林浩治「在日朝鮮人作家列伝」 02 金泰生(キム・テセン)〔前篇〕
金泰生――洗練されたリアリズムで、名もない庶民を描いた
前回の金達寿(キム・ダルス)に続き、金泰生を紹介したい。
金泰生と言っても知らない読者が多い。生前も有名作家ではなかったが、死後35年も経った昨今ではほとんど名があがることがなかった。ところが、今年(2021年)2月発行の『対抗言論』vol.2(法政大学出版局)に掲載された座談会「在日コリアン文学15冊を読む」に金泰生「骨片」が選ばれていて驚いた。「端正なリアリズムというか、美しい文体を持っています。」(杉田俊介)と発言されていて嬉しかった。
金泰生は小さな声で語る清澄な文体で、名もなき庶民の生を描いたリアリズム作家だった。
金泰生(キム・テセン)
(1924年11月27日、済州島大静面新坪里生
~1986年12月25日、埼玉県川口市)
(画・奥津直道)
1)金達寿の後輩として
若き金泰生の才能は、朝鮮人先輩作家である金達寿に認められていた。 金泰生の最初に印刷された短い小説「痰コップ」は、1955年『新朝鮮』9月号(『新しい朝鮮』改題、これが最終号となった)に金達寿が持ち込んだ小品だ。若く死んだ母代わりの叔母の病と自己の病とを二重写しに描いている。
金泰生は、病み上がりの療養中に、金達寿と手紙のやりとりをしている。その後、金達寿の小説『玄海灘』が劇化されて芝の中労委会館で上演中(1955年3月19~22日劇団生活舞台)に二人は初めて会った(金泰生「富士の見える渋谷」『くじゃく亭通信』*1)第17号1978年8月)。
『文藝首都』*2)1957年6月号に、金泰生と金達寿の往復書簡形式のエッセイが掲載されている。金泰生は『文藝首都』に寄稿していた張赫宙(チャン・ヒョクチュ)や金史良(キム・サリャン)等に触れながら、「無関の門さながらに」文学の使徒たちを迎え入れた『文藝首都』について書いた。金達寿の返信は、朝鮮人と『文藝首都』との関係は、張赫宙、金史良、金達寿に続いて金泰生が4代目だというものだった。
金達寿が会員だった新日本文学会*3)においても、金泰生は、会が経営する埼玉文学学校の専任講師を務めたほか、短篇小説を発表するなど深く関係した。
しかし、金達寿の骨太な政治小説に比べると、金泰生の作風は地味だ。以下、私小説作家金泰生の作品に沿って、その生涯を概観したい。
2)故郷を離れ、母と離別する
金泰生は、日本で関東大震災の発生した翌年、1924年に朝鮮半島の南端、済州島の南西に位置する大静面新坪里に生まれた。父は渡日していて不在だった。
世界恐慌の起きた1929年、朝鮮では11月に光州学生運動が起こった。大規模な反日運動だ。この年、幼い金泰生の母は、ひとり息子を手放して再婚する。幼児期の母との別離は、後に短篇小説「童話」(『骨片』1977年9月 創樹社)の素材となった。おぼろげな追憶だが、決定的な思想になった。
金泰生は、母を思慕する気持ちを通して故郷の像を心に描き続け、その表現として「童話」等の作品を遺した。しかし故郷にたいする思慕は、日本語の強制に対する恨みを伴っていた。
金泰生が最初に知った日本語は、「ゴム靴(クチュ)」だった。そして「ゴム靴」は、辛い記憶と結びついている。4~5歳だった金泰生は、オモニ(母)に促されてポプラの根元に置き忘れたというゴム靴を取りに行く。それがオモニとの別れだった。
〈ぼくは今でも〈ゴム靴〉という日本語が嫌いだし、ゴム製の履物が好きになれない。〉(『旅人伝説』1985年8月 記録社)
日本による植民地支配にあえぐ朝鮮の人びとは、仕事や生きる場を求めて満州や日本に流出した。朝鮮半島南端に位置する済州島の民は日本へと渡っていくケースが多かった。日本による植民地収奪*4)を原因とする渡日を、金泰生は〈歴史による強制連行〉と呼んだ。
1930年初夏、金泰生は親戚のおじさんに連れられて日本に渡った。金泰生にとって、母との別れは故郷との別れと同一の意味をもった。
3)在日生活の始まり おばさんの死
父母から引き離された孤独な金泰生少年は、「容河(ヨンハ)おじさん」とその妻「仁淑(インスク)おばさん」とともに大阪猪飼野*5)に暮らした。在日生活の始まりである。この町で金泰生は生活のために日本語を覚える。
