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在日朝鮮人作家列伝            01 金達寿(キム・ダルス)  林浩治

金達寿──戦後在日朝鮮人文学の嚆矢
     『玄海灘』と『太白山脈』を中心に    

70%金達寿完成(奥津直道画)

画:奥津直道

金達寿
(1920年1月17日、慶尚南道昌原郡亀尾村生~1997年5月24日、肝不全で死去77歳)

■代表作『玄海灘』

1970年代後半、学生だった私が手に入れることのできた朝鮮人作家の文庫本と言えば、芥川賞作家の李恢成を除けば、金達寿の『玄海灘』くらいだった。
講談社文庫版『玄海灘』の「解説」で鶴見俊輔は
〈私たち日本人の世界観を、日本人の間にあって日本をえがくことをとおして、うちやぶる力を、金達寿の小説『玄海灘』はもっている。この小説は日本語によって書かれた国際小説として、おそらくもっとも重大な作品の一つだろう。〉
と書いている。さらに続けて、植民地化する民族の言葉つまり日本語が、植民地化される民族にとって意味するものを金達寿は照らし出している、と指摘した。

『玄海灘』は1952年雑誌『新日本文学』1月号から53年11月まで連載された。
『新日本文学』を発行した新日本文学会は、1945年の年末に「民主主義文学の創造と普及」を目的として創立大会を開き、翌年1月に創刊準備号、3月に創刊号を発行した。金達寿は1946年4月に在日朝鮮人の文学誌『民主朝鮮』を創刊し、秋頃には新日本文学会にも入会している。
『玄海灘』の描いた時代は1943年ころだ。日本は日中十五年戦争の末期、日米開戦から2年も過ぎ、疲弊していた。朝鮮は日本によって植民地支配され、大陸侵略の足場となっている。

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■主人公、西敬泰の姿

二人の主人公のうち西敬泰(ソゲェンテェ)は朝鮮の没落した農民の子として生まれ、11歳で日本に渡り、屑拾いや納豆売り風呂屋のかま焚きなどの仕事を転々とし、苦学して地方新聞に就職し日本人の恋人大井公子もいた。しかし自尊心と栄達心の強い敬泰は、公子の「朝鮮の人だって、いまはもう日本人でしょう」という言葉に打ちのめされていた。同情心の中に侮蔑すら感じてしまったのだ。公子と別れた敬泰は、大新聞での活躍を夢見て朝鮮に帰り運良く京城日報に就職する。

朝鮮は日本より一層皇民化政策が強化されており、取り締まりも厳しかった。朝鮮人は日本と朝鮮の行き来も自由ではなく「一時帰鮮証明書」が必要だったし、乗船時の検閲で殴られても文句が言えなかった。敬泰は幼くして渡日して働いていたので日本語の知識も生半可だったが、朝鮮語も「へったくそ」だった。典型的な在日朝鮮人=「半日本人」だった。つまり西敬泰像は作者金達寿そのものを反映している。

敬泰は街で「皇国臣民」と呼ばれる60歳近い男に捕まり「皇国臣民の誓詞」を教えられる。敬泰も知ってはいたが覚えてはいなかった。朝鮮では警官などに尋問されたときにこれを暗誦できないと酷い目に合うと言う。
一ツ、我等ハ皇国臣民ナリ 忠誠以テ君国ニ報ゼン
二ツ、我等皇国臣民ハ 互ニ信愛協力シ以テ団結ヲ固クセン
三ツ、我等皇国臣民ハ 忍苦鍛錬力ヲ養イ以テ皇道ヲ宣揚セン

この「皇国臣民」こと趙光瑞(ジョグヮンス)は一見酔っ払いの浮浪者だが、実は革命運動家の偽装した姿だ。これは金達寿の別の短篇「朴達の裁判」の朴達(パクタリ)に繋がる。

京城日報は朝鮮総督府の機関紙としての役割を果たしていたが、敬泰は深く考えてはいなかった。西敬泰は向上心が強いノンポリ青年に過ぎなかった。民族意識は強くなかった敬泰だったが、被差別者としての自意識は僻みにも近く、公子との別れも日本から離れて大新聞に就職して出世して見せようという行動も被差別的自意識と無関係ではない。

