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林浩治「在日朝鮮人作家列伝」 02   金泰生(キム・テセン)〔後篇〕

                       ヘッダー画:奥津直道

〔前篇〕からつづき

9)『文藝首都』で文学修行

 1955年、金泰生は冒頭に書いたように、金達寿の紹介で小品を在日朝鮮人の雑誌に発表した。その年の暮には、純粋文学の雑誌『文藝首都』*2)の保高徳蔵を訪ねる。
 なだいなだは、『文藝首都』の面々をモデルとした小説『しおれし花飾りのごとく』(1981年 集英社文庫)に、金泰生を模した朴という朝鮮人を描いた。

〈(朴は)痩せていた。胸郭成形をした右の胸が板のようで、上着がへこんでいる。大柄な男で頰骨が子供のように赤かった。あごのとがった細い顔に、精悍な感じがただよっている。笑う時には大きな馬を思わせるような口をあけた。
…………
小説はもっぱら日本語で書き、これまでも結核療養所の仲間と出している同人雑誌に、幾つかの作品をのせていた。〉

まことに金泰生像をよく表している。なだは、小説中の朴にこう言わせている。

〈「おれはね、日本語の方が朝鮮語よりもうまいくらいだ。朝鮮語を話すと朝鮮の人間に笑われる。でも、おれは朝鮮人の心を持っている。おれは日本語で考え、日本語で話す。だが、朝鮮人式に怒り、朝鮮人式に泣き、朝鮮人式に悲しむんだ」〉

 朴はこの後、日本人が「馬鹿野郎」と一言で終わらせるのに対して、朝鮮人は「千の雷に打たれてくたばるやつめ」と言い、自分がなぜ怒っているのかを長々と物語るのだと言う。まるまる3ページに渡って朝鮮人のケンカ語りの例が語られ、これでも実際の何十分の一だと言う。朝鮮人のけんかは長い物語を語るものなのだ。
 金泰生の根には朝鮮の民衆文芸が根付いていたに違いない。

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 金泰生は、『文藝首都』1957年4月号に小説「心暦」を発表する。32歳だった。後の傑作「骨片」の習作だ。同年9月号に発表した「E級患者」は、結核療養所での体験を元にしている。
以後も『文藝首都』には、「童話」「目出度いはなし」「歳月の彼方に」「鏡」「下賀茂で」などを発表した。『文藝首都』は初期金泰生の主戦場となった。
 翌1958年、許雲河(ホ・ウナ)さんと結婚する。許雲河さんは在日本朝鮮民主女性同盟に属した活動家だった。二人は一男一女をもうけた。
 妻の許さんは、後に埼玉県川口市で小さな焼き肉店を切り盛りした。肺結核の治療で肋骨を失って体力のない金泰生は、経済活動ではそれほど役に立たなかった。

10)金泰生と金石範

 金泰生は『文藝首都』1958年1月号の「首都合評」を、なだ・いなだ、亀山恒子とともに担当し、前号掲載の金石範*12)「鴉の死」について合評した。金泰生は、金石範が「看守朴書房」に続いて、「鴉の死」という、自身の故郷である済州島の民衆武装闘争を素材とした作品を発表したことに、強く刺激されていた。文学で政治的課題を扱う、という発想を持たない金泰生にとって、金石範は眩しい存在になる。
 金泰生と金石範とでは、文体も対称的だ。日本的リアリズム文学を修錬した金泰生に対して、朝鮮語でも書き日本的情緒を拒否した金石範の日本語文学は挑発的だった。
 畏友という言葉は、この二人にこそ似合う。
 この年の11月に在日朝鮮人の文芸誌『鶏林』が創刊された。編集発行人は張斗植(チャン・ドゥシク)になっているが、金達寿が中心になって、1946年から50年まで発行された『民主朝鮮』の後継的意味を持っていた。
 金泰生はこの『鶏林』創刊号に、済州島四・三事件を素材とした小説「末裔」を発表した。金石範の影響は否めない。「末裔」は、1982年『新日本文学』9月号に同名で改作発表されている。
 四・三事件を扱った作品はもう一つ、1977年4月、『文芸展望』春号に発表された「巣立ち」がある。済州島四・三蜂起を、少年の目から描く異色作である。金泰生はこれを書き継ぐ意志を持っていたが、なし得なかった。

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↑ 宿命の友 金石範VS金泰生 
埼玉文学学校同人誌『同行者大勢』の表紙(画:野村寿孝さん)


