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トウキョウドキュメンタリーフォト訪館雑記


ドキュメンタリーはあまり進んで見るタイプではない。昔からどちらかというと苦手だった。事実は事実でしかないのに、解釈によって如何様にも事実を曲げられる気がして億劫だと感じる。幼少期、ドキュメンタリーに感情移入したり、投影したりするタイプの大人を見て育ったことも手伝って、自分以外に起こる事実に反応しすぎることへの拒否感は否めない。

ただ、避けてきたからこそ、興味もあった。
フィルターを通して切り取られた事実と、そうではなく、自分が直接目にする そこにある事実 との違いについて、どう表現できるのだろうか。そんなことを考えながら観に行った「TOKYO DOCUMENTARY PHOTO 2023」の一作品についての感想を記録しておく。新鮮な気持ちをいくつかもらった気がする。

そもそもこれまで、ドキュメンタリーが何たるかを深く考えたことはなかったが、ある程度のジャーナリズムを含むイメージを持っていた。そうした元々のイメージとの比較によっては、想像していたよりも静かな展示だなと思った。静けさは無機質さではなく、そこにある全ては間違いなく生きた情報ではあったが、たぶん事故現場の写真から受けた印象がそう思わせたのだろう。
もっとも、自分自身は、事実は感情や情動と異なりいつも限りなく静かなものだと思っている、だから、展示自体が心地よかった。

まず感じたことは、媒体が写真であることの(自分にとっての)意義や意味。情報は、ほぼ視覚のみで受け取ることになり、必然的に削ぎ落とされる情報も生まれる(気がした)。そのぶん、事実を事実としてシンプルに受け取ることができ、うれしかった。写真の中には、あるいは写真に付随するアイテムの中には、確かに「事実」「現実」が存在しているのに、一方で今この空間には それがない ことが救いともなった。目の前の空間に直接事実が存在しているとき、そこに纏わる情報はえてして多すぎて、受け取りたい気持ちを受け取り損ねたり、見たいものが見えなくなることがある。

また、いざ到着し、これから向き合う事実に対して 心を準備をする段階で、障がい(表記は展示説明文に準ずる)を持つ方の存在を身近に感じられるように、という旨の説明があったことは有り難かった、その目的はとても腑に落ちる。

物理的距離ではなく心理的距離へのアプローチであって、その説明は私にとっては、知らなければ対象は存在しないということへの確認にもなった。

知る機会のないことは、知らなくても良いことではなく、直接触れられないものは、触れなくても良いものではなく、そこに触れられない、知れない事実があると慮られるだけで和らぐ孤独がある。

障がいという一つの要素を介在してはいるが、他者の背景を想像すること、少なくとも(多少具体性に欠けたとしても)目の前にいる相手がどんな葛藤を抱えていてもおかしくないと、コミュニケーションの根幹に自然にその前提を存在させることへの希望が持てた。もう少しその想像を豊かにさせられる手立てとしてのドキュメンタリーが頼もしく、想像が豊かに広がれば広がるほどコミュニケーションは優しくなるという思いを肯定してもらえた気がした。

展示内容について、「切断当時」と、「幻肢痛」のドキュメンタリーが隣り合って展示されていた空間は新鮮で、ある意味異質に感じた。出来事と現象をどう捉えて、どう繋げたのだろうか。人生が物語なら、切断は句点(あるいは読点)であったけれど、幻肢痛は文字ではない何かだった。気がした。

幻肢痛の表現については、正直「?」で、ドキュメンタリーである限りそこに写っているはずの事実でさえ、受け取り損ねている。そこに写されているものが幻肢痛なのは分かる。分かるが、受け取り方がわからない。痛みの存在については疑う余地がないのに、だ。
あるいは、受け取らない鑑賞の仕方もあるのか。
一旦は、自分にとって、元々知ってはいるはずの幻肢痛という現象について(痛みは現象とあらわして良いのか?)、自分で思っていた以上に理解を放棄していたのだなということに気付くところに終始した。

たった2面の壁から(あるいはもう1面あったが)、障がいや障がい者のドキュメンタリーへの関心が溢れた。

ドキュメンタリー、まだまだわからないことが多いが、伝える知る身近になる、その重要さはとても身に染みた。