思いやりは想像力から、と思う日々。(障がいと個性)

Xで、男女一人ずつ子を連れた母が多目的トイレを使った話をしたら車椅子ユーザーの方に健常者は使用をお控えいただきたいとリプされていたのを見まして。

それについて、なんか見たでXにポストしようとしたのですが、図らずも長くなっちまいましたのでこちらに。

こと障がいについてのテーマは、私がかつて仕事で福祉関係に携わっていて、しかも車椅子ユーザーや足の不自由な同僚と働いていたこともあって恐らく一生考えを巡らせ続ける分野なのではないかなと。
よって想いを語りだすとついつい長くなるのです。

そもそもその仕事に就くまでは、私は父がかなりの偏見屋というか…なんというんです?no+eの住民にあるまじき語彙力の無さなのですが、今の多様性を認め合う時代にかなり逆行するような、しかも言わなきゃいいのにそれをデカイ声で拒絶する男でして、母もそこまで声が大きくないだけで寛容な方では決してない、そういう両親の元で育ちました。
常日頃からTVや知り合いの障がい者が話題に出るにつけ「普通が一番だ」とのたまい、発達障害や自閉症などへも同様の文句、LGBTQなどもってのほか、気持ち悪いとまで言う始末。
私はそんな親の元で育ちながらも、というかあまりにひどかった反動なのかどちらかといえば自分の中のそういった偏見を取り払ってゆきたい、その為に色んな人に触れたい・知りたいとの思いで行動してきた人間なのですが、大卒一発目に勤務になったのはまさに障がいのある方たちを扱う仕事で、しかもデスクに向かうなり出会ったのは車椅子ユーザーの同僚と、足を引きずって歩く先輩でした。
偏見をなくしてゆきたいと生きてはきたものの障がいのある方と接することは本当になかったというか、親のあまりの拒絶ぶりに流石に私も尻込みして積極的に関わる勇気も持てずにいましたので、こんなに密接に関わることになったのはこれが初めてでしたし、その職を離れた今でも、あんなに関わったのはそれきりです。

ですので、障がいのある同僚と働き、同時に仕事で接する方や講演会で触れまくった障がいのある方たち・障がいに対する考えというのは私にかなり根深く種をまいたテーマでありまして、一生それについて考えてゆくんだろうなとついつい語ると長くなってしまう分野なのです。

さて前置き・前提の話はこういうことでありまして、最初に書きました話について。

私はですね、障がいのある同僚・特に車椅子の年下の同僚の子と働いて、思ったこと学んだこと、こうしようと決めたことがありまして。

それは『障がい者を特別扱いしない』ということです。

一緒に働いていた車椅子の同僚は、養護学校を卒業する折、周りの皆はほぼ目指さない一般就職の道しかも官公庁の臨職を目指し、見事に就職。
色々自分に自信はないし、しばしば甘えん坊で弱気な面があり、麻痺で字が下手だからと宛名書きを嫌がったり、車の運転が怖いからと母の送迎に甘えきりでしたが、字は励ませば一生懸命書き、そうはいっても車は車椅子ユーザーが運転できる仕様の車で、時々勇気を出して運転している日もありました。

お客様対応には真っ先に飛び出してゆき、新人の私にもニコニコ仕事を教え、やがて私が仕事をできるようになっても偉ぶることは当然なく、そして何よりすごいなぁと思ったのが、自分のできることできないことの区別をハッキリとつけ、できることは可能な限り努力するし、できないことはきっぱりと恥じらいも申し訳無さも捨て、人に頼る、ということができているということでした。

麻痺もあって手を滑らせて落としてしまった紙一枚を、忙しそうな職員の誰かを指名して「拾ってください」と堂々と言える(名指しは勇気がいりますが、恐らくその方がスムーズです)、客対応中にコピーしてください(コピー機が高くて届かない)とさらっと頼む。
日常珍しいことではないわけですから、これを堂々と割り切って頼めるようになるってすごい、私が車椅子と麻痺になった時、同じようになるまでにはどのくらいかかるんだろうか、と感じました。

障がいがある方は、それを恥じたり、申し訳なく思ったりする必要はないと思っています。
と同時に、そうであるから尊重しろ、優先しろ、と言ってもならないと思うのです。

父が昔から何度も何度も何度も言い続けてきた「普通が一番」。
あまりに頻回に言うので、しまいに私は反発心で「…じゃあ"普通"って一体何!?」と思うようになりました。
今でも思っているし、「普通」という単語はあまり使わないよう避けています。

「障がいは個性である」という文句は昔から耳にしてきていましたが、件の父の子です、フン、そんなん綺麗事だwと思ってきたフシがあったのですが、とある講演会でも同じようなことを言った上で、

「障害は人ではなく環境にある。例えば1Fから2Fに上がりたい人がいて、エスカレータもエレベータも階段もなければ、障害しているのは環境であって、その人に障害があるわけではない」