11)政治の季節に突入

 韓国では、1960年4・19学生革命によって李承晩(イ・スンマン)政権が倒され、民主政治に移行するかに思われたが、翌61年、朴正煕(パク・チョンヒ)らによる5・16軍事クーデターが起こり、軍事独裁政権が樹立された。
〈のんきに小説など書いとる時代ではないんだ〉(「座談会・日本地図への別の見方」)という気持になった金泰生は、1962年37歳のときに統一評論社に勤務し、雑誌『統一評論』の編集にあたった。
 「のんき」という言葉が適切かどうかはさておき、金泰生の小説は、政治を俯瞰した批判的視点を表さなかった。それにこの時期、朝鮮総連は日本語で小説を書くことに制約的だった。金泰生は組織と果敢に闘うような作家でもなかった。
 1965年1月、井野川潔、早船ちよ*14)等の同人誌『新作家』三号に小説「人間の市」を発表するが、次号には朝鮮の詩人鄭孔采(チョン・コンチェ)の長詩「米第八軍の車」(坂本孝夫訳)を推薦し、続編の発表はなかった。この変更に、組織からの指導がなかったとは言えない。
 1972年の7月4日、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国は、南北共同声明(七・四共同声明)発表し、朝鮮統一に関する基本原則を明らかにするが、この後、金泰生は『統一評論』の仕事を辞める。


12)『骨片』などの出版

この年の6月、『人間として』10号に小説「骨片」を発表した。『人間として』は、小田実・開高健・柴田翔・高橋和巳・真継伸彦の共同編集の体の季刊誌で、筑摩書房発行だったが同人誌的性格を持っていた。高史明(コ・サミョン)の「夜がときの歩みを暗くするとき」も、この雑誌に創刊号から連載された。
 金泰生文学は「骨片」の発表を以て再開した。
「骨片」は、憎むべき父へのこだわりを描いた習作「心暦」から大きく踏み出し昇華している。「心暦」では描かなかった父の死の確認を「骨片」で行い、そのことに重要な意味がある。金泰生の父を見る眼差しがいつしか自己凝視となっていたからである。
死を見つめ、時代を見つめてきた作家にとって、自己とは父の骨片のように小さく軽いものであり、また日本社会は在日朝鮮人を閉じ込める「湯呑茶碗ほどの粗末な木箱」程の骨箱にすぎない。死者の息つぎは、金泰生の「心臓の鼓動にあわせて微かに動」く。金泰生独特の文学的世界観が確立された。
 七・四共同声明後、在日朝鮮人文化人(姜在彦(カン・ジェオン)、金達寿、金石範、朴慶植(パク・キョンシク)、尹学準(ユン・ハクジュン)、李進煕(イ・ジンヒ)、李哲(イ・チョル)らによって発行された雑誌『季刊三千里』に、「ある女の生涯」「少年」「童話」などを発表した。これらは、先の「骨片」と合わせて1977年9月に創樹社から『骨片』として上梓された。これが金泰生初めての単行本出版である。52歳だった。

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 1976年、『未来』9月号から77年12月号まで「私の日本地図」を連載し、補筆して未来社から『私の日本地図』(1978年)として発行した。『私の日本地図』は幼少期の渡日譚に始まり、日本の敗戦=祖国解放と戦後の在日生活の端緒までが描かれた。これについては「6)光復(民族解放)」のところで書いた通りだ。
 このときの未来社の編集者、松本昌次について、金泰生は〈彼は、私のささやかな二冊の本を世におくり出してくれた人である。〉(「わが友 松本昌次」日本読書新聞1979年10月8日)と書いている。
 1979年『新日本文学』7月号に、磯貝治良の金泰生文学論「明澄と凝視と」が掲載され、在日朝鮮人文学論集『始源の光』(同年9月発行)に収録された。陽の当たることの少なかった金泰生を論じた初めての文学論だった。
 その後は、1980年『記録』10月号から「私の人間地図」の連載を始め、1985年2月に青弓社から『私の人間地図』として刊行、1985年8月には『未来』に連載した「私の日本語地図」と、その他の未収録諸篇に手を加えてまとめた『旅人(ナグネ)伝説』を影書房より刊行した。影書房は松本昌次が起こした出版社だ。

