気に入らないなら、自分でやるしかない。心を殺さず生き抜くために/吉野寿さん(eastern youth)
音楽の必要性を語るのは難しい。
それは空腹を満たしたり、病気を治したり、災害を防いでくれるものではないからだ。
では、音楽がなかったら、自分はどうなっていただろうか?
ひとつ確実に言えるのは、今とはまったく別の人間になっていたということだ。
思考や好み、世の中との向き合い方など、自分を構成するあらゆる要素には音楽からの影響が介在していて、それはもはや自己と切り離すことができない。
そう考えると、少なくとも僕にとって音楽はなくてはならないものだった。
音楽によって人生が変わったという体験は、過去を振り返ってみてはじめて実感できる。
僕の場合、それは『eastern youth』との出会いだった。
「君はひとりじゃない」といった音楽が溢れる世界で生きていた17歳の自分に、eastern youthは「人間は誰もがひとりだ」という剥き出しの現実を突きつけてきた。
それがなぜ本当のことだと感じたのかは、もう覚えていない。
だけど、あのときに「生きていくことは闘いなんだな」と思った経験が、今の自分を形成している。
そして、その実感は、あれから20年以上が経ち、社会に出て、家族ができた今のほうがずっと強い。
eastern youthは、音楽を通じて〝生きていくという闘い〟を体現しているバンドだと思う。
そのド真ん中で、額に血管を浮かべながら歌い続けてきた吉野寿さんにとって、音楽とはどのような存在なのだろうか。
「音楽を作って生きていくこと」について、吉野さんにお話を伺った。
(聞き手/阿部光平)
吉野 寿(よしの ひさし)
1968年生まれ。北海道帯広市出身。ロックバンド『eastern youth』のエレキギター/ボイス担当。「outside yoshino」名義でソロ活動も展開している。
兄が家に置いていったエレキギター
ー吉野さんは、北海道帯広市のご出身なんですよね。
吉野:はい、そうです。
ー帯広には、何歳までいらっしゃったんですか?
吉野:中学を卒業した後に家を出てですね、高校は富良野に行きました。だけど、1年でやめて、帯広に戻り、半年くらい引きこもってたんですよ。まったく外に出ない暮らしをしてました。
ー中学校を卒業するタイミングで地元を離れたのは、なぜだったのでしょうか?
吉野:帯広を出たかったんですよ。中学にもなると、いろいろなしがらみがあるじゃないですか。それをリセットしたかったんです。
ー帯広では、どのような少年時代を過ごされていたのですか?
吉野:どうなんでしょうね、嫌われ者ですよ。
ーその環境を脱したくて、高校で地元を離れたと。
吉野:高校になると、いろんな中学校から人が集まってきて再編成されるじゃないですか。仲が悪かったり、良かったりするやつらがいるんですけど、面倒くさいんですよ。いろいろなしがらみがあるんで。上下関係もありますし。そういうのを、高校でもまたやるのかと思ったら嫌だったんです。
あとは、家から出たかったんですよ。親元を離れたかったんです。だから、下宿がある富良野の高校に行きました。倍率が低いところで、勉強しないでも行けたんですよ。でも、そもそも集団というもの自体に馴染めないので、すぐ限界になって、尻尾を巻いて帯広に戻ってきました。それから少し休んで、17歳になってすぐ札幌に出ていった感じです。
ー札幌に出たのはバンドをやるためだったんですか?
吉野:そうですね。
ーその頃からバンド活動をされていたんですね。吉野さんと音楽との出会いは、どのようなものだったのでしょう?
吉野:子どもの頃ですよ。小学5年生くらいのときですね。兄貴がいて、「パンクっていうのがイギリスからやってきたぞ!」ってことで、友達からレコードを借りてきたりしてたんですよ。それで、なぜかわからないけど、俺にも聴いて理解するように強要されて。
ーお兄さんからの強要は断りにくいですね(笑)。
吉野:まぁ、聴いたところでわかりませんでしたけどね。でも、なかには好きなバンドも2、3個あって。そのうちに、日本では『アナーキー』ってバンドが出てきて、『The Clash』や『Stiff Little Fingers』の曲に日本詞をつけて歌ってたんですよ。それが、すごく身近に感じたっていうか。
「日頃、自分が考えてる鬱屈した想いを、こうやってストレートな形で歌にして、表に出してもいいんだ」と思って、すごく衝撃を受けたんです。そこからですかね、音楽に興味を持ったのは。
ー「音楽を聴く」から「自分でもやる」に変わったのは、何がきっかけだったんですか?
吉野:それはですね、中学2年くらいのときですよ。兄貴がエレキギターを持ってたんですけど、それを置いて自衛隊に入っちゃったんです。それで、家に楽器があったんですよ。
ー置き去りになったエレキギターが。
吉野:ええ。だから、これ幸いと。どうやって弾いていいのかわからなかったんですけど、線をステレオに繋げてみたら音が鳴ったので、とにかくジャージャーと音を出して喚き散らしてました。
サッカー部からはじまったバンド活動
ーギターを弾くようになってからバンドを組むまでには、どのような経緯があったのでしょうか?
吉野:中学のときはサッカー部だったんですけど、タモ(eastern youthのドラマーである田森篤哉氏)がキャプテンだったんです。
ーえー、そうだったんですか!