西敬泰は一旦校閲部に配属されるが、やがて社会部に移され、あるとき養正中学へ取材に行かされる。そこではトラックに生徒たちが次々に載せられ連行されていく。大規模な朝鮮独立運動の検挙だった。敬泰は呆然とし記事に書く気になれなかった。

朝鮮人学徒の志願制度が始まると、著名人の談話取りに忙しくなる。小説では〈学徒の徴兵〝志願〟がはじまっていた。〉と曖昧に表されている。
朝鮮に於ける志願兵制度は、1938年2月26日に朝鮮陸軍特別志願兵令公布、1943年7月20日に海軍特別志願兵令が公布され、1943年10月20日に陸軍特別志願兵臨時採用施行規則が公布された(趙景達『植民地朝鮮と日本』岩波新書)。朝鮮近代文学の祖とされる李光洙が明治大学講堂で講演会を開き朝鮮人学生たちに志願を説得したのは43年11月8日だ。

敬泰は逆境から身を起こして大新聞の記者となった自分を勝ち誇り、公子にも勝ったつもりでいたが、実際にやっていることはデマカセの戦争扇動記事を書くことだった。志願した学生の大半は、朝鮮人に対する差別待遇を解消するためか、自身や家族への迫害を怖れて志願せざるを得なかったのだ。それを「一死皇恩に報いる」「殉国の決意」などと紋切り型の記事にしなければならなかった。敬泰は自分の仕事に虚しさを感じ始めていた。

■もう一人の主人公、白省五

一方白省五(ペクソンオ)は、朝鮮きっての大地主・中枢院参議白川世弼の嗣子として執事や女中にかしずかれていた。

白省五は、「国語常用」と言って日本語が強制される社会において朝鮮語を使い続けている。総督府の雇員である尹鐘介(ユンジョンゲ)との会話は同じ朝鮮人でありながら、朝鮮語と日本語のやりとりになった。

省五は日本留学時代に小さな会に加わっていたため検挙された経験がある。そのため特高がときおり訪ねてきていた。李元承元(リモトショウゲン)こと李承元(リスンウオン)だった。 

省五は李元に騙されて金日成に繋がる朝鮮独立運動に関わり逮捕される。李承元自身の出世のためのマッチポンプだった。拷問に耐え続ける白省五は、取り調べに来た李承元に対して、一人の朝鮮人として目ざめさせられたという意味で感謝している、と応えた。

白省五の加わった組織だが、金日成によってつくられ、抗日パルチザン部隊とともに朝鮮独立運動の車の両輪の働きをなした「祖国光復会」ということになっている。これは無論、歴史的リアリティからは隔絶している。

小説は西敬泰が白省五の面会に来るところで終わる。

■金達寿の軌跡

作家金達寿自身は、1920年1月17日に朝鮮の慶尚南道の没落農家に生まれ、出稼ぎに日本に行った父を早くに亡くした。10歳の11月ころ兄に連れられて日本に渡り、幼くして電球工場、乾電池工場、ガラス工場などで働いた。渡日の翌年小学校4年に編入したが、6年になったところで退学、以後は独学を重ね、17-8歳の頃には文学全集なども読んでいたし、張斗植(チャンドゥシク)ら朝鮮人文学仲間と同人誌も発行した。19歳で日本大学専門部に入学してさらに勉強し、文学活動にも参加した。 

1941年には、先輩作家金史良が属する『文藝首都』の同人となった。
『文藝首都』は、プロレタリア文学の台頭に競って純粋文学の発表の場としたいと1932年に創刊された『文学クオタリイ』の実質的後継だった。戦前は上田広や芝木好子、戦後は北杜夫やなだいなだ・佐藤愛子から中上健次に至るそうそうたる作家を輩出した名門文芸同人誌で、主宰したのは朝鮮で少年期を過ごした保高徳蔵だった。『文藝首都』には張赫宙、金史良、戦後は金泰生や金石範ら朝鮮人作家の作品も多く掲載された。

金達寿は1942年には神奈川新聞社に入社するが、翌年日本人恋人と破局して退社、朝鮮に帰り京城日報社校閲部に就職し、秋には社会部に異動した。このあたりは小説の西敬泰と似ている。ただし金達寿は朝鮮独立運動には関わらなかった。新聞社内で出陣志願しないかと言われて日本に逃げ帰っている。