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 商業文芸誌とは殆ど縁の無い金泰生だったが、晩年『すばる』に2篇の短篇を発表している。1983年11月号に「紅い花」と1985年4月号「爬虫類のいる風景」だ。
 英雄が待望され独裁者が闊歩する時代、大衆が映画スター、テレビスターに憧れる時代に、金泰生は名も無い庶民の懸命で愚かしい生を描いた。あたかも、生きる価値は誰しも同じだと、生きることだけでも息苦しい社会に対するレジスタンスなんだと、証明したがっているようだ。


13)社会参加 Engagement

もはや組織人ではない金泰生は、一人の在日朝鮮人作家として社会に参加していた。
 韓国で囚われる在日韓国人政治囚、徐勝(ソ・スン)・徐俊植(ソ・ジュンシク)〕兄弟の母・呉己順(オ・ギスン)さんを追悼する集会や、日韓問題を考える市民講座、指紋押捺の強制に反対する集会などで講演。統一運動家、鄭敬謨(チョン・ギョンモ)*15)主催のシアレヒム文章教室や、埼玉地方労働学校でも講義した。
 埼玉文学学校、公民館、市立図書館などの文学講座などでも、金泰生は講師を担当した。
 埼玉文学学校が新日本文学会から独立して「自主講座・埼玉文学学校」となってからも、金泰生は事実上の校長として毎週のように参席して、二次会の酒席では長広舌をふるったが、誰も真剣には聞いておらず、右の耳から左の耳に聞き流していた。私たちは飲み友だちとして親しすぎた。金泰生のリアリズム文学に「糞リアリズム」などと悪罵する者さえいた。それでも三次会で浦和駅側ガード下の飲み屋「雪国」で、ミルチュー(焼酎の牛乳割り)を呑みながら革命と文学の管を巻く若者たちを見守っていたのだ。
 しかし、私が金泰生を本気で読み始めたのは彼が死んでからだった。
 1983年7月、金泰生は「アジア文学者ヒロシマ会議」において祖国における核の危機の現況を在日朝鮮人の立場から訴えるため、李恢成(イ・フェソン)・金秉斗(キム・ビョンドゥ)・劉光石(ユ・グァンソク)・梁石日(ヤン・ソギル)らと「〈在日朝鮮人文学者有志の会〉結成に参加し、「アジア文学者ヒロシマ会議」及び、第4回ナガサキ国際フォーラム「アジアの平和と文学を語る集い」に足を運んだ。
 そして最晩年の1986年、“文芸・社会科学の分野で優れた仕事をし、社会貢献した在日朝鮮人”に与えられる第12回青丘文化賞を、61歳で受賞した。
 この年12月25日午後11時56分、川口市の埼玉県中央医療生協川口診療所で満62歳の生を終えた。
 晩年の金泰生は長編『人間の市』の構想を持っていたが、果たされなかった。

◆参考資料

1.金泰生『骨片』1977年9月 創樹社
2.金泰生『私の日本地図』1978年6月 未来社
3.金泰生『私の人間地図』1985年2月 青弓社
4.金泰生『旅人伝説』1985年8月 記録社(影書房発売)
5.金泰生、飯沼二郎、大沢真一郎、小野誠之、鶴見俊輔「《座談会》日本地図への別の見方」『朝鮮人』No.21 1983.3
6.磯貝治良『始源の光』1979年9月 創樹社
7.水野直樹・文京洙『在日朝鮮人 歴史と現在』2015年1月 岩波新書

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◆著者プロフィール

林浩治(はやし・こうじ)
文芸評論家。1956年埼玉県生まれ。元新日本文学会会員。
かつては金泰生が講師を勤める埼玉文学学校にも参加。
最新の著書『在日朝鮮人文学 反定立の文学を越えて』(新幹社、2019年11月刊)が、図書新聞などメディアでとりあげられ好評を博す。
ほかに『在日朝鮮人日本語文学論』(1991年、新幹社)、『戦後非日文学論』(1997年、同)、『まにまに』(2001年、新日本文学会出版部)
そのほか、論文多数。尊敬する作家は金石範。
2011年より続けている「愚銀のブログ」http://kghayashi.cocolog-nifty.com/blog/は宝の蔵!
金泰生のこともがっつり書かれています。http://kghayashi.cocolog-nifty.com/blog/kimtesenhukei.html

『在日朝鮮人日本語文学論』(1991年、新幹社)には、「金泰生論」が所収されています。金泰生の作品をもっと知りたくなった方はぜひ!
それぞれの作品が紹介・評論されています。
(編集部記)

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