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ハンサムじゃないとだめですか   【第1話】死の声――古河為子のこと (その5)

【第1話】死の声――古河為子のこと            栗林佐知 

 為子の来歴、“人となり”を伝えてくれるのは、今のところ、どこまで本当かわからない、当時の新聞記事だけのようだ。
 為子の死から2、3日後の、明治34(1901)年12月1日、2日の萬朝報、時事新報、読売新聞、朝日新聞、東京日々新聞、二六新報、、報知新聞が、争うように、少しずつ詳細の違う「為子の来歴」と、その死の理由を伝えている。

 これらの「報道」によると、ため子は、深川木場の材木商の大店「雑賀屋(さいかや)」の番頭の次女として生まれた。雑賀屋は大店ちゅうの大店だ。

 亡くなった年齢60歳(明治34年、1901年)を数え年として逆算すると、天保11(1840)年ころの生まれだろうか。
 すでに浦賀に黒船は現れ、数年前には生田万(いくたよろず)や大塩平八郎の乱があり、江戸幕府は傾き始めていたとはいえ、「ご一新」の擾乱までまだ遠く、為子は掘り割りのめぐる深川の風景の中で、裕福な少女時代を送ったのではないだろうか。
 読み書きに稽古ごとなど、良い教育も受けたのだろう、為子は、武家屋敷に奉公にもあがったという。琴、三味線もたしなみ、元来、陽気な性質だったと、複数の新聞が、伝聞を書いている。
 お屋敷奉公のち、為子は日本橋の旅人宿「島崎屋」に嫁いで、子どもも一人産んだそうだ。仮に20歳くらいだったとすると、明治維新(1868年)の少し前くらいだろうか。

 だがその後、島崎屋に嫁いで後の為子が、いつ、どんなふうに古河市兵衛と出会ったのかは、新聞も書いていないのでわからない。
 小野組の瓦解という挫折を味わった市兵衛が、心機一転たちあげた「古河商店」は、はじめ深川に本店をおいたので、「島崎屋」を不縁になって実家に戻っていたりした為子と、縁があったのだろうか。

***

 亡くなったときの為子は、古河市兵衛の「正妻」だったが、いわゆる「糟糠の妻」ではなかった。初めは「妾」の立場だったのだ。
 つまり、古河商店を築き上げるまでの市兵衛の不屈の闘いを、為子は共にしていない。

 市兵衛のど根性立志伝の伴侶は、親戚や従業員、その家族の面倒を見、女中たちを指揮し、皆に慕われ、養子の潤吉をかわいがる、姐御肌の正妻「つる」だった。
 だが明治17年、足尾銅山が成功し銅生産量が上昇し始めた頃、つるは、急死する。
 つるの後釜に入ったのが、そのころ日本橋浜町の妾宅にいた、40代の為子だった。
 つるの死を悲しむ、結束の強い古河家の人たちの中へ、一人入ってゆく緊張、いきなり倍増する不慣れな任務のかずかず。為子の気が重くなかった、とは思えない。

 そのうえ、市兵衛にはたくさんの「妾」がいた。萬朝報の主筆、黒岩周六の『畜生の実例』(今はなき社会思想社の教養文庫で復刻されていた)というスキャンダル本には、市兵衛の妾、10~30代までの総勢6人の名前と住所が暴露されているのだが、うち4人が「古河商店」本宅と同じ日本橋区に居住している。
 彼女たちの年齢からして、「妾」がこんなに増えたのは、ため子が「正妻」になってからのことだ。それは、足尾銅山の「成功」(つまりは渡良瀬川下流の村々の深刻な被害)も、背景にしていただろうが。
 そして、為子が瀬戸物町の古河商店のおかみになって3年後、明治20年には、浅草の妾宅で、25歳のせい子が、市兵衛の初の実子、虎之助を産む。

