見出し画像

『ひきこもり探偵』第一章「ひとり娘の失踪」(12)

 翌朝、メールを開くとすでにネッ友さんから返信が来ていた。PDFファイルが添付されている。恐らくこれが目的のものだろう。
 
  件名:Re,Re,Re,ご相談
  To:ひきこもり太郎 様
  From:ネッ友
  ご依頼のものを添付します。
  3年前の官報に掲載された貸借対照表が手に入りました。
  損益計算書やキャッシュフロー計算書はありませんでした。
  それにしてもこの会社、本当に存在しているのですか?
  資産状況がちょっと異常です。
  詳しくは添付ファイルをご覧ください。
 
 大急ぎで添付ファイルをダウンロードする。PCの横に置いた書籍が目に入る。タイトルは『財務諸表、ここだけ読めば大丈夫』。昨日、母に借りて急いで読んだ。
 ファイルを開く。ページ数は一ページだけ。限られた紙面に掲載するからだろうか、ずいぶんと簡素なものになっている。
 ややややや、これは確かに。
 株式会社ユーズドワンは債務超過に陥っていた。資産総額が約五億円であるのに対し、過去の純利益が積み重なってできる利益剰余金がマイナスを計上しており、負債総額が資産総額を上回っていた。負債額の膨張は長期借入金によるものだ。通常、債務超過となった会社が運営を継続するのは難しい。借入を行っている金融機関による貸し渋りと貸しはがしでキャッシュが回らなくなるからだ。ユーズドワンに貸しつけを行っているのは、銀行などの金融機関ではないと推測した。
 三年前の財務諸表。もしかしたら、ユーズドワンはすでに潰れているのはないか。
 国税庁のサイトに飛ぶ。
 株式会社ユーズドワンが存続しているのであれば、社名検索に引っかかるはずだ。
 検索。
 あった。
 黒沢氏が経営する会社は、今も存在している。
 経営状況が改善し、今は業績好調とか? 繋がらない電話、三年前から更新の止まったウェブサイト。業績がⅤ字回復した様子を想像するのはやはり難しい。債務超過にまで至った会社を存続させることにどんなメリットがあるのだろうか? そして、優雅な生活を支える資金源は?
 あれこれ考えていると来客を知らせるチャイムの音が聞こえた。母がいるはずなので、僕が出なくても大丈夫なはず。玄関が開く音に続いて、母と来訪者――どうやら男性のようだ――の話声が微かに聞こえる。階段を登る足音。ドアをノックする音とともに母の声が響いた。
「お客さんよ、下に降りてきなさい」
 母はそれだけ言うと、ドアを開けることもなく、再び一階へ戻っていった。
 お客さん? 僕に? 誰?
 仕方がない。重い腰を上げる。
 一階に下りると、リビングのソファに見知らぬ男性が座っているのが見えた。男性は僕を見ると軽く頭を下げる。僕もぎこちなく頭を下げる。
「何、案山子みたいに突っ立ってんの。座んない」
 母の声は背後から聞こえた。コーヒーの入ったマグカップ二つを載せたお盆を手に、母は僕を追い越していく。インプリンティングされた鳥のひなのように母の背中に続く。
 母は男性の前にカップを置きながら言った。
「これエチオピア産のコーヒー豆なの。フェアトレード品なんだけどね、香りがいいのよ。飲んでみて」
 僕は男性の斜め前、オットマンに腰を下ろした。
観察。年齢は母と同じくらいだろうか。フランネルのシャツは白と黒の格子柄。下は濃紺のチノパンツ。いずれもスマートな体系にフィットしている。安物ではなさそう。腕時計はΩ(オメガ)ときた。それなりの生活水準であることが伺える。黒縁の眼鏡の向こうにある瞳が知性を放っている。
 この人は誰だろう?
 もしかして、母の恋人? 男性に話しかける口調に親密さが漂っており、親しい間柄に見える。もうすぐ五十に手が届く年齢となった母ではあるが、年のわりには若々しい。服だってお洒落だ。恋人の一人や二人いても不思議ではない。
 いいよ、いいよ。あなたが幸せになるなら、僕はこの人をお父さんと呼ぶよ。
 僕は男性ににっこりと笑いかけた。男性も笑顔を返してくれた。
 うん、この人とならうまくやれるかもしれない。
「母さん、ちゃんと紹介してください」なぜか敬語になってしまった。
「あんた、会うの初めてじゃないわよ」
 えっ? 僕この人に会ったことあるの?
「覚えてないくても仕方がないよ」と男性が言う。
 えっ? えっ?
「最後に会ったのは十年前だからね」
 えっ? えっ? えっ?
 あなたは誰?
「【まさみ】の父です」と男性は言った。

>>>『ひきこもり探偵』第一章「ひとり娘の失踪」(13)へ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?