も何度も救われてきた。当時、全部自分でなんとかしなくてはならないと思い込んでいた私は、次第にこの人になら甘えてもいいのではないかと思えるようになっていった。ちょっと見ててもらえませんか、から始まり、買い物の間の子守りとか、病院への付き添い、食事のお世話もお願いしたこともある。そんな頼れる存在が身近にいるかいないかで、子育ては大きく変わる。子どもたちの成長を心から一緒に喜んでくれ、いつも私を全肯定し続けてくれたナイトウさんのお陰で、私は子育ての一番大変な時期を乗り越えることができたと思う。子どもたちもナイトウさんを慕って育ち、初めてのお遣いや初めてのお泊りを、彼らはナイトウさんの家で経験した。
「レモンケーキを焼きました。一緒に母の日のお祝いをしませんか?」となんともキュンとするショートメールを受け(彼女はガラケーを愛している)、母の日の次の静まりかえった月曜日、私は彼女の玄関先の小上がりで幸せを満喫していた。ナイトウさんは何年も前にお母さんを失くしている。その時のことをこんな言葉で話してくれた。「最期に病院にやっと会いに行けた時、母は息をするのもしんどそうで。それなのにそんな体で私のことを心配するんです。元気にしているのって。その時に私分かったの。子育って始まったら終わらないんだなって。」そう、私の子育てはまだ始まったばかり。焦らなくてもいい。そんな気づきを、ナイトウさんはいつも優しく示唆してくれる。ナイトウさんちの玄関に吹き込む青田風と、レモンのケーキのさわやかな香りに私の鼻はツンとした。

外国人とナイトウさん

どうやっても日中の子育ての手が足りなかった私は、ある時思い切った行動に出た。WWOOFという制度を使って外国人のホストファミリーになったのだ。米や野菜づくりをしている我が家は食事と宿泊場所を提供し、ウーファーと呼ばれる外国人は畑仕事や家事の手伝いなどをしてくれるというものだ。そこにお金の介在はなく、お互いの交流や相互理解を主な目的としている。ちなみに私は外国をほとんど知らない。若い時に留学をしなかったことを非常に悔いていた私は、それなら逆留学をすればいいと思い立ったのだ。幸い家族もこのアイデアに賛成してくれて、パンデミックまでの1年間、ドイツやフランス、アメリカなどから6人のウーファーが入れ替わりで我が家での生活を共にしてくれた。彼らは我が家でおばあちゃんの畑仕事を喜んで手伝ってくれた上に、子どもたちの良き遊び相手になり、私に英語の世界を体験させてくれた。そして子育て以外に自分がキラキラした時間を持てることが、結果的に楽しい子育てに繋がることを、私はこの1年間で学んだ。
さて前述が長くなってしまったけれど、ナイトウさんは外国人に驚いてしまう一般村人とは違って、「よく来てくださいましたね。」と心からの笑顔と精一杯の英語で彼らを歓迎してくれた。むしろナイトウさんは私よりも上手に彼らの国の文化を褒めて会話を盛り上げた。ナイトウさんは実はセレブなのか、意外と海外経験が豊富で、海外の芸術文化に造詣が深いのだ。また、「お口に合わないかもしれないんだけど」と玄関先に例の天使姿で現れては、手作りの羊羹を届けてくれたりもした。やはりクマザサをあしらって。そんな彼女の気遣いは外国人に心通じるものがあるらしく、中にはナイトウさんの玄関先でお茶をしてくるウーファーもいた。あの席は本来私の特等席なんだけれど。でもあの玄関先の小上がりで、彼女が英語と日本語であたふたしている様子が想像できて微笑ましい。そして何よりナイトウさんの人柄の良さが世界的に認められたことが、私は誇らしかった。
長年彼女の隣人をしていて気づいたことがある。ナイトウさんは相手へのリスペクトをいつも忘れないのだ。相手が家族であれ、隣人であれ、隣人の客人の外国人であれ、配達人であれ。さらには植物であれ、生き物であれ。だからナイトウさんの玄関先は密かな人気スポットになっていることを私は知っている。誰をもリスペクトして受け入れてくれる安心感があるからこそ、人は(もしかしたら蛇も)彼女の家に立ち寄りたくなるのだろう。そしてそんな彼女を私は最大限リスペクトしている。