戦後、金達寿は新日本文学会での活動と並行して『民主朝鮮』編集長として同誌の発行と執筆に邁進した。
『民主朝鮮』は在日本朝鮮人聯盟(朝連)の民族的文化活動の一環として刊行された。

金達寿の最初の単行本『後裔の街』は、『民主朝鮮』創刊号から連載されたものだ。日本育ちで「京城」にやって来た青年高昌倫(コチャンユン)の、祖国の人びととの感覚のずれや、朝鮮語もろくにできない半日本人としての自己確認は、『玄海灘』の西敬泰の原型であるだけでなく、その後の李良枝や柳美里にまで至る在日朝鮮人作家たちの抱えた煩悶の先駆け的像だった。

■『太白山脈』執筆時代の受難

『新日本文学』の連載を終えた「玄海灘」は、1954年1月に筑摩書房から単行本が発行された。

しかしその続編は10年後の1964年、『新日本文学』ではなく、日本共産党中央委員会を発行元とする『文化評論』9月号から連載が開始された。これが1945年8月15日のソウルから始まる『太白山脈』である。

『文化評論』は1961年12月創刊だ。60年安保闘争後の左翼運動の多様化のなかで、日本共産党は、反共産党、非共産党の新左翼系各派との対立が目立ち始め、また文学団体である新日本文学会とも対立していた。新日本文学会は、政党の政治路線に従属させようとする非文学的・政治主導的傾向と対峙したため、党員の多くが脱会していた。
『新日本文学』に代わる共産党系作家文化人たちの発表の場として『文化評論』は発行され、当然新日本文学会に対しては批判的であった。

金達寿は『玄海灘』以後『太白山脈』までの10年間に、大きな困難に遭遇する。岩波新書『朝鮮─民族・歴史・文化─』を1958年9月に発行した後、この本をめぐって在日本朝鮮人総聯合会(総連)による大いちゃもんキャンペーンが吹き荒れたのである。

金達寿『朝鮮』



総連は1955年5月に結成され、金達寿も参加している。総連は、日本共産党の影響の強かった在日朝鮮統一民主戦線(民戦)解散の後を受けて結成され「朝鮮民主主義人民共和国の海外公民組織」として結成された。総連は民戦が行った日本の軍事基地反対運動や民主化闘争などは内政干渉として止めている。
ちなみに北朝鮮への帰国事業は、岸信介内閣の1959年8月に北朝鮮帰還に関する日朝協定が調印され、その年の12月から始まっている。60年安保闘争の真っ最中である。

金達寿は1949年に日本共産党に入党したが、共産党内の対立で「国際派」と目されて1年たらずで除名されている。もっとも共産党はその後、国際派の宮本顕治が中心となっていた。
総連は、左翼在日朝鮮人組織の路線転換によって、朝鮮民主主義人民共和国の公民として日本共産党員として活動することは誤りであるとされた。

共和国政府が金日成を神格化した官僚国家化を進めたことと、総連の金達寿批判は無関係ではない。

岩波新書『朝鮮』はいろいろな意味で面白い本なのだが、今読み返してみると誰が読んでも金日成賛美に偏っていると感じるだろう。

しかし当時の総連は、「金日成に率いられた輝かしい朝鮮の革命的現代史として描かれていない」と読んだようだ。ことに朴憲永や林和など粛清された革命家や詩人の名がでてくることが気に入らなかった。その点も、ほぼ名前が出てくるだけで正当な評価がされているとは思えないのにも拘わらずにだ。これは難癖というものだ。

一方、金達寿の所属した新日本文学会は1950年に、島尾敏雄「ちっぽけなアバンチュール」、井上光晴「書かれざる一章」の掲載をめぐって、徳田球一、伊藤律らが指導する主流派から、党の権威を失墜させたと論難された。これに徳永直、栗栖継、江馬修、豊田正子、藤森成吉、島田政雄らが同調して50年11月に『人民文学』を発行する分裂が起きた。会は55年1月には『人民文学』グループとの統一を果たす。ここでも金達寿は翻弄され大いに困惑した。