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 幼い虎之助は、よく瀬戸物町に遊びに来ていたという。きっと為子は虎之助のこともかわいがったのだろう。
 新聞の伝えるところによると、為子は、雇い人や女中たちのみならず、夫の「妾」たちにも親切に気を配っていたそうで、ため子の死を悼まない者はいなかったという。
 明治17年から34年まで、17年間、為子は古河商店のおかみとして本当に気を張ってがんばったのだ。

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 頑張りながら、いや頑張ったからこそだろう、ため子は、「精神病」にも苦しんでいた。
 精神神経科医、三浦謹之助(のち明治天皇の最後の脈を取った名医)と、開業医、岡本武次の診察を受けていたそうで、二人の診察を受けるたび、為子は「みんなに世話になるばかりで」と、すまながっていた、と記す記事もある。
 そんなふうに気を弱らせていたところへ、市兵衛の留守中に、ある実業家が借金をたのみにやってきた。為子は養子の潤吉と相談して、8万円貸した。ところが帰ってきた市兵衛はこれを怒って為子をきつく責めた……という「事情」を記す新聞もある。

***

 そしてまた、下世話な新聞記者たちは、為子の実家の兄や姉妹たちも頭の病に悩み、材木商だった兄(伯父とも)や妹は、為子と同じように水死したと記す。島崎屋で生んだ息子も、心の病の果てに行方不明になった、とも。
 しかし、新東京人たちのストレスを想像すれば、彼らの心の病は、「遺伝」や気質ばかりによるものとは、どうも思えない。

 晩年、ため子は、和歌を習っていた。
師匠は、中島歌子(樋口一葉もその弟子だった)と並ぶ「女流歌人の双璧」といわれた鶴久子。この人のことは、現在はほとんどわからないのだが、その歌塾は深川にあったという。

 深川木場は、材木の町。堀割が巡らされ、チョキ船が行き交い、材木を扱ういなせな川並たちの「木遣り」の歌声が、海風に乗って町を渡っていた。
 ……そんな江戸の風景は、ため子20代のころから急速に変貌していった。幕府が倒れ、やってきた「官軍」によって商人一家が皆殺しにされたり、物騒な時代に、人びとは息を殺した。

 やがて文明開化の足音に、にわかに町々は騒がしくなる。駕籠かきが消えた通りを、人力車が走り抜け、電信柱が立ち、電線が空を区切り、馬車鉄道の線路が敷かれ、ぼんやり立ち話もできなくなった人びとは、たくさんの禁止令を受ける。
「裸で歩かないこと」「馬の長手綱禁止」「塀の上から通行人を嘲笑わないこと」……。思わず笑ってしまうような規則が政府から出されるが、実際、その時代に身を置いてみれば、なんともいえない窮屈さが、身の回りから押し寄せてくる感じだったろう。

 おそらく明治の10年代、為子が何年か暮らした妾宅のある浜町は、大川をはさんでふるさとの深川と向かい合っている。川の向こうの景色は、どんどん変わっていったことだろう。明治6年に工事の始まった銀座の煉瓦街のために、本所には煉瓦工場が、深川にはセメント工場が政府工部省によって作られる。エントツが並び、空気や川がよごれていった。

 古河の「奥様」となって、鶴久子の歌塾へ通うため、ため子は人力車に乗って、まだ木造だった両国橋か、新大橋を渡って隅田川を越えただろうか。白魚漁の小舟はめっきり減り、煙突が林立する、くすんだ風景を見ながら。

