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一筋縄ではいかない ガブリエル・ガルシア゠マルケス『わが悲しき娼婦たちの思い出』

一筋縄ではいかない

 

ガブリエル・ガルシア゠マルケス『わが悲しき娼婦たちの思い出』

 

■Gabriel José de la Concordia García Márquez, Memoria de mis putas tristes,2004/ガブリエル・ガルシア゠マルケス『わが悲しき娼婦たちの思い出』2004年/『ガルシア゠マルケス全小説』木村榮一訳・2006年9月30日・新潮社。

■中篇小説。

■全5章・141頁。

■2024年6月25日読了。

■採点 不可。

 

 この度、『百年の孤独』が文庫化される*[1]とのことで、初めてガルシア=マルケスの作品を手に取った。

 無論、『百年の孤独』の単行本は所持しているし、なんとなれば、「文学のノボ・ムンド(新世界)」とのキャッチフレーズで知られる集英社の伝説的なシリーズ『ラテンアメリカの文学』の一冊『族長の秋』も刊行当時入手している。しかしながら、どういう訳か全く食指が動かず、どうしても読み始めることができなった。

 そのような次第でやっとのことでマルケスを手に取ることができたのである。

 さて、生前に発表された小説としては最後の作品に当たる本作は、先に述べた『百年の孤独』や『族長の秋』と言った、いわゆるマジック・リアリズム的な作風とは違って、一見リアリズムの骨法を取っている。

 が、なかなか食えない作品である。

 そもそも、題名がよく分からない。『わが悲しき娼婦たちの思い出』(Memoria de mis putas tristes)の「娼婦たち」(putas)だが、何故、複数形なのだろうか?

 物語の大筋は、確かに売春窟で知り合い、そして愛することになった少女デルガディーナ[2]との或る種〝純愛〟*[3]とも言うべきもののはずだ。しかしながら、少女デルガディーナは(物語の中で)実在するのかどうかも疑わしい。なんとなれば、主人公「私」は、彼女が眠っている状況でしか接することはないのだから。何れにして、冒頭の「満九十歳の誕生日に、うら若い処女を狂ったように愛して、自分の誕生祝いにしようと考えた。」*[4]との堂々たる宣言とは裏腹に、恐らく、彼らは性関係を結んでいないと考えられる。その意味で、少女デルガディーナを「娼婦」と言ってよいのか。

 では、何故、複数形なのか? そうすると、むしろ、ほんの少し顔を出すに過ぎない、主人公の周辺に登場する「娼婦たち」がメインなのだろうか?

 あるいは、もっと穿った見方で、女は全て娼婦である、とでもいいたいのであろうか。

 はたまた、「悲しき」(tristes)だが、何故、「悲しい」のだろうか。確かに、途中、幾つかの波乱万丈はあったけれども、ラストは目出度し目出度しで終わっている。老衰と病気に罹って「処置」すら検討された愛猫も元気になったし*[5]、心臓に疾患の恐れを抱いた主人公も結局は無事だった。売春窟の女将ローサ・カバルカスとの間にも財産についての契約ができ、最後的にはそれらが少女デルガディーナに渡るようである。

 

心臓は何事もなかったし、これで本当の私の人生がはじまった。私は百歳を迎えたあと、いつの日かこの上ない愛に恵まれて幸せな死を迎えることになるだろう。*[6]

 

というのが物語の結末である。何が「悲しい」のであろうか。我が人生は「幸せな死を迎える」だろうが、振り返って見ると、「娼婦たちとの思い出」は「悲しい」というのであろうか。

 さらに言えば「思い出」(memoria)にも引っかかる。残念ながら、スペイン語の語法がわたしには分からぬが、「思い出」とは、過ぎたこと、過ぎ去ったことに他ならない。だからこその「過去」なのである。何人か登場する「娼婦たち」との「思い出」が本作のコアであれば、何の問題はない。それは全て過ぎ去ったことなのだ。

 しかし、少女デルガディーナとの恋愛は今まさに進行していることではないのか。それを「思い出」とするのであれば、この物語の外部に立つ視点が想定されもするが、どうも、そういう節は見受けられない。今まさに、主人公は少女との恋に苦しんでいるように読める。

 以上のような次第で、マルケスのことだから、そう簡単には底は明かさないというのか、一読した限りでは、あるいは、本作だけを読んで、何かが分かる、というような簡単な仕掛けではないような気がする。

 謎は深まるばかりである。

 因みに、全くの余談ではあるが、本作が収録されている『ガルシア゠マルケス全小説』の装丁がとても良い。本体の表紙が、特殊な用紙を使用しているのであろうが、チョコレートを思わせる色合いと手触りでとても心地よい。

 

参照文献

ガルシア=マルケス ガブリエル. (1967年/1972年/1999年/2024年). 『百年の孤独』(Cien años de soledad). (鼓直, 訳) 原著/新潮社/改訳版・新潮社/新潮文庫.

ガルシア=マルケス ガブリエル. (1975年/1983年/1994年/2011年). 『族長の秋』(El otoño del patriarca). (鼓直, 訳) 原著/集英社/集英社文庫/改版・集英社文庫.

ガルシア=マルケス ガブリエル. (2004年/2006年). 『我が悲しき娼婦たちの思い出』(Memoria de mis putas tristes)(『ガルシア=マルケス全小説』). (木村榮一, 訳) 原著/新潮社.


 

 

2894字(8枚)

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*[1] 2024年6月26日・新潮文庫より刊行。

*[2] 因みに、少女の真の名前は明らかにされない。「デルガディーナ」は、主人公が『デルガディーナのベッドのまわりは天使で一杯』(これがどういうものなのか訳注がないので不明)との歌の歌詞から付けた愛称である。売春窟の女将ローサ・カバルカスはその名を聞いて「なんだか利尿剤みたいな名前だね。」( [ガルシア=マルケス , 『我が悲しき娼婦たちの思い出』(Memoria de mis putas tristes)(『ガルシア=マルケス全小説』), 2004年/2006年]78頁)と言っている。これは何か意味があるのだろうか?

*[3] 本作のエピグラムに川端康成の『眠れる美女』の一節が引かれている( [ガルシア=マルケス , 『我が悲しき娼婦たちの思い出』(Memoria de mis putas tristes)(『ガルシア=マルケス全小説』), 2004年/2006年]11頁)。無論、川端の小説は極めてエロチックであるが、本作は題名と裏腹に全くそれを感じさせない。マルケスがいかように川端の作品を換骨奪胎したかについては十分検討も余地があるだろう。

*[4] [ガルシア=マルケス , 『我が悲しき娼婦たちの思い出』(Memoria de mis putas tristes)(『ガルシア=マルケス全小説』), 2004年/2006年]12頁。

*[5] [ガルシア=マルケス , 『我が悲しき娼婦たちの思い出』(Memoria de mis putas tristes)(『ガルシア=マルケス全小説』), 2004年/2006年]126頁。

*[6] [ガルシア=マルケス , 『我が悲しき娼婦たちの思い出』(Memoria de mis putas tristes)(『ガルシア=マルケス全小説』), 2004年/2006年]127頁。

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