金達寿は「太白山脈」の連載を始めると、そのちょうど1年後には新日本文学会を退会して日本民主主義文学同盟に参加した。

日本民主主義文学同盟は1965年8月に結成され、同盟の機関誌『民主文学』は、リアリズム研究会発行の『現実と文学』の後継誌とされたため、金達寿らリアリズム研究会に属する文学者の多くがこれに参加した。
金達寿は、日本民主主義文学同盟幹事に選出されるが、1968年6月には日本民主主義文学同盟からも脱退し、『太白山脈』の『文化評論』での連載も終わった。

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■『太白山脈』

『太白山脈』は『玄海灘』の続編で戦後篇というべき長編であり、登場人物も引き継いでいる。

西敬泰は作者とは違い、日本に戻らずに朝鮮に留まる。白省五に民族烈士調査所を任され、朝鮮近代史、植民地史の史料を収集していた。その中には朝鮮総督府の発行物や治安関係の資料、日本の朝鮮駐箚軍(ちゅうさつぐん)が編集した本などマル秘ものも含まれている。江華島条約以来の朝鮮史の研究は、西敬泰のものであると同時に金達寿自身のものであったはずで、相当に勉強したに違いない。

西敬泰は慶州旅行で知り合った父娘と親しくなるが、朝鮮の古代からの歴史にたいする関心は、その後の金達寿の活動に繋がっていく。

ところが金達寿の近現代史の研究が成果として実らなかったのは、彼自身が支持する総連組織との葛藤が大きかった。事実を積み重ねて歴史を叙述しようとすれば金日成英雄視だけが目的の似非歴史からは離れていく。

もう一人の主人公だった白省五は『太白山脈』ではそれほど大きく活躍はしない。地方の農村に滞在してお坊ちゃまな精神性を拭っていく過程だけが描かれる。

むしろ軍人指向の青年金相寧(キムサンニョン)が、李承晩大統領に近づいていく思想的変遷の描写が面白い。金相寧は英雄待望しており、さらに続編が書かれれば自らが英雄としてのし上がろうとしていくと思われる。英雄待望論の象徴だ。

そしてもう一人主人公級の登場人物として、李承元(リスンウォン)が『玄海灘』から引き続き活躍する。李承元は日本統治時代の特高刑事として白省五たち独立運動グループを罠に嵌めた人間だが、解放後は「朝鮮独立万歳」を叫ぶデモ隊の勢いに戦々恐々としていた。監獄からは李承元がそこに送った独立運動家たちが続々と出てきて民衆の歓迎を受けていた。また金日成がソウルに来るという噂も広がっていた。

報復を恐れて地方に身を隠していた李承元を助け、身分を保障し仕事を与えたのはアメリカの機関だった。李承元は共産主義から祖国を守るという大義を得て〈日本支配時代にはなかった民族的「正義」を発見した〉。

李承元の仕事は日本帝国主義の特高時代に得意だった謀略だ。労働組合員を籠絡して偽の事件をでっちあげ、共産党や労働組合潰しに大義名分を持たせるために働いたのだ。

■『太白山脈』の時代背景

日本の敗北によって植民地支配から撤退を余儀なくされた日本の朝鮮総督府は、呂運亨に治安維持の協力を依頼した。呂運亨は民族主義者から共産主義者まで含む建国準備委員会を組織した。

総督府側は行政権力の委譲をこばんだが、建国準備委員会は1945年9月6日に朝鮮人民共和国樹立を宣言した。

しかし南部朝鮮占領軍司令官ホッジは、南朝鮮にアメリカ軍政を敷き、人民共和国側と対立した。人民共和国勢力は大デモストレーションで街を埋めてアメリカ軍政庁と対峙したが、その一方で米軍に協力する勢力として韓国民主党が土着資本と地主らによって結成され、白省五の父も加わっていた。

1945年12月28日モスクワ三国(米英ソ)外相会議の決定が発表され、朝鮮のアメリカ・ソ連・イギリス・中国4カ国による最長5年間の信託統治が明らかにされた。

白省五、西敬泰や、彼らと親しい共産党員たちは戸惑った。民族独立を阻害する信託統治に共産党が支持を表明したからだ(注1)。しかも信託統治案はアメリカによって10年として提案されたものであったにも拘わらず、アメリカは信託統治に反対する右翼に肩入れして民主党を助けた。アメリカ軍政庁は以前からの対日協力者たち「民族反逆者」を中心とする右翼勢力を使って韓国民主党を支えた。共産党と呂運亨の人民党は右翼テロの襲撃に遭っていた。