 ため子の歌を、万朝報(12月2日)と中央新聞(12月3日)が紹介している。
《 ほととぎす聞かむとぞ思ふ夏の夜の
            夢も短く明る東雲 》

 眠れずに、明ける夜がつづく。
 嗜みに過ぎない和歌から、ため子の肉声を聞いたと思うのは、無理があるだろうか。


 患うことが続いた為子は、市兵衛が建てた大磯の別荘によく療養にでかけていたという。
 この別荘には、市兵衛も、虎之助をつれて大勢でよく遊びにでかけたという。明治34年11月の半ばのそのときも、為子が療養する別荘に、市兵衛たちがやってくる。
 入れ替えに、為子は東京に帰った。
「瀬戸物町の家が留守になってはいけませんから」と。
 留守もなにも、古河商店はもう瀬戸物町の家から丸の内へ移っていたし、市兵衛はもとから瀬戸物町の家は留守にすることが多かったのではないか。
「旦那さまが来られては気が休まらない」
 そんな為子の声を聞いたと思ってはいけないだろうか。
 そしてその月の末、為子は夜更けに旅立つ。

 知らせを聞いて大磯から駆けつけた市兵衛は、妻の亡骸に接するや、「かあいさうに」と両目を潤ませたと、萬朝報は記す。

 明治34年12月2日の読売新聞と4日の東京日々新聞に、為子の葬儀の広告が出た。

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《古河市兵衛妻為子儀
兼ねて病気の処本日午前三時死去致候に付
此段生前辱知諸君へ謹告仕候也。
(略)
         明治三十四年十一月三十日》
 

 場所は東京麻布の善福寺。
 実業界の名士が参席して見送った。
 市兵衛はこの日、足尾銅山はじめ各地の事務所・工場を休みとし、従業員は有給休暇としたという。
 この賃金にかかった費用は総額一万円。
「確かに立派だが、これですんだと思うなよ」と、「闘う新聞」萬朝報はイヤミで締めくくる。

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 ふとドキリとした。

 伝記類によると、為子の死後二年後に亡くなった(なんとその間にも2人、子供をなしている)市兵衛は、善福寺で葬儀の後、麻布の光林寺へ葬られ、数年後に亡くなった潤吉も、昭和に入ってから亡くなった、為子の次の「正妻」せい子も、光林寺に葬られているのだ。

 まさか、為子一人だけ、善福寺に置き去りにされたのでは?
 善福寺に行ってみると、古河家の墓は、近くの光林寺に移っていた。事務所で調べて頂いたところ(20年以上前のことだ。今なら応じていただけないのではないか)、市兵衛の死後、古河家が土葬を望んだので、土葬禁止区域である善福寺から、近くの光林寺へ墓を移したとのことだった。

 善福寺から歩いて2~30分のところにある、光林寺を訪ねた。
 車の絶えない明治通りに面した高層ビルに囲まれ、ぽっかり静かな谷間のような、掃除の行き届いた境内だった。

 石柵で囲まれ、燈籠が並び木が植わった広い一画がある。戒名を刻んだ方形の石柱の上に弧型の笠の載った、かなり大きな墓石が4つ立っていた。どれも同じ形、同じ大きさだ。正面に並んだ三柱のうち、真ん中が、市兵衛の糟糠の妻「つる」の墓。向かって右隣が市兵衛。その隣に鍵型に並んだ、一番つるつるしたのが、為子の死後、正妻となった「せい子」の墓。為子の墓は、つるの左隣。
 為子の墓はちゃんとあった。しかも、ほかの妻たちとも、市兵衛とも同じ立派さのものが。家業に尽くした家刀自たちへの、遺族の敬意だろう。

 おかしな想像をした自分が浅ましく思えた。たくさん妾を持ったという市兵衛なのに、お墓が男女平等なのは、なんだか楽しい気がした。
 けれど、ともその時、思ってしまったのだ。
 立派な、平等に同じ大きさのお墓は、本当の為子の姿を覆い隠してしまう、と。
 もしも為子が死ぬことで声を挙げたなら、その声を消してしまう、と。
 
 いや。なんとも青い感慨かもしれない。
 心が病めば死にたくなるのは、たんなる症状なのかもしれないし、誰しもが自分の生きた証や胸の叫びを、世に残していきたいなどと、思うわけでもないだろうに。
(了)

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