〈猪飼野の町の路傍はぼくの学校であり、事物はすべて教材だった。〉(『私の日本地図』1978年6月 未来社)
仁淑おばさんは、初めて会ったときから母代わりとしての役割を果たした。このおばさんの死までを描いた小説「少年」(『骨片』創樹社 所収)は、済州島を舞台として幼年期を描いた「童話」の続編で、少年期大阪篇とも読める。
「少年」に描かれた仁淑は、人の死を処理する仕事に携わっていて、子供に恵まれぬまま、結核によって若く死ぬ。
金泰生は、おばさんとの暮らしと死を『私の人間地図』(1985年2月 青弓社)にも詳しく書いているが、「少年」において抽象化されたものは、在日朝鮮人女性の死である。女は母であり、故郷だ。他郷にある女の苦悶する死は、日本に侵された朝鮮の姿に通じる。
金泰生のイメージの朝鮮は、〈母〉に繋る優しさと同時に、仁淑おばさん像に見られる、死の恐怖のイメージを重ね備える。それは理念としての故郷が、母の温もりに繋る夢の国であるのに、現実の朝鮮は、日本支配下でひどく抑圧され歪んでいる。
金泰生は、母という概念を理想化したが、母代わりの「仁淑おばさん」に現実の朝鮮を見ざるを得なかった。母とは故郷の優しさであり、子を守り育てる者である。しかし、仁淑を覆った生活の現実は、彼女を蝕むだけだった。どうしようもない現実の暗さの中で、夫の容河は酒びたりである。
金泰生の実母も、日本で暮らしていた。金泰生は、〈母とは別れてくらすようにできているのだ。〉(『私の人間地図』)と回想している。つまり、母は思想上の故郷であったが、実母の生以上に作家の生に大きく影響したのは「おばさん」の死であった。
1937年、おばさんが死去すると、まだ満12歳だった金泰生は自立せざるを得なかった。鉄工所や歯ブラシ工場、木工所など仕事を転々とした。
金泰生が住んだ猪飼野は、朝鮮人の集結地であり、その長屋にはすれ違いに、作家、梁石日*6)が居住していたことがあとで分かる。
4)父との葛藤
金泰生にとって父とは何だったのか。「骨片」(『骨片』所収)は、父の死後、父への嫌悪と自己確認を書いた小説だ。
「骨片」の主人公用民(ヨンミン)は、作家本人を模している。
用民は母と別離して一年後に日本に連れて行かれた。父親である永河(ヨンハ)はその日暮らしで、警察に度々(たびたび)逮捕され、用民の前に現れては消える。
用民は父を憎みながら少年期を過ごした。照れ笑いを浮かべながら、廓の女からの手紙を用民に代読させようとする父だ。用民が働きながらも貧しく暮らし、やっとの思いで貯えた金を平気で使ってしまう。
用民はそのたびに父永河に対する蔑みを増し、ついには永河の運命については心を動かされまいと覚悟をきめる。
このような父との確執については、『私の人間地図』にも書かれた。
主人公のぼくは写真家になる夢を持っていたが、蓄膿症の治療のために、夢を託したカメラを売る。〈ぼくは病気さえ治ればカメラはまたいつか買えると思〉っていたが、〈皇族の宮様が京都へお越しになられる〉ために警戒していた警官に怪しまれ、2日も留置されてしまい、お金は父の手に渡って持ち逃げされてしまう。父は息子の治療費のみならず、夢や希望を剥奪したのだ。
〈なにかになりたい願望となる現実との間にどれほど測りがたい距離が横たわっているものであるか、ぼくの眼にはまるで見えはしなかった。〉
希望を奪うものとしての父、夢を現実の力によって叩き潰す父の姿がみごとに表出された。
5)働きながら学び、『中野重治詩集』に出会う
金泰生は少年期を働きながら学んだ。通学が困難だった彼は、専検(旧制の、専門学校入学者資格検定試験の略称)を1科目ずつ受験するために独学していた。
進学を目指した金泰生は、1942年6月大阪から離れ、東京へ向かう。神田の正則英学会に半年通ってから、夜間中学へ編入したようだ。
このかん神経衰弱と偏頭痛に苦しんだと言う。精神的に弱っていた金泰生は、仏教のお経を習ったり、キリスト教会にも通った。また谷口雅春*7)『生命の実相』や西田天香*8)の本も読んだ。