吉野:あいつとは9歳のときからの友達で、中学のサッカー部でも一緒だったんですよ。自分の学年は俺とタモを入れて4人しかいなくて、ぜんぜん人気のある部活じゃなかったんですよね。『キャプテン翼』のちょっと前ですから。まぁ、ヤンキーの吹きだまりみたいな感じですね。
喧嘩ばっかりしてるような部活でしたから、弱かったですよ。3年間いたけど、ほとんどサッカーというものをやってないような状態だったから、リフティングもまったくできません。ただ単にたむろして、悪いことをしてるみたいな集まりでしたから。
そこで、「ハードコアパンクっていうのがイギリスからやってきたぞ!」みたい感じで、レコードを買ってきては、みんなで聴いてたんです。そういうなかで、タモは身体がガッシリしてて運動神経もよかったので、「ドラムできるんじゃないか、お前」ってことになって。最初は、俺とタモだけでやってみたんです。
ー吉野さんのバンド活動は、サッカー部からはじまったんですね。
吉野:そうですね。でも、タモとふたりでやったのは形にならなかったんですよ。彼が中2のときに、礼文島へ引っ越してしまったので。
それで一緒にやる人がいなくなったんですけど、その辺で暇してた不良仲間みたいな連中がエレキを買ったりしてたので、ひとり入れ、ふたり入れてみたいな感じでバンドの真似事みたいなことをしてましたね。
ーみんなでスタジオに入ったりして。
吉野:スタジオじゃなくて、友達の家でやってました。昼間は親がいない家があったんですよ。その家に、たまたまドラムキットがあって。そこでギャーギャーやってたのが、最初のバンド経験ですね。
ー今も一緒にバンドをやられている田森さんとは、中学2年のときに離れ離れになった後、どのように再会したのでしょうか?
吉野:高校受験をするときに、タモに電話して「ちょっとお前、高校どうするんだ?」みたいな話をしたんですよ。彼は「礼文の高校を受けて、漁師になる」って言うから、俺は「そんなつまらない人生はやめろ!」って言って。
ーえぇー、すごい説得ですね(笑)。
吉野:「こっちに出てこい」とか言って丸め込んで、富良野で合流したんです。で、高校は下宿ですから、その部屋に安いドラムキットを置いてたりなんかして。一応、ゴムパッドを敷いてたんですけど、部屋でぶっ叩いて、下宿の親父に怒鳴られてましたね。
俺も兄貴のお下がりなんですけど、ちっちゃいギターアンプを持ってたので、それでふたりでやりだしたんです。
ー高校の下宿で吉野さんと田森さんがふたりで楽器を鳴らしてたのが、今のeastern youthに繋がってるんですね。
17歳。故郷を離れ、バンドがはじまる
ー集団に馴染めずに高校を中退されたとおっしゃってましたが、そのときにはもうバンドをやっていこうと考えていたんですか?
吉野:そうですね、バンドをやろうと思ってました。ただ、バンドで一旗あげようとか、音楽で食っていこうっていう気持ちはなかったです。そういうのはなかったですけど、面白いことってバンドくらいしかなかったんで。「とにかくバンドをやろう。何か吐き出していこう」とは思ってました。
それでまたタモに、「3年間も高校にいるのか? それじゃあ、懲役じゃないか。ここは監獄のような街だ」とか言って焚き付けて。
ーまたも煽るような説得を(笑)。
吉野:タモは「いや、せっかく入ったから」って言うんですけど、俺は「高校を出て何になるつもりだ。富良野にあと2年もいるのか? 札幌行こうぜ、札幌。面白いぞ、きっと」とか言って。
ー吉野さんが同じ高校に行こうと誘って、そこを一緒にやめようって説得したんですね(笑)。すごい話だなぁ。高校をやめて17歳で札幌に行くことについて、ご家族はどのような反応でしたか? 反対されたりはしなかったのでしょうか?
吉野:タモのお母さんは相当反対してましたね。
ーそうですよね。礼文からわざわざ富良野の高校へ行ったのに……
吉野:僕は今でも嫌われてると思いますよ。「あいつと付き合ってるとロクなことがない」って。だけど、最終的には本人たちの意思ですから。
うちはもう、ほったらかしでしたね。言うこと聞きませんから僕は。でも、2万円くれましたよ、札幌へ行くときに。2万円くれて、「以上!」って感じです。
ー札幌で住む家はどうしてたんですか?
吉野:一緒にバンドをやってた中学の同級生で、札幌に部屋を借りて高校に通ってる友達がいたんですよ。彼が「うち大丈夫だから、転がり込んで来いよ」って言ってくれたので、そこに住んでました。
でも、彼もそのうちに学校へ行かなくなっちゃって。バイトをしてたら単位を落として、高校をやめちゃったんです。そしたら、彼のお父さんが激怒して、家を解約して、本人のことも連れて帰っちゃったんですよね。それで住むところがなくなったので、タモが部屋を探してきて、そのアパートにふたりで暮らすことになりました。
ー17、8歳のときですよね。
吉野:そうですね。よく借りられたなぁ、部屋。ボロッボロの部屋でしたけどね。ボロッ…ボロでしたよ、本当に。どうやって探してきたのかわからないですけど、ちゃんとバイトしてたのはタモだけだったんで。毎日まじめに働いてたんですよ、ケンタッキーフライドチキンで。
ー田森さんが、ケンタッキーで!
