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『ひきこもり探偵』第一章「ひとり娘の失踪」(8)

 いつも通り、ブラームスの音色とともに朝七時に起床。逸る気持ちはあったが、起きる時間は変えなかった。昨日の反省に立って、いつものルーティンを崩さない方がよいと考えた。起床と就寝の時間、食事の時間、それらを厳格に守ることが心の安定につながるのだ。僕は変化に滅法、弱い。
 焦げ目のしっかりついた厚切りトーストをかじる。パリパリと焦げ目が砕ける音が僕は大好きだ。バターを塗っただけのシンプルなトースト。パン本来の甘味が口のなかに広がる。日常のなかにあるこんな小さな幸せこそが人生を豊かにするのだ。
 ダイニングテーブルの正面に座っている母が観察するように僕を見ている。
「なに?」
 母はにっこり笑って「別に」と答え、再び食後のコーヒーを飲み始めた
 笑顔。イコール、喜び、楽しみ、嬉しさ、愛情、希望。僕は『笑顔』というプレートのついた引き出しから、さまざまな言葉を取り出す。どれだろう? 残念ながらこれといった答えは見つからない。
 部屋に戻り、調査を再開した。
 すでにやることは決めていた。
 ダークウェブで航空会社の搭乗者名簿を手に入れるのだ。
 その存在を知ったのは数年前。各国に存在していて、あらゆるものが手に入る。銃器や偽造パスポート、薬物等々。臓器を売っているサイトまである。法整備が整っていない国からは多くの個人情報も流出している。航空会社の搭乗者名簿を手に入れるなど朝飯前だ。
 Instagramで渡航日は分かっている。あとは航空会社だ。
「機内食の写真がヒントだな」と独り言。
 ちなみに僕は独り言が多い。
 出発地は?
 これは東京と考えていいだろう。
 東京―モスクワ間を飛ぶ航空会社を検索する。経由便を含めると無数にある。まずは日本の航空会社から。いやちょっと待て。もう一度、機内食の写真を確認。この写真を発見したときの印象を思い出した。外国人が頑張って和を演出してみましたという印象。出国便に乗るロシア人――これがロシアの航空会社なら――にとって、この機内食が故国に帰る最後の食事になるのだ。旅行なのか、ビジネスなのかは分からないが、最後に日本食を楽しんでくださいね。そんな意図を察した。そして、もう一つの仮説。チョコレート菓子を中立国スイスから調達している事実。この航空会社は東側諸国ではないのか? 
 日本の航空会社は外そう。効率よく調べなきゃ。
 まずはモスクワへの便を就航しているロシアの会社に限定してみることにした。
 モスクワ便、ロシア、エアライン――検索。
 ヒットしたのは、アエロフロート(直行便)、エアブリッジカーゴ(韓国仁人経由)の二社だけ。しかもエアブリッジカーゴは、その名の通り貨物便だ。
 アエロフロートのウェブサイトに飛ぶ。
 機内食――サイト内検索
 あった!
 モスクワ便のメニューが載っていた。
『海老の押し寿司、サーモンの刺身、かっぱ巻き、ミニトマト、サラダ、牛肉(オニオンソース添え)、焼きそば、パン、有塩バター、カスタードケーキ、チョコレート菓子』
 ビンゴだ!
 【まさみ】が乗ったのはアエロフロートに間違いない!
 調査開始時に挙げた二つの疑問を思い出す。
 
 彼女はなぜ失踪する必要があったのか?
 彼女はどこにいるのか?
 
 答えにはまだまだ遠い。
 考える。彼女は姿をくらますにあたり、自らで住居を解約し、学校に退学届を提出している。警察が指摘するように、この失踪に犯罪の匂いは感じられない。だとすれば、これは単なる引っ越しか? 転居先を母親に告げられない何らかの理由があったのか? 親子関係はうまくいっていたのか? そもそも彼女はどんな人なのか? さまざまな疑問がぐるぐると頭のなかを巡る。
 どれくらい考え込んでいたのだろうか。すでに時刻は十一時半を回っていた。
 ここで一旦、休憩としよう。
 
 上着を羽織り、近所のコンビニに走る。
 全力疾走。
 少し寒いが、澄んだ空気が清々しい。
 ジャスミン茶と昨日、買うかどうか迷った三色弁当を購入、急いで家に戻る。帰りもやっぱり全力疾走。
 午後はいよいよ、ダークウェブへ。
 ダークウェブは一般的なネットワークに存在しておらず、したがって通常の検索行動で行きつくことはできない。アクセスには専用のソフトウェアと特別な設定が必要なのだ。ダークウェブは一部で有益な利用がなされてはいるものの、その大半は有害で、利用者の多くは犯罪者、テロリストたちなのだ。なんで、そんなに詳しいのかって? 無性に気になって覗きにいったことがあるからね。もちろん、僕は悪いことなんてしていない。
 違法なものが公然と取り引きされているブラックマーケットのなかに潜る。光の届かない深い海の底を潜航するように。深海魚になった気分。
大半のサイトは英語でできている。ちなみに僕、英語は結構いける口。聞くのと話すのはからっきしだけど、読むのと書くのはバッチリ。サイトの造りは、無味乾燥。目的のものを探し当てるには少々骨が折れる。二時間ほどかかって、アエロフロートの搭乗者名簿を発見した。
 暗号資産で支払いを済ませ、ダウンロード。サーバーが脆弱なのか時間がかかる。
 完了!
 ガッツポーズ。
 早速、ファイルを開く。四百名近い個人名が表示された。大半はロシア人のようだ。ちらほらと日本人の名前がある。ファーストクラス、ビジネスクラスに該当者はなし。エコノミークラスへ。字が小さいので目が疲れる。乾燥で目がシパシパしてきた。何度も瞬きをし、リストに噛りつく。
あった!
『【MASAMI WATASE】』
 さらに彼女の一つ上には男性と思われる名前があった。
『TATSUKICHI KUROSAWA』
 二人の座席は36Aと36B、並び席だ。【まさみ】はきっと、この男とロシアに渡ったのだ。

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