と例示をしている講演者がいて、それが腑に落ちると同時に、障がいが個性であるという言葉も、少しずつ腑に落ちてくるようになってきたのです。

父の言う「普通」は、五体満足で知的にも精神的にも大多数と同じもしくは数値的に一般大衆と大体同じ枠におさまっている者のことであろうと思われますが、こんな多様性の時代、「大多数」はたいていアテにならないなと思っています。

私は生まれながら特に病気や欠損もなく、大きな手術を受けたり学校からIQ等を指摘されたこともありません。でもそれだけです。
生きてくうちに視力は落ちて眼鏡は必須になるし、HSPなので生きづらさを感じないことはありませんし、自律神経をヤラれて休職したこともあれば摂食障害も患う。これでも父の言う「普通」なんでしょうか。

普通普通とのたまう父だって、自身が「普通」であると信じて疑っていないからそんなこと言うのでしょう、私からすれば彼だって、情緒が安定してもいなければいくら沢山食べてもやせ細る一方、どこか精神的に病名がつくかもしれないし、バセドウとかかもしれません。

そう思えば、HSPだってADHDだって足が動かないことだって腕が欠損していることだって、個性だと言えるのかもしれません。

人間誰しも得意不得意があって、そんなんは当たり前です。これだけ細かく複雑にプログラミングされた生命体ですから、皆どっかしら違って当然で、まぁ大体の人が大体持ってるであろう能力に合わせた構造物やプログラムやサービスが提供されているのですから、そこに合わない人だって当然出てきます。

多様性の社会とは簡単に言いますが、みーーんな得意不得意があるだけです。
全く聴こえない人でも喋れる人もいれば、手話ができない人もいる。
年配の方すべてが耳が遠いわけではないんだから、お年寄りに出くわすなり大声を耳元で叫ぶのは失礼かもしれません。
腕がなくても大抵のことはこなす人もいるでしょう。
車椅子ユーザーでも、電動でないといけない人もいればアスリートのように上半身はそこらの立って歩いてる人より頑強!って人もいるでしょう。

養老孟司先生の本で「個性は魂・精神に宿ると思われがちですが実は身体にこそ個性が宿るのです」とありましたが、それにもいたく納得したものです。

車椅子の同僚は「生まれつきの脳性麻痺で車椅子ユーザー」ですが、この情報だけでは彼女が一体何ができて何ができない人なのかわからないでしょう。
脳性麻痺とあるので、文筆は無理と思われるかもしれませんが、一緒にする業務に支障は全くありませんでした。

一緒に飲み会に行って2Fの席だったとき、階段をのぼるのにどんな手助けが必要なのか。
彼女を知らない部署の人々を見てると面白いもので、大体「助けすぎ」です。
かくいう私も、長く彼女といさせてもらったので色々わかったのですが、皆同じであるように、「助けてほしい範囲と助けてくれなくていい(自分でやれる)範囲」があるのです。
(街なかで見かけた時に勝手に良かれと助ける前に、「何かお手伝いしましょうか」と声をかけるとよいと習いましたが、そのとおりと思います)

それが「特別扱いしない」ことです。

不自由な方にだって尊厳があって、チヤホヤされたり特別扱いされたくない時があるでしょう。
だから普段から声高に「車椅子だから尊重しろ」と言わないでほしいのです。
私は、街なかで出会う不自由な方に、配慮はしても特別扱いはしませんよ、という話。

できる人ができない人に譲り合う話で、優先できる人が優先できる時に優先すればよい。できるならした方がいい。多目的トイレだって私はオムツ交換に使います。
夫に使わせるのもためらいません。男子トイレのオムツ交換台で娘のオムツ交換はさせたくない。そこに、オストメイトや車椅子の方への後ろめたさはありません。勿論、私一人なら使わないし、だらだらと待たせるつもりもない。
車椅子の方に、オムツ交換したい側が待たされることだってある。

でもそこで互いが後ろめたい気持ちを持つ必要はないと思っています。
そんなものは、普通のトイレの順番待ちと同じ。
理由があってもたついて個室が開けられない人は責められなくても良いし、スマホいじってるとか理由がなく個室を開けてくれない人はそういった行為はお控えいただきたい。それと同じです。

大体が障がいのある方についての私の想いになってしまったのでテーマとなったXのポストの話題から逸れたり、何が言いたいかわかんない感じになってしまいましたが、

・私は不自由な方に特段特別扱いしませんよ
・特別扱いはしないけれども、皆が皆違う事情で困り、明日は我が身なのだから、自ら声高になることも配慮する側も不親切にせずに、できる範囲でできる優しさを配りたいね
・そもそも多目的トイレはオストメイトの人も、オムツ交換の人も、車椅子の人も、色んな困ってる人が「多目的」に使うものだから、今回のような「男子を女子トイレに連れて行くのも憚られる場合があり、男子を一人で男子トイレに行かせても犯罪の危険性がゼロでない為、安全を重々に考慮した上での困った事態への対応策」として使用する例もあるだけなので、困っている多目的にあたっても良いのではないかと私は思う

という話でした。言いたいことは。
相変わらず話のまとめと、タイトルセンスが皆無でありました。

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