吉野:俺はぜんぜんまじめに働かなかったんで、そういう力もなかったんですけど。
ーじゃあ、田森さんが見つけてきたアパートにふたりで住みながら、曲を作ったりしてたんですか?
吉野:そうですね。ベースを弾けるメンバーを見つけて、ちょこちょこライブもやったりして。
ーそれがeastern youthの前身である『スキャナーズ』というバンド。
吉野:そうです。
ブッチャーズ、怒髪天、eastern youthが生まれた札幌のハードコアシーン
ー札幌に行った当時は、どんなライブやイベントに出られていたんですか?
吉野:イベントに出るというか、自分たちでやるしかなかったんですよ。ライブハウスではなく、貸しホールしかなかったんで。
ー貸しホールというのは、レンタルスペースみたいなものですか?
吉野:そうです、そうです。ライブハウスみたいな感じでアンプなどの機材はあって、専属のPAさんもいるんですけど、それを全部まとめて1日借り上げるっていう形式のハコですね。なので、自分たちでチケットの値段を決めてさばくんですけど、それが売れても売れなくても支払わなきゃいけない金額があるので、一緒に企画する友達のバンドとお金を集めてライブをするんですよ。そういうことを繰り返していましたね、最初のうちは。
ー何のアテもないまま行った札幌で、他のバンドと知り合える場所はあったんですか?
吉野:たまり場があったんですよ。『UKエジソン』っていう輸入レコード屋さんなんですけど。そこに行くと、昼間から働いてないような人たちがいたんです。鋲つきの革ジャンを着た人たちが酒を飲んだりなんかしてて。奥にちょっとしたカフェスペースみたいなのがあって、そこに入り浸ってました。
そういう場所で自分と似たような人たちと知り合って、「ああ、いるもんだなぁ」と思いましたね。帯広にはいなかったけど、札幌はやっぱ都会だなって。自分と似たような人たちがいるんだとわかって嬉しかったですよ。
ーその辺りが、いわゆる札幌のスキンズシーンだったと。
吉野:スキンズなんてものではぜんぜんないですよ。パンクの子どもたちっていう感じですかね。
そういう音楽シーンも札幌にはあったんですけど、僕らはちょっと遅れて入っていったので、ちょうど何もないような状況でした。僕らより上の世代の人たちはいたんですけど、バーっと雲散霧消していた時期で。
ー少し上の世代というと『ブラッドサースティ・ブッチャーズ』の方々とか。
吉野:そうです。ブッチャーズは、僕らよりもちょっと先輩なので。その人たちが作ったハードコアシーンという恐ろしく暴力的な世界があったんですよ。
ーおぉ(笑)。
吉野:ヨーちゃん(ブラッドサースティ・ブッチャーズのボーカルである吉村秀樹氏)は、僕らが札幌に来たときにはまだいたので、ちょっと話す機会もあったんですけど、間もなく東京に行っちゃって。ノイズバンドをやるって言って、1、2年くらい東京に行ってたのかな。
その間、ヨーちゃんと一緒に『畜生』というハードコアバンドをやってた人たちが、また別のバンドをやってて。そういう人たちと仲良くなったりしてましたね。そうこうしてるうちに、ヨーちゃんが帰ってきて、また畜生のメンバーと合流してブッチャーズになったりして。畜生でギターを弾いてた(上原子)友康くんって人は、増子(直純)くんとくっついて『怒髪天』になったりとか、そういう感じでした。
ー田森さんと一緒にやっていたスキャナーズがeastern youthになったのは、どういうきっかけだったんですか?
吉野:スキャナーズ時代にベースが1回入れ替わってるんですよ。最初にベースをやってたのは根無し草みたいな感じの人で、すごい面白いやつだったんだけど、なんせいい加減な人間なので続かなくて。
で、代わりに入ったのが東京から帰ってきたゴリゴリのハードコアジャイアンみたいな人だったんですけど、なんせ素行が悪くて……。我々も、なんか辛くなっちゃったんですよ。
ーなるほど(笑)。
吉野:いい人なんだけど、乱暴者なんですよ。すごく。それで疲れちゃったので、バンドを1回リセットしようと思ったんです。「初心にかえろう! スキンズだ!」みたいな。もともとそういう音楽が好きだったんで、もう1回頭を丸めて出直すぞって。
ーそれから新しいベーシストを探して。
吉野:そうですね。その頃、レコード屋さん界隈で、いろいろと我々の世話を焼いてくれる人がいたんですよ。プログレの人で、すごくベースが上手かったんですけど。その人がバンドを手伝ってくれるっていうんで、それでeastern youthを作ったという感じです。
ーそれが1988年ですよね。
吉野:もう何年か忘れましたけど、20歳くらいのときです。
ーeastern youthになってから札幌で活動してた期間って何年くらいなんですか?
吉野:2年くらいじゃないですかね。僕が東京に出てきたのが22歳のときですから。
故郷を離れたときから、もう帰る場所はなかった
ー以前、ライブのMCで吉野さんが「東京に出て来たのは肉体労働の仕事があったから」みたいな話をされていたんですけど、上京の理由ってそういうことだったんですか?
