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中年、山を登ると哲学的になる

週末は日光白根山に登ってまいりました。
ロープウェイで標高2,000mまで登って、残りはヒョイヒョイって感じのイメージだったのですが、実際登ってみると一歩一歩が苦行ですね。

あくまで私個人の感想ですが、「楽な登山」というのは基本的に無く、山登りは基本的に辛いんです。ただ、「苦痛の長さ」が山によって違うだけなんです。
日光白根山は比較的登りやすい山ですが、だからと言って辛くないわけがない。ただ楽しくもなく辛いだけの時間がただひたすら続くという。

ちなみにこのエントリーの写真は私が撮影したものです。
日光白根山の山頂からは、手前の岩が剝き出しになった荒々しい白根山の尾根と、奥に広がる広大な日本の名峰たち(男体山、谷川岳、燧ケ岳、草津白根、浅間山、至仏山なんかも見えるという)を同時に楽しめるのです。
360度山しかないという絶景、森林限界を超えたあたりから開ける視界、どれをとっても最高でした。

それを差し引いても苦痛の方が強い、それが登山(個人差があります)。
一方でその苦痛と引き換えに自身の内面と向き合うことができるとも言えます。
個人的な問題にはなるのですが、自分自身が欲しいと思うものというのは、積み重ねの先にしかないものが殆どなのです。
例えば今絶賛二次試験を勉強中の中小企業診断士も、過去に合格した米国公認会計士もそうですし、筋トレや英語の勉強も同じ。
時間を積み重ねることによってしか掴み取ることができないものが、自分が求めているものなのかと。
人間関係ももしかしたら似たようなものかもしれません。私の敬愛するアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリもこのように語っておられます。

何ものも、死んだ僚友のかけがえには絶対になりえない、旧友をつくることは不可能だ。何者も、あの多くの共通の思い出、ともに生きてきたあのおびただしい困難な時間、あのたびたびの仲違いや仲直りや、心のときめきの宝物の尊さにはおよばない。この種の友情は、二度とは得がたいものだ。樫の木を植えて、すぐその葉かげに憩おうとしてもそれは無理だ。

サン=テグジュペリ、堀口大學/訳 『人間の土地』

登山は開始地点から山頂まで自分の体の重さを少しずつ上げていく地道な作業です。何歩か歩いてようやく1mというのを何百回、時に何千回か繰り返します。辛いですし、途中で投げ出すにしても下山はしないといけません。
ベースまではロープウェイや車で行くことはあっても、開始地点から山頂までは自分の体の高度を少しずつ上げていくしかないのです。

積み重ねるという行為は、プリミティブでありながら非常に強力な武器になると感じるようになりました。
毎日少しだけでも続けること。楽な方と面倒な方があった時、面倒な方を選ぶこと。目標を立てて逆算して計画を立てること、計画と実体の対比を怠らないこと。。
中小企業診断士合格も、TOEIC950点も、腹筋割ってみることも、樫の木を植えて葉陰で休むことも、始めてすぐ到達できるものではないのだなぁ。

なんて考えているうちにいつの間にか山頂に至っているんですね。
日光白根山の上で友人と食べるおにぎりはおいしかったです。

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