キリスト教やら仏教やら新興宗教やらを俗解した煮込みのような思想の継ぎはぎから、栄養になる要素を吸い取って行く過程が、戦争末期までの〈貧寒とした青年時代〉だった。(「《座談会》日本地図への別の見方」『朝鮮人』No.21 1983.3、朝鮮人社*9)
1945年2月、金泰生は、実母のいる静岡で受けた徴兵検査に甲種合格した。すでに1943年頃から特別志願兵として朝鮮人青年も戦争に駆り出されていたが、戦争も切羽詰まってくると一般徴兵の対象になっていた。
東京に戻った金泰生は3月10日の大空襲を、千葉県の友人を訪ねていて免れる。そこで『中野重治詩集』を貰った。『中野重治詩集』との出会いは金泰生を目覚めさせた。
〈「雨の降る品川駅」はそれ以来ぼくの愛唱する詩の一つになった。いうまでもなくこの詩は、日本天皇・権力によって日本から放逐される朝鮮人同志への告別の詩である。かつて祖国朝鮮の独立解放運動に加わった朝鮮人を指して、日本官憲は 〈不逞鮮人〉 と呼んだ。だがぼくらは、彼らの憎悪するその 〈不逞〉 の度合いが濃密であればあるほど、それらの人々を敬意をこめて 〈愛国者〉 と呼んだ。〉
(「『中野重治詩集』との出会い」『季刊三千里』21号 1980年2月、三千者社)
6)光復(民族解放)
1945年8月15日を、金泰生は大阪の知人の家で迎える。
〈これまでの長い異国暮らしの中で最も楽しかったといえる日を一つだけ挙げろといわれれば、ぼくはためらうことなく、あの、八・一五――一九四五年八月一五日をあげるだろう。〉(『私の日本地図』)
侵略戦争に引きずり込まれる寸前の青年、金泰生に「光復」の日が訪れたのだ。
解放によって、祖国帰還を目指す朝鮮人が急増した。20歳の金泰生もまた、故郷への帰還を目指した一人だった。
『私の日本地図』は、未遂の帰郷譚に始まる。そこに描かれたのは、戦前戦後を貧しく生きた在日朝鮮人たちの姿だ。彼らはただ生き抜こうとしただけだ。金泰生は、独立や革命のために闘ったり、思想を語る文学を目指さなかった。生きるだけに必死な庶民を描いたのだ。
解放の年10月、20トン余りの焼き玉エンジン船を手に入れた母方の叔父が、20名の乗客とともに帰国を目指して江ノ島を発った。金泰生も乗船する予定だったが、泰生がコンパスや海図を探しに行ってるあいだに、叔父たちは出発してしまった。泰生は叔父たちを追って、伊東―下田―大阪―紀州勝浦―大阪―下関と一週間あまりの旅をするが、ついに叔父の船の消息はつかめず、帰郷を断念する。コンパスも海図もないまま行きあたりばったりの叔父たち30余名の末路を心配した。
同じように朝鮮への帰国を目指した浮島丸という船が舞鶴港で触雷して沈没し、549人の犠牲を生むという事件も起きていた(8月24日)のだが、誰にも気づかれずに海の藻屑となるケースもあったに違いない。
しかし、12月、叔父たちは釜山から、四国の八幡浜に帰り着いていた。釜山で暴力団まがいの連中に襲われ、逃げてきたのだ。解放後の朝鮮社会は、食糧難や失業、左右の激しい対立*10)で混乱し殺伐としていた。
〈在日朝鮮人のこうした逆流は〝密航〟という形をとらざるをえなかった。占領軍は、一度本国へ帰還した朝鮮人の日本への再渡航を堅く禁じていた。〉(水野直樹・文京洙『在日朝鮮人 歴史と現在』2015年1月 岩波新書)
一方、すぐには帰国を目指さなかった解放された朝鮮人たちは、日本で朝鮮人聯盟などの自治組織や、炭鉱などの労働現場では労働組合を結成し、待遇改善等の要求を突きつけた争議を次々に起こした。10月10日、金天海(キム・チョンヘ)など朝鮮人共産主義者が釈放されると、共産党に合流する者も少なくなかった。
金泰生の作品と歴史的事実が錯綜していて分かりにくいかも知れないが、『私の日本地図』や『私の人間地図』は、小説とか記録・エッセイとかの枠を超えている。金泰生自身、雑誌『未来』に「私の日本地図」を連載するにあたって、その文体について、生活体験がもたらした事実群を重層的に積み上げて、事実を超えた事実を抽出し、小説的手法で表現しようとした、という旨の発言をしている(前出「《座談会》日本地図への別の見方」)。
従って、金泰生の作品をその個人史に沿って論じる場合には、金泰生が書いていない周辺の事実に言及せざるを得ない。