吉野:札幌で音楽をやってた人たちが、ひとり抜け、ふたり抜けという感じで、だんだん引っ張られるようにして東京に行きはじめたんですよ。そうやって人がどんどんいなくなってきて、寂しかったっていうのがまずひとつですね。
あとはやっぱり仕事がないんですよ、札幌って。僕みたいな、まじめに仕事をする気がないような人たちには生きていく道がないんです。それに対して、東京に行った人たちからは「こっちは日雇いの仕事もいっぱいあるぞ」って話を聞いてて。「じゃあ、行っちゃうか~」みたいな感じでした。
ー「バンドで食っていくんだ」みたいな気持ちではなく?
吉野:そういう気持ちは、本当にゼロだったですね。ただ仕事もあるしって感じで。
でもまぁ、札幌でバンドをやってても頭打ちだったんですよ。同じ人がライブに来て、友達同士で集まってワーワー飲んだりして、で、ホールのレンタル代は支払わなきゃいけないって暮らしだったので。それでも、楽しいからいいやと思ってたけど、ぜんぜん先には進んでいかないし、歳はとってくるしっていう。だから、ちょっと環境を変えてやれば面白いんじゃないかなって。そういう、軽い気持ちでしたよ。
ーそれで、バンドメンバー3人で上京しようって話になったんですか?
吉野:ベースの人は行かないって言ったんですよ。タモもあんまり行きたくないって言ったんですけど、俺が「いや、札幌にいても頭打ちだって。東京だったらまだ可能性があるから」って言って。
ーまた強引に説得を(笑)。
吉野:「東京は面白いって。仕事もあるっていうし」って言ったら、タモが「いや、俺はもうケンタッキーの正社員になるんだ」とか言うわけですよ。で、俺が「いや、そんなのつまんねえって。ずっとケンタッキーやるのか? 東京行こうぜ。行ったら何とかなるから」って。
ーeastern youthの転換期には、いつも田森さんに対する吉野さんの焚き付けがあったんですね。
吉野:結局、俺とタモのふたりで東京へ行くことになったんです。怒髪天の増子くんの弟で、『DMBQ』ってバンドをやってる(増子)真二っていうのが荻窪に住んでて、「いいよいいよ、いつでもおいで」って言うから、「じゃあ行く」って。
ー吉野さんはライブのMCやSNSなどでも、荻窪で暮らしているという話をされてますよね。上京したときから、ずっと荻窪暮らしなんですか?
吉野:そうです。あれから荻窪を出てないですね。ずーっと荻窪です。
ー「バンドで食っていこう」という気持ちはなかったとのことでしたが、東京ではどんな生活を思い描いていたのでしょうか?
吉野:ライブができればいいなと思ってましたね。それで楽しくやれればいいなって。バンドでメシが食えるわけないと思ってましたから。こういう音楽性だし、ちゃんとした人間でもないですし。
それより何か、未知のシーンがあるわけですよね。いろいろと細分化された東京の音楽シーンみたいなものが。その頃、僕らはスキンズみたいな感じだったんですけど、東京のスキンズシーンに、どうやって食い込んでいくかってことは考えてましたね。幸い、いい人ばっかりで、威張ったりもせず、「来い来い」って感じだったですけど。
ーそのときはもう、東京に根を張って生きていこうと思ってましたか? それともいつかは北海道に帰るという気持ちもありました?
吉野:北海道に戻るって気持ちは、まったくなかったですね。帰る場所はないですから、家を出たときから。
上京、日雇い労働、二宮友和との出会い
ー北海道から出てきて感じた東京の印象は、どうでしたか?
吉野:道が狭い、建物が古くて薄汚い。そういうような第一印象だったですね。排ガスで壁が汚れてるっていうイメージです。
環八は車がギャーギャー走ってるし、1本裏に入ると迷路みたいになってるし。そこに昼間から飲める店があったりしてね。そういうのは札幌になかったんですよ、ぜんぜん。路地みたいな感覚も、あんまり札幌にはないじゃないですか。
ー札幌の街は碁盤の目状になってるし、道も広いですからね。
吉野:裏路地があるっていうのが嬉しかったですね。おかずが選べる定食屋があって、ビールも飲めるなんて、なんという素晴らしいシステムだろうって。天国だなと思いましたよ。
ー最初から居心地がよかったですか、東京は。
吉野:最高です。いろんな人がいるから、珍しくないじゃないですか。田舎だとちょっと派手な格好すると、すぐに目をつけられたり絡まれたりしますけど、東京の人はちょっとやそっとじゃビックリしませんもん。いろんな人がいますから。電車はバンバン来るし、人は多いし、それに飲み込まれていく感覚が嬉しかったですよ。
ー「この街なら浮かずにいられる」みたいな。
吉野:浮いてはいましたけど、ぜんぜん目じゃないっていうか。誰も気にしないですから。
ー誰にも干渉されないと。
吉野:そうですね。僕なんていうのは、まだ序の口ですから。もっと恐ろしく踏み外した人が山ほどいるわけじゃないですか。だから、安心っていうか。逆にほっとしたような気持ちがありましたね。
ーその頃は、日雇いのバイトをしながらバンド活動をされてたんですか?
