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『ひきこもり探偵』第一章「ひとり娘の失踪」(4)

 ドンピシャだった。彼女はMasami Wataseの名前でInstagramにアカウントを持っていた。日本人の利用はほとんどなかったので――まだ日本語対応できていないからね――、彼女の名前は大変目立っていた。彼女のアカウントには、結構な数の写真が投稿されていた。十月三十一日には、家具がすべて運び出され、空っぽになった1Kの部屋の様子が、Moving from Setagaya.とのコメントとともに投稿されている。通学のために借りていた物件を退去した日のものだ。
 しかも、今も更新が続いているではないか!
 とりあえず生存確認が完了。
 最近の投稿を見る。
 ほとんどが飲食店で撮影された料理の写真だ。昨日、投稿されたのは、ワゴンに載って運ばれてきた北京ダック一羽の写真だった。撮影場所は全聚徳銀座店。中国北京市に本店がある北京ダックの専門店だ。その他の写真も大半が都内で撮影されている。それも山手線の内側ばかり。値段の張りそうなお店が多い。
 写真をあれこれ眺めているうちに思った以上に時間が経過していた。時刻はすでに二十三時過ぎ。母に報告をしたかったが、もう寝ている。母の朝は早い。その分、就寝も早い。明朝、母に話し、この件は幕引きにしよう。
シャワーを浴び、歯を磨き、いつも通り十二時にベッドに入った。
 いつものようには寝つけなかった。興奮している自分がいることに気づく。僕は自らの感情を客観視することに慣れていない。喜怒哀楽を大雑把に把握することはできても、それを細分化する言葉を持ち合わせていないのだ。この興奮が一体何によって引き起こされたものなのか、分析を試みたものの適切な回答を得ることができず、悶々と寝返りを打ち続けた。
 翌朝、午前七時にスマホの目覚ましが鳴る。ブラームスの「静かな夜に(In stiller Nacht)が、そのタイトル通り静かに流れ出す。
 こんな曲で目が覚めるの? これ聞いてたら、また寝ちゃいそう、と母は突っ込む。僕にはこの程度がちょうどいいのだ。耳をつんざくようなスマホの警告音は少々激し過ぎる。僕は、光と音に敏感なのだ。
 いつものようにゴロゴロしていられない。かけ布団を両足で思い切り、蹴り飛ばすとベッドから勢いよく飛び出す。寝ぼけた頭で急に動き出したせいか、足元がふらついた。
 ドン! 
 いたたたた。
 ローテーブルに思い切り脛をぶつけた。いつもと違うことをするとろくなことにならない。脛をさすりながら階段を降りる。
 母は広いリビングのこれまた大きなソファに腰かけ、メールチェックをしていた。もう仕事モードに入っている。
「報告したいことがあるんだけど」
母が、五本の指を大きく広げ、掌をこちらに向ける。制止を促す力強いポーズ。視線はPCの画面を見詰めたままだ。
「あと五分待って」
 僕の身体はそのままフリーズした。五分あるなら、ちょっとトイレにでも行こうとか、歯でも磨こうとか、部屋に戻って着替えて来ようとはならない。僕には柔軟性というものがない。
 ちょうど五分後――何で分かるのかって。待ってる間、リビングのかけ時計をじっと見てたからね――、母はエンターキーをパチンと叩き、こちらに向き直った。
「で、何?」
 僕は昨日の調査結果について一通り報告をした。
「で、他に感想は?」
「警察の事件性なしとの判断は至極全うだと思う。投稿された写真を眺めていても彼女が何らかの困難な状況にあるとは感じられなかった」
「そう、分かった」
 母はそう言うと手元にあった付箋に何かを書き始めた。
「はい、これ」
 付箋を受け取ると、そこには数字の羅列が書きなぐってあった。どうやら電話番号らしい。
「何これ?」
「電話番号」
「うん、見れば分かる」
「【まさみ】ちゃんのお母さんの携帯よ。今のこと話しなさい」
「僕が?」
「そうあなたが」
「なんで僕が?」
「だって調べたのあなたでしょ」
「だって話持ってきたの母さんでしょ」
「うるさい。つべこべ言わない」
 僕は早々に白旗を上げた。母は強情な人だ。一度言ったことは絶対に撤回しない。とぼとぼと二階に上がる。部屋に戻ると握りしめた付箋に再び視線を落とす。
 あゝ、気が重い。
 僕は人を傷つけたくない。自閉症の人は相手の感情に配慮できず、不快な発言をしてしまうことがある。だから気をつけている。細心の注意を払い、人と話す。それでもうまくいかないことが多い。たぶん、これまでにたくさんの人を怒らせてきたと思う。そうなのだ、「思う」というところに大きな問題があるのだ。僕らは相手の感情をうまく掴むことができない。だから相手を怒らせているということに、そもそも気づかない。自閉症は定型発達の人々にとってとても厄介な存在なのだ。『リーダーのお作法』を常に手元に置いてあるのもそうした事情があってのことだ。同書には、他者との円滑のコミュニケーションをとる方法がたくさん書いてある。
 僕は人と接することにとても臆病になっているのだ。

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