エゴとボカロ曲


 突然ですが、私は曲の歌詞の中で曲の主人公(簡単にいうと曲の中にでてくる『僕』や『私』など)のエゴを感じるのが好きです。多分これだけではよく伝わりにくいと思うので、例をあげて説明します。なお、例にあげるのは基本的に全てボカロ曲です。私自身の解釈もかなり入っているので、これは違うよ、などそれぞれの感想があるかと思いますがご了承ください。

・『命に嫌われている。』、『君の神様になりたい。』、『ハグ』、『アダルトチルドレン』、『愛があれば。』、『告白』

 これらの曲は全てカンザキイオリさんの曲です。私の中でカンザキイオリさんのイメージはエゴに関する歌詞を作る人、というイメージです。『命に嫌われている。』では、

実際自分は死んでもよくて
周りが死んだら悲しくて
「それが嫌だから」っていうエゴなんです

という歌詞があります。他にも、

 苦しいから歌った。
悲しいから歌った。
生きたいから歌った。ただのエゴの塊だった。(『君の神様になりたい。』)

この歌詞では生きたいという感情をエゴに分類していて、私は初めて聴いたときいい意味で驚きました。

『ハグ』では、

優しくする気力もない。
でも優しくされたい。
守られたい。
優しくされたい。

という(自分は相手に優しくできないのに)救われたいというエゴについて歌っています。

『アダルトチルドレン』、『愛があれば。』では、

「愛されてるくせに」
「ずるいよ」
(『アダルトチルドレン』)

愛されてるやつがずるくって辛いけど
(『愛があれば。』)

別に愛されている人たちが悪いわけではないのですが、それをずるいと思ってしまうエゴが描かれています。

 そして、ここまでの曲とは毛色が違いますが、『告白』では、

あの頃は、確かに君の
声も心も優しさも笑顔も
僕のもの。

多分、本当に「君」が「僕」のものだったことなんてないんじゃないかと私は思っていて、そう思いこんでしまう、思いこみたいエゴがあると思います。


・『1/6 -out of the gravity-』、『それがあなたの幸せとしても』、『Blessing』

 これらの三曲はカンザキイオリさんの描く救われたいというエゴと救いたいというエゴが混ざりあった歌詞とは違って、純粋に人を救いたいというエゴについての曲です。

君を救いたいエゴイズム
(『1/6 -out of the gravity-』)

その決意を止めるのは我儘(わがまま)か
(『それがあなたの幸せとしても』)

例え綺麗事だって構わない
(『Blessing』)

どれも私が大好きな歌詞です。

・『一万二千円の恋』

この曲は、救いたい、救われたい、救われてほしくないといった複雑なエゴの感情についての曲だと思います。

飛べよ飛べよ飛べよ飛べよ
僕が君に恋をする前に
死ねよ死ねよ死ねよ死ねよ
君が誰かと恋をする前に
(『一万二千円の恋』)

この部分だけだとすごく酷いことを言っている歌のようですが、全体を通して聴くと私はこの曲の主人公の言葉を否定できないな、と思いました。


 私が好きなエゴについての歌詞をたくさん並べてみました。ここまで読んでくださって本当にありがとうございました。

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