吉野:そうですね。築地にでっかい病院の建築現場があって、そこに入ってたんですよ。日雇いのバイトだったんですけど、長く続く現場だったから常駐チームがあって、そこのリーダーが怒髪天のギターの(上原子)友康くんだったんです。DMBQの(増子)真二もそこにいたし、他にもバンドをやってる人が5、6人いて。僕も、そこに入れてもらったんです。
ーもともとの知り合いがたくさんいたんですね。
吉野:ええ。そこに二宮くん(eastern youthの前ベーシストである二宮友和氏)が来たんですよ。同じように現場の作業員として。
ーはぁ、そういう出会いだったんですね!
吉野:そうそう。で、彼もバンドをやってるって話で、すぐに仲良くなって。パンクの人じゃなかったんですけど、プログレが好きだっていう面白い人で。
もともと彼はギタリストだったんですけど、「ギター弾けるならベースも弾けるでしょ。ちょっとライブやりたいから手伝ってくんない? 1回でいいから」って言ってCDを渡したんですよ。「これコピーしてきて」って。そしたら、「わかった」ってなって、ベースも人から借りてきて手伝ってもらったのが最初ですね。それからずーっと、そのままきてしまったんです、20年近く。
音楽をやることは、自分の居場所を作ること
ーeastern youthは、東京に来て間もなく自主レーベル『坂本商店』を立ち上げ、1994年には自主企画イベントの『極東最前線』をスタートさせていますよね。そうやって早い段階から「自分たちのことは自分たちでやる」という姿勢を貫いてきたのは、なぜだったのでしょう?
吉野:進まないんですよね、誘われるのを待ってると。釣りみたいなもんで、いつ釣れるかわかんないんですよ。自分のやりたいことは自分で作らないと、誰もやってくれないんです。そうやって自分でやるしかないっていうのは、札幌時代からずっとでしたから。そういうやり方でやらざるを得なかったので。
ーあぁ、ホールを自分たちで借りてイベントをしていたのも同じですもんね。
吉野:札幌はライブハウスがなかったから、自分でやりたいことはイチから企画を立てて、会場を借りて、チケットをコピー機で刷って、切ったりなんかして、手売りして。そうやらざるを得ないっていうのは、身に付いてたんですよ。
東京はライブハウスもいっぱいあるし音楽シーンもあるから、いろいろ誘われたりもするんですけど、「なんか違うな」って思うイベントに出ることもあるじゃないですか。でも、「なんか違うな」と思いながらやっていくのはどうなんだろうなって。
吉野:気に入らないなら自分で作るしかないじゃないですか。だからやってみようと思って、はじめたのが極東最前線です。自分の好きなバンドだけ集めて、自分の主観で「これはいいぞ!」って思えるようなライブができればいいなと思って。
あんまりたくさんのバンドが出ると見てるほうも疲れちゃうし、それぞれの演奏時間も短くなっちゃうんで、出演者はなるべく少なくして、充実した時間を作りたいなと。
ー自分がやりたいことをやるための手段として、自主企画という方法を選んだと。
吉野:そうですね。表現の場は自分で確保しないと、誰も与えてはくれないんですよ。だから、自分でやろうと。
ーそうやって立ち上げたイベント自体がひとつの表現とも捉えられますよね。
吉野:そうとも言えますね。なんせ場がないと発表することができないので、自分でやろうと思ってました。
ーそういうふうに、とにかくやりたいことを続けていこうと思ってたんですか? バイトをしながらでも自分たちの表現を続けていこうと。
吉野:そうだと思います。それをやらないと、なんか違う踏み外し方をしそうで。それは怖いっていうか、嫌じゃないですか。
でも、面白くないし、世の中とは上手くいかないから、呪ってるわけですよね社会を。そこに対する反撃みたいなものが、暴力とか犯罪みたいなこととして表れかねないわけですよ。
ーあー、なるほど。
吉野:「くそー!」っていう感情で、実際にガーンと殴っちゃうとか。そういうふうになりかねないですよ。
だから、音楽で。これ(ギターを弾く仕草)なら死なないですから、人は。そう思ってました。
ーその気持ちって、今も一緒ですか。
吉野:一緒ですね。
ーずっと世の中に対して納得いかないというか、怒りみたいなものがあるんですか?
吉野:怒りなのかなぁ。どうなんだろう……、怒りっていうのとも違うのかな。怒りみたいな感情はありますけど、なんていうんでしょうかね……。「敵と敵じゃないやつがいるだけで、味方はいない」というような感覚です。
疎外感っていうのかな。そう言ってしまうと、それだけじゃないような気もしますけど。なんせ入っていけないっていうか、「世の中には俺のいる場所がない」という感覚ですね。
吉野:だから自分で作らないと、自分がいる場所が保たれないっていうか。それが音楽ではなく、本当に悪いところに居場所を見いだしてしまったら、そっちに行っちゃうと思うんですよね。反社会的なところとか。まぁ、もうこの歳ですから、そんな元気もないですけど、若かったら若いだけ行きやすいと思うんです。そこに自分の足場を見つけちゃうと。
それは嫌だったんですよ。そういう縦社会とか大っ嫌いですから。踏み外してもまた縦社会だったら最悪じゃないですか。だから、自分たちでやってきたってところはあるのかなと思いますけど。
ー吉野さんにとって音楽をやることは、自分の居場所を作るってことに近いんですかね。
吉野:そうですね。なんとか自分の生きる場所を作ってるというか。それに必死になってるだけで、どうやって生きていいのか、それ以外にわからないんですよ。
他に生きていく術もないですし、学歴もないし、体力もないですし、歳もとっちゃったし。何もないんですよね。ギターも下手だから、本当に何もなくてよく生きてるなって思いますよ。でも、とにかく自分でやらないことには、誰も何もしてくれないんで。やれるだけやろうとは思ってますけど。
お金の動きを自分たちで把握しておく重要性
ー音楽をやることが自分の居場所を作ることだとすれば、やっぱり今も音楽で食べていこうって意識はないんですか?
