見出し画像

『ひきこもり探偵』第一章「ひとり娘の失踪」(11)

 僕は、さっきから熊のように部屋を行ったり来たりしている。
 To do, or not to do.
 あゝ、僕はハムレットのように煩悶するのだった。
 三年前から更新が止まったままのウェブサイトに疑念を持った。この会社は本当に今も運営されているのだろうか。採用情報のページには社員募集の情報が掲載されている。応募者のふりをして電話をしてみたらどうかと思いついた。がしかし、そんなことを、この僕が首尾よくできるのだろうか。普通にしゃべるのにも苦労があるというのに。
 あゝ、悩む。
 部屋のなかを、のそのそと歩き回る行動はすでに一時間以上続いていた。
対人恐怖症とまでは言わないが、僕の心のなかを人と関わることへの不安が巣くっている。世の中の大半の人々は至って善良で、悪意を持った人々がごく稀な存在であることを僕は知っている。だがそんな人であっても、僕ら自閉症の人間と対峙したときに感じる不快感や戸惑いをなくすことはできないのだ。僕は相手に嫌な想いをさせたくない。だから、映画やドラマ、書籍を通じて、定型発達の人々がとる理想的な言動を必死に学んでいる。しかし、努力はそう簡単には実らない。うまく立ち振る舞えない自分に苛立つ。
 火種が生まれたのは思春期の頃のことだった。義務教育期間をずっとホームスクーリング――学校には通わず、家庭で教育を行うこと――で過ごしてきた僕だったが、その後は高校受験を経て、一般の高校に進学した。義務教育期間、母が最高の学習環境を整えてくれたおかげで、学力はずば抜けていて、勉強で困ることはなかった。むしろ学校の勉強を物足りないと思うことの方が多かった。しかし、対人関係となると話は別だ。
 登校初日、隣に座ったクラスメートが僕に声をかけた。
「ねえ、消しゴム貸して」
「えっと、あのー」
 結局、何の言葉も返すことなく、僕は黙って消しゴムを差し出した。クラスメートはそんな僕の姿を怪訝な眼で見た。
 こんな簡単な会話もできないなんて……。とてもショックだった。
 そんな小さな出来事が積み重なり、僕は人に対して臆病になっていった。
 高校時代は、いじめも経験した。持ち物を隠されたり、椅子に画鋲を置かれたり、放課後の掃除を押しつけられたり。その程度のものだ。想像を絶するような体験ではなかったものの、思い出すには辛い過去だ。それまで明らかな悪意に接したことがなかった僕は困惑した。世の中に巣食う悪意に触れ、他者への小心は恐れへと変化していった。特にどんな人か分からない相手には、どうしても身構えてしまう。
「こんなことしてても時間の無駄だ。電話しよう!」
 スマートフォンを取り上げ、ユーズドワンの番号をタップする。
 心臓がバクバクしてきた。
 繋がる。ワンコール、ツーコール。スリーコール……。
 あれ? 誰も出ない。
 緊張が一気に解けた。
 すでにコールは十を超えた。
「何で出ないの?」会社って、電話にはすぐに出るもんじゃないの?
 スマートフォンで時刻を確認。午後四時。営業終了の時間には早い。後でもう一度かけることにし、一旦電話を切った。三十分後にリダイヤルするも繋がらず、翌日の午前にも二度、電話したが、結果は同じだった。やはりこの会社は怪しい。
 
 数日ぶりにネッ友さんにメールを送った。
 
  件名:ご相談
  To:ネッ友 さま
  From:ひきこもり太郎
  例の件、調査が続いています。
  (ブログの更新が止まってしまって申し訳ないです。)
  ネッ友さん、確か経営学部でしたよね?
  非上場会社の決算状況を知りたいのですが、方法はありますか?
 
 すぐに応答があった。
 
  件名:Re,ご相談
  To:ひきこもり太郎 様
  From:ネッ友
  すべての株式会社が決算公告を義務づけられています。
  自社サイトでの公開などいくつかの方法が選択できます。
  小さな会社は官報での公開を選択することが多いようです。
  ですが、官報で見られるかは保障できません。
  なぜなら、この法律に罰則はあるものの、実質的にお咎めがないため、
  多くの会社が法を無視しています。
  官報は無料で公開されていますが、
  誰もが確認できるのは直近のものだけです。
  古い情報を見たいときや検索をかけたいときに
  使える有料サービスがあります。
  調べてみましょうか?
  社名と所在地を教えてください。
 
 持つべきものは友である。私は早速、調査を依頼した。

>>>『ひきこもり探偵』第一章「ひとり娘の失踪」(12)へ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?