苔農家とナイトウさん

私が公務員を辞めて苔農家を始めた時、ナイトウさんは「私も苔、好きですよ」と私の選択を静かに尊重してくれた。
数年かけてこの村での暮らしが思いのほか心地よくなってきた私は、ここでの暮らしを生活の軸にしていきたい考えるようになっていた。それは前述したホストファミリーの経験が強く影響している。世界中から地球の裏側のこの片田舎にたどり着いた若きウーファー達は、自分の人生を誰のせいにもさせず、自分の直観を信じる人たちだった。そして彼らから得た、もっと自由に自分の感覚を大切にしていい、という人生最大の教訓は、ついに私を公務員の世界から完全に引き離したのだった。そして経緯は長くなるので省略するが、私はこの村で苔のとりこになり、苔農家になった。その経緯を、ナイトウさんはいつも散歩道で肯定してくれた。
私が苔を好きなのは、あの植物たちもまた謙虚で温かく、美しいからだ。他の植物が住まないところを住処に選び、小さな生き物たちに寝床を与え、上から落ちてくる種を受け止める。主役には決して名乗り出ないけれど、森のゆりかごとして、その住民すべてに愛される。
そんな苔が豊富なこの村で、私はナイトウさんと知り合い、親友になれたことを嬉しく思う。「この苔の名前は何ですか?珍しいですか?」散歩中にそんな会話が増えて、散歩中はいよいよ会話に困らない。そして「珍しい苔です。」と私が言おうものなら、「頑張ってね。」としゃがみ込んで手を叩く(自力で増えるのを応援しているらしい)ナイトウさんを見て、こんな風に苔を慈しむ人が増えてくれたら、山から苔は枯渇しないで済むのに、と思う。

ナイトウさんと富山

私は数年以内にナイトウさんが家を畳んで娘家族のいる富山県に出ていってしまうことを知っている。「同じ環境はずっとは続かない。変わっていく環境の中でも自分を見失わずに毎日を楽しめることが大切だよ。」と私は日頃から子どもたちに偉そうに言っている。けれどもお隣からナイトウさんの愛くるしい生活音が消えた時、果たして私は子供たちに言っているそれを実行できるだろうか。正直不安で仕方がないから、今これを書いている。彼女とのすばらしい思い出の数々を残したくて。
75歳のナイトウさんはご両親の建てたかわいらしい平屋を守りたいと、10年くらい前に富山からこちらに移り、一人暮らしをしてきた。小さな畑を耕したり散歩をしたり、図書館通いをしたり。ささやかな生活を彼女は満喫しているのが隣からも見て取れた。それでも冬の寂しさは一人では耐えられないらしく、本格的な冬が来る前にいつも富山県の娘さんの家に数カ月滞在するという生活パターンを何年も繰り返してきた。長期不在のナイトウさんの家は雪を被って生気を失い、誰も近寄らない。だから春が近づくと私はいつもナイトウさんの帰りを楽しみに待っていた。数か月後、いつもどおりのナイトウさんが、遠い北国から春を乗せて帰ってくる。富山の美味しい茶菓子を手土産に。ちなみに富山の茶菓子は本当にレベルが高い。お饅頭、羊羹、おせんべい、どらやき。ナイトウさんは美味しいものを本当によく知っていて、いつも一緒に食べましょうと私におすそ分けをしてくれた。あの玄関先の小上がりで。ナイトウさんは富山の生活も心から大事にしていて、富山のあんなことやこんなことをいつも私に話してくれた。だから私は富山県をゆっくりと観光したことはないけれど、金沢にちょっと遠慮してしまう富山の人々や、富山に咲き広がるというキクザキイチリンソウなどの様子をありありと思い浮かべることができる。いつか必ず、ナイトウさんの教えてくれた風景に、会いに行かなくてはいけない。
ところが、その広島と富山県を往復する二拠点生活が、誰もが分かっていたことだったけれど、少々しんどくなってきた。きっかけは手首の骨折だった。富山に長期滞在中、ナイトウさんは娘さんの家の庭先で転倒して手首を骨折してしまったのだと言う。「暇人の散歩です。」と言いながら4キロ先の郵便局に荷物を歩いて持っていくほどの彼女の健脚っぷりを私は知っていたから、私はその事件を聞いたときに、どこの老人の話だろうとぼんやりしてしまった。しかしナイトウさんといえども、加齢とともに骨密度が思いのほか下がっていたことが原因と分かったらしい。当然富山では家族会議が開かれ、今後広島の家は整理して近いうちに富山に引き上げるように、という方針が下ったとのことだった。「仕方ないのよ。」私は初夏を迎えようとしている広島の里山で、数カ月ぶりにナイトウさんと散歩をしながらそのことを聞いた。その時覗き込んでいたホタルブクロの内側の小宇宙は、私の脳裏に焼き付いた。

おわりに

一人の後期高齢者が家を片づけるなんてこと、地方生活ではよくあることだ。だけどナイトウさんが富山に行くことを、地方の過疎化という陳腐な言葉で誰かに片づけられたら、私はとても悲しい。こんなにあたたかい関係が、確かにここで育まれたことを、だから私の大好きな文章で残したかった。ちなみに、ナイトウさんには内緒で書いた。恥ずかしいので辞めてくださいと、本気で嫌がられそうだから。
やがて山野草が鳴りをひそめる大暑となった。ナイトウさんは今日も畑で草をとっていた。私たちは今日も変わらず立ち話をし、「いただきものだけど良かったら。」と、おすそ分けをし合う。もうすぐ終わるここでの彼女の暮らしに、私たちは今日も気づかないふりをする。

#創作大賞2024 #エッセイ部門

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