吉野:いや、バリバリありますよ。それで食わないと、もう路上生活へ一直線ですから。完全にしのぎですよ。
ー音楽で食べていくという意識が芽生えたきっかけってあったんですか? 音楽が仕事になった瞬間というか。
吉野:日雇いの現場に出なくてよくなったことですよね。坂本商店を一緒にやってた人たちが、トイズファクトリーと契約する話を持ってきたんですよ。最初は「言いなりになるくらいだったらやらないよ」と思ってたんですけど、なんとなく話がまとまって。
そしたら、レコード会社がお金をくれるようになって、日雇いの現場に出なくてよくなったんです。そのときに「なんて素晴らしいんだ。これでいこう」と思いましたね。
ーメジャー契約というのは、レコード会社からお給料もらえる形になるってことですか?
吉野:あのときはそうでしたね。何年間で何枚のCDを作るっていう契約をして、その分のお金をもらうっていう。建築現場で働くよりぜんぜんよかったですよ。これにしがみついて生きていくしかないと思って、今日に至っているわけです。
ーeastern youthはいくつかのレコード会社を転々として、今はまた自分たちで立ち上げた『裸足の音楽社』の所属になってるわけですよね。メジャー契約から、そこに立ち返った理由は何だったんですか?
吉野:坂本商店をやってるときに、間に入っていた大人たちがズルをしてたんですよ。散々俺たちの金を使い込んでて、支払われるべきところにお金が支払われてなかったんです。
それでもう坂本商店は続けられなくなっちゃったんですけど、会社との契約って会社同士じゃなきゃできなくて。音楽事務所を探して、どこかに拾ってもらうことも考えたんですけど、二宮くんが「俺が会社をやる」って言って。それで、なんとか初期費用をかき集めて、裸足の音楽社を作ったんです。二宮くんが抜けてからは、僕らが引き継いでやってますけど。
ーそういうトラブルがあったから、自分たちでお金の動きも把握しておこうってことだったんですね。会社を自分たちで運営しているということは、メジャー契約のときのようにお給料をもらうのではなく、CDの販売やライブの売り上げが収入になるってことですよね。そういう状況は、メジャー契約のときと比べていかがですか?
吉野:いいですよ。はっきりしてますから。いくら入って、いくら必要で、どのぐらいが稼ぎになるかっていうのがわかるんで。シンプルでいいですね。
ーいろんな環境に身を置いてみた結果、昔のようにすべて自分たちでやるのが一番ケツのすわりがいいと。
吉野:そうですね、これが一番いいですね。
感情が音になり、それを言い表す言葉を探していく
ーコンクリートに覆われた街並みや、電線で埋め尽くされそうな空など、eastern youthの音楽を聴いていると東京の風景が思い浮かびます。吉野さんは、住んでいる街が、作る音楽に与える影響って大きいと思われますか?
吉野:大きいと思いますね。暮らしてる環境ですし、そこから歌が出てくるわけですから。
ーそう考えると、今のeastern youthの音楽は東京でしか生まれなかったんですかね。
吉野:そうでしょうね。まぁ札幌にいれば札幌の、その街から得た何か、感じた何かを歌うんでしょうけど。それはまた、今とは違った形になってくるんじゃないかなと思います。
ーこれまで吉野さんは東京でたくさんの曲を作られてきましたが、まだまだこの街から音楽が生まれていく余地はあると感じていますか?
吉野:生きてますからね。生きてる限りはあるんじゃないですか。どこに暮らしてても、生きてるうちは何か思ったり、感じたりするわけですから。これからも何かあるんじゃないかなと思ってます。
ーそれが音楽になっていく。
吉野:そうですね、そうするしかないと思ってますけども。
ーレコーディング時のレポートなどを読むと、吉野さんは曲ができてから歌詞を書かれることが多いんですね。
吉野:そうです。もう全部そうです。そうするように作ってもいます。歌詞から先に作らないように。
ーそれは何か理由があるんですか?
吉野:歌詞から作ると説明的になるというか。先に言葉があって、それに音をのっけようとすると上手くいかないんですよね。ちょっと冷めるっていうか。だから、まずはリフとかフレーズとか、何か「グワァシィッッ」っていうものを捉えて、それは自分にとって何を言いたい「グワァシィッッ」なのかを突き詰めて考えていくっていう感じです。「このグワァシィッッは、どういうことなんだろう?」と。
それは、なんて言っていいのかわからない、「くっそー!」みたいなものだったりするんですけど、具体的に言うとどういうことかなっていうのを、言葉で具現化していくようなプロセスです。
ーまず感情が音になるってことですか?