7)戦後在日生活を始める
戦後、在日朝鮮人運動の渦中にあった金泰生は、故郷済州島での酪農を夢見て、明治大学で農業経済を学ぼうとしていた。
1948年ごろ経験した恋愛も、朝鮮人組織における埼玉での組織活動に関わったものだった。
未発表の習作「明日の人」には、在日朝鮮人連盟傘下の青年団体文化部に属するM大生、炳植(ピョンシク)の目を通して、当時の情勢が書かれている。
〈 関西方面の情勢は毎日の新聞・ラヂオが誇張されたセンセーショナルな論調で報じていたが、正確な事態をとらえることは困難をきわめた。四月二四日、警官隊の銃弾は大阪市庁前広場に中学生金太一の若い命を射抜いた。第八軍司令官アイケルバーガーは神戸に「非常事態」を宣言した。
…………
炳植は帰り支度を終えた潤節と朴につれ立って会場を出た。ごたごたと低い家並みの建てこんだ町を出外れると、武蔵野の名残をとどめた郊外の眺めが眼前に展けた。厚みを増した黄色の麥畠が前方に横たわり、その畠を縁どって五六本のくぬぎの新樹が風に吹かれて梢をしなわせていたが、曇天の下を吹きすぎる風は冷たくえり肌をちぢませた。〉
金泰生の心象は、明るい未来を思わせる武蔵野の麦畑と新緑の景色であると同時に、暗い現実を示す曇天下の寒風吹きすさぶ風景でもあった。
しかし、その後すぐ入院療養をよぎなくされる金泰生にとって、希望と不安の入り交じったこの風景の時期は短かった。
8)肺結核で療養
1948年23歳のとき、金泰生は肺結核のため奥伊豆の療養所に入院する。幼いとき母親代わりに育ててくれた「おばさん」の結核による死を看取った金泰生である。自身の結核罹患も必然だったのかも知れない。右肺葉切除、肋骨8本を失って、8年にわたる療養生活を続けた。
療養中、同人雑誌に参加して習作を残したと思われるが、確認できていない。石塚友二*11)に師事して俳句を作っていたという。
また、病院での暮らしをモチーフとした作品に「E級患者」(『文藝首都』1957年9月)、「めるへん」(『新日本文学』1981年7月)、「爬虫類のいる風景」(『すばる』1985年4月)などがあり、また『私の日本地図』の「あとがきにかえて」の中でも、病友、加藤保彦の死について書いている。それらは、日本人を描いている点を共通点としてあげることが出来る。死に直面した金泰生にとって、人間の生死は民族を越えていた。
また、療養中に同郷である金石範(キム・ソクポム)*12)の「済州島四・三事件」*13)に関する短篇を見て〈この男に会わなければならない〉と思いつめる(「《座談会》日本地図への別の見方」)。金泰生にとって済州島とは、日本での辛い暮らしから逃避する牧歌的なトポスであり、母の表象だった。しかし、金石範は、金泰生の故郷に抱いたイメージに対峙する作品を突きつけたに違いない。
この金石範の短篇というのは、1953年頃『平和新聞』の編集部にいたころ書かれ、後の「鴉の死」などに繋がる習作と思われるが、原典は確認できない。
→〔後篇〕へつづく
いよいよ、金泰生の文学修行が本格的に始まります。お楽しみに!
(編集部)
■著者プロフィール
林浩治(はやし・こうじ)
文芸評論家。1956年埼玉県生まれ。元新日本文学会会員。
かつては金泰生が講師を勤める埼玉文学学校にも参加。
最新の著書『在日朝鮮人文学 反定立の文学を越えて』(新幹社、2019年11月刊)が、図書新聞などメディアでとりあげられ好評を博す。
ほかに『在日朝鮮人日本語文学論』(1991年、新幹社)、『戦後非日文学論』(1997年、同)、『まにまに』(2001年、新日本文学会出版部)
そのほか、論文多数。尊敬する作家は金石範。
2011年より続けている「愚銀のブログ」http://kghayashi.cocolog-nifty.com/blog/は宝の蔵!
*『在日朝鮮人日本語文学論』(1991年、新幹社)には、「金泰生論」が所収されています。さらに金泰生の作品を知りたくなった方はぜひ!それぞれの作品が紹介・評論されています。
(編集部記)
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