吉野:そうですね。印象とか、感覚とか、感情とか、なんかそういうものです。「そうそう、そういうこと。そういうことなの。ジャーン!」みたいな。それをバンドに持っていって、「ドンドン! ダンダン! ジャキーン!」みたいなことを重ねていくと、「おー、よくなってきた! ワーってなってきた!」って感じになっていって。
そうやって入れ物はあるけど中身はないみたいな状況になると、「このジャーンは、なんて言えばいいんだろう」ってふうに迫られてくるわけですよ。そこでようやく歌詞と向き合うという感じです。
ー出てくる音も、書く言葉も、年齢や経験と共に変わってきていますか?
吉野:変わってきてるんじゃないでしょうかね。あんまり意識してやってませんけど、変わってきてると思います。
ー感じることが変わってきてるってことなんですかね。
吉野:それもあるでしょうし、「このやり方はもうやったからいいや」っていうのもあります。
ー意識的に新しいやり方を試してるんですか?
吉野:いや、それを気にしすぎると、新しいか古いかってことばかりにとらわれてしまうので、あまり考えないようにはしてますけど。ただ、「おー、きたきた!」って感じるものだけに集中したいなとは思ってますね。
その都度その都度で必死なんで、何が何だかわかってませんけど。チューニングを変えたりなんかして、「おー、きたきた。これこれ」みたいな感じでやってます。
暮らしのなかの寂しさ
ー東京に対して、〝自分の街〟という感覚はありますか?
吉野:んー、どうなんですかね。自分の街なんてあるんですかね。どうせどこにも居場所なんてないから、間借りさせてもらってるって感覚ですよ。ただ、東京に対して愛着はありますけど。
最初は、街のパワーにウワーッって幻惑されてましたけど、だんだん慣れてきて、経験を積むに従って、いろんなものが見えてくるじゃないですか。それでどんどん好きになってきましたね。東京大好きです。
ーeastern youthの曲には、吉野さんが生まれ育った北海道の情景を感じさせるものもありますよね。地元を離れて久しい吉野さんにとって、故郷の北海道というのは、どんな存在なのでしょうか?
吉野:やっぱり原風景みたいなところはあるんじゃないですかね。一番多感な時期に暮らしてましたんで。今でも根っこには雪が降ってるっていうか、氷があるっていうか、あの乾いた空気の感じはなくならないですよ。その自分のまま東京にいるって感じです。体のなかに、小さな北海道があるっていうか。
でも、見渡すとそういう人ばっかりだと思いますよ。東京生まれ東京育ちの人も、彼らのなかには故郷があるじゃないですか。それと共に街の中にいるわけですよね。それぞれのなかに故郷があって、それが暮らしている街と隣り合わせになってる。
故郷が何であるかは、その人なりのものだから、実際に生まれた場所じゃないかもしれないですけど、俺にとって、それは北海道みたいですよ。どうしてもその感覚っていうのは抜けないです。ギターを弾いてても何をしてても、雪が降ってる感じが。もう帰りたいとは思ってませんけど、そういう感覚は抜けませんね。
ー以前読んだインタビューで、吉野さんは音楽を作って生きてくっていうことをちょっと客観視してるとお話されていました。音楽を作ることしかできない人間が、どうなっていくのかを観察しているというか。
吉野:「こういう人間は、最後にどうなっちゃうんだろう」っていうか。その成れの果てを見届けようって意識はありますけどね。
ー具体的に、こんなふうになっていきたいというイメージはあるんですか?
吉野:いや、このまま事もなく無事に死にたいですよ。身体ひとつでちゃんと稼いで、なんとか屋根の下で死ねれば上出来だと思ってます。
ー吉野さんが書く歌詞には、寂しさを感じるなと思っていて。暮らしのなかで、寂しさを感じていますか?
吉野:寂しいですね。友達がいませんから。付き合いもないですし、人と上手くいかないんで。だから寂しいですし、侘しいですよ。いかんともしがたいですね。どうしようもない。
ーそれは、集団のなかでしがらみを感じていた中学生の頃から変わってないのでしょうか?
吉野:変わってないですね。中学生どころじゃないですよ、物心ついてからずっとですね。上手くいったことがないですから、1回も。だから、もう受け入れてますけど。
ーその寂しさや侘しさは、克服したり、解消するものではなく、付き合っていくしかないものなんですかね。
吉野:周りの人から受け入れられないんだからしょうがないって感じですね。
ーこれだけファンの人がいたり、バンド仲間の方がいても、寂しいとか侘しいという根幹は変わらないんですか。
吉野:変わらないですね。ミュージシャンの友達なんてぜんぜんいませんし。
ー『ナンバーガール』の向井秀徳さんとは、時々一緒にいらっしゃるイメージがありますが。
吉野:彼くらいですよ。年に1回とか2回とか、思い出したように誘ってくれるのは。「どうしてますか。荻窪まで来てるんで、一杯やりませんか」って。
まぁ、でもいい歳ですから。ガキの頃みたいに、ピヨピヨつるんであっち行ったり、こっち行ったりはしませんよ。むしろ、煩わしい。けど、それにしたって誰も友達がいなくて、寂しいなとは思わんでもないですよ。でも、ひとりでいるのにも慣れました。どこにでも行けますから、ひとりで。
ー2年ほど前だったと思うんですけど、吉野さんがTwitterで「今からアコギで歌えるところないですかね? ライブハウスじゃなく、家とかでもいいので」というようなことをつぶやいてるのを見てビックリしました。最終的には、吉祥寺の『キチム』で演奏されてたと思うんですけど。
吉野:あー、ありましたね。
ー歌いたい衝動っていうのは、そうやって突発的にやってくるものなんですか?
吉野:寂しいし、侘しいじゃないですか。でも、歌を介してじゃないと、なかなか人と繋がれないので。だから、「ぜんぜん集まってくれなくてもいいからやらしてくれ」みたいな感じでしたね。で、終わったら「あー、気が済んだ。ありがとう」ってなるんですよ。
ー音楽をやってる間は、寂しさから離れられるんですか?
吉野:音楽をやってる間はもう、そっちに向かってますから。寂しさがどうこうっていうのは考えてないです。ただ、離れてはいないと思いますよ。
なんて言うんだろう、自分の内側から出てくるものに集中してるんで。ガーンとか、ワーッとか、そういうもので人と対峙してるっていうか。だから、演奏してる曲のことを考えてます。
死の実感がもたらした切実な残り時間
ー極東最前線に行くと、ぜんぜん知り合いじゃないのに、その場に集まってる人たちに不思議な親近感を覚えるんです。「自分と同じような鬱憤を抱えて、ここに来てるんだろうな」みたいな感じがして。だけど、それは「みんな仲間だ」という感覚ではなく、「ひとりの人がいっぱいいるな」みたいな感覚なんですよね。
吉野:まぁ、酒場みたいなもんですよね。ひとり客ばっかりの酒場。でも、似たような感じの客が多いみたいな。そういうのはいいと思いますね。街感っていうか。
群れるのはできないんですよ。嫌いだし、憎んでるんで。そこに居場所を見出して、みんなで傷を舐め合うみたいなのは嫌いなんです。そうじゃなくて、「ただ自分が気に入ってるから、そこに行く」って人が結果的に集まった状態。そこで、それぞれの目的を果たして散っていくみたいなのは好きなんですよ。〝街〟っていう感じで。ベタベタしてないし、しがらみで繋がってるわけでもない。そういうのが、なんかいいんでしょうね。
ーよくライブのMCでも、「音楽でひとつになるな。音楽でひとりになれ」ってことをおっしゃってますよね。
吉野:みんな、ひとつになりたがりですよね。ひとつにならなきゃダメですか? 俺は「ほっといてくんない? 勝手に聴いてますから」って思うタイプなので、他人にもひとつになることを強要したくないんですよ。誰だって、ひとりなんだから。
ロクなことがないと思ってますよ、ひとつになるのを人に強要するっていうのは。全体主義にも通じてくると思いますし。そういうのには散々泥水を飲まされて生きてきましたから、反感があるんです。
ー僕は、eastern youthの曲に「人間は誰しもひとりだ」ということを強烈に突きつけられ、同時に「ひとりなのは自分だけではない」という実感に救われてきました。
吉野:そうやって誰かを慰めるような気持ちは、僕にはないんですけどね。ただひとりで爆発してるだけですから。でも、誰でも似たようなもんじゃないですかね。「お前もか。だよな」って。
ー「人間は誰しもひとりだ」という考えを強く持つようになったきっかけに、2009年のツアー期間中に心筋梗塞で倒れたことは影響していますか?
吉野:根っこの部分には、あんまり関わってないと思いますけど、あれを境に「やっぱり人は死ぬんだな」という実感を持つようになりましたね。時間ってのは、永遠にはない。それは頭じゃわかってても、身体があんまりわかってなかったというか。死ぬような気がしないじゃないですか、生きてると。
ー死をリアルに想像するのは難しいですね。
吉野:人間は必ず死にますからね。絶対死ぬんですよ。しかも、そう遠くない将来に。そういうことを実感しましたね。
だから、時間がないと思いました。もう、うかうかしてたら死んじゃう。食いたいものから先に食っとけじゃないけど、「やれることをやっとけよ、やりたい順に」って。やるべきだと思うことから順にやっていく。やりたくないことに時間を割いてる暇はないっていうか。そういう気持ちは強くなったような気がします。
ー死が実感を伴うものになって、残された時間を意識するようになったと。
吉野:そうですね。僕は今52歳ですけど、周りには同世代とか、年下で亡くなってる人がすごく多いんですよ。最近もひとり亡くなりましたけど、僕くらいの年齢の人間にしては多いほうだと思うんですよね。事故とか災害とかではなくて、各々の事情でいろんな死に方をしてるんですけども。
ちょっと前までは会ったら「おーっ!」なんて言ってた人が、もういなかったりするわけですよ。そうすると、やっぱ人は死ぬんだなって。終わるんだなって。50歳そこそこなんて短い人生ですよ。「どうだったんだろうな、あいつの一生は」とか考えちゃいますよね。
ー自分の人生と照らし合わせて。
吉野:ええ。俺はまだ生きてるし、生きてんならまだ時間があるんだなって。そう思うと、「そうだな、やらなきゃな」って気持ちになりますね。
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取材・文章/阿部光平
写真/タニショーゴ
動画/ホシノダイスケ
アイキャッチデザイン/鈴木美里
制作サポート/吉田貫太郎(Speech balloon nishiiburi)
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