左翼勢力は朝鮮人民共和国確立の方針を押しすすめ、南部七道各市郡に人民委員会を結成して改革を実行、2月には民主主義民族戦線が結成され左翼勢力は大同団結した。

小説では、金達寿がこの時点では金日成を強く支持し信奉していたため、朴憲永ら南朝鮮に於ける共産党指導者の名はほとんど出てこないが、46年9月のゼネストや、大邱を中心に農民を加えた十月人民抗争の指導者として朴憲永はアメリカ軍政当局に追われ越北して逃れる。

小説は、この十月人民抗争で白省五が逮捕され、その妻、劉連淑(ユリョンスク)が大邱に向かう列車を、西敬泰と婚約者の金分女が見送る場面で終わるが、その続編は書かれなかった。


■古代史へ

『金達寿小説全集』の月報2(1980年5月)で金石範が、この小説について金達寿のライフワークになる作品で『玄海灘』と書かれるべき続編の中間に位置すると書いている。『太白山脈』の続編が書かれないのは金達寿が南朝鮮に行って来られないからだ、と言う。しかし金達寿は1981年3月全斗煥政権下の韓国を訪問したが、続編はついに書かれなかった。

1968年「太白山脈」の連載を完結すると、翌69年、『日本の中の朝鮮文化』編集長として創刊に関与する。『日本の中の朝鮮文化』は金達寿が鄭貴文・鄭詔文兄弟とともに創刊し、歴史学者上田正昭や作家司馬遼太郎も参加している。

また70年には『思想の科学』に「朝鮮遺跡の旅」の連載を始めるなど、日朝古代史に本格的に取り組むが、小説の執筆は激減する。

金達寿は総連を脱会してから社会運動系の集まりには参加していなかったが、1975年に『季刊三千里』発行に携わった。
『季刊三千里』の発行は、「創刊のことば」や編集後記にも見られるように、1972年の「七・四南北共同声明」にのっとった朝鮮統一を目指して〈在日同胞の文学者や研究者たちとの輪をひろげ……日本の多くの文学者や研究者とのきずなをつよめていきたい〉とした。
七・四南北共同声明は、外部勢力に依存したり干渉を受けない自主統一。武力行使に依拠しない平和統一。思想制度の差を越えた民族大団結を理念としたものだった。

『季刊三千里』の創刊は1975年1月、特集は「金芝河」だった。金芝河(キムジハ)は詩「五賊」などで朴正熙軍事独裁政権体制を風刺して逮捕され死刑が求刑されていた。冒頭に鶴見俊輔と金達寿の対談が組まれている。
金達寿はここにも「日本の朝鮮文化遺跡」という連載を始めた。金達寿の関心が小説から古代史へと旋回したのだ。

『季刊三千里』は紆余曲折を経て1987年夏第50号で終刊したが、1989年に『季刊青丘』が創刊されると、金達寿は編集委員となる。その『季刊青丘』も1996年第25号で終刊する。

■金達寿「訪韓」事件

この間の金達寿にとって最も大きな事件は1981年3月の訪韓だ。
1979年10月26日に朴正熙が射殺され、韓国は民主化が進むかと思われたが、翌80年5月光州民主化運動に対する軍の介入で頭角を現した全斗煥保安司令官が、9月に大統領に就任して軍事独裁政権を継続した。その翌年に金達寿は姜在彦、李進熙、徐彩源と共に政治犯釈放請願という名目で韓国を訪問した。この時の訪問記は『故国まで』(河出書房新社、1982年4月)に書かれている。『季刊三千里』創刊号の金達寿と鶴見俊輔の対談においては、鶴見俊輔と真継伸彦が訪韓したさいの緊張感が伝わってきたが、それとは明らかに違うものを感じざるを得ない。

訪韓後の小説出版としては『季刊三千里』に連載したものに加筆した『行基の時代』(朝日新聞社 1982年三月)くらいだ。

1997年5月24日、77歳、肝不全で死去した。『玄海灘』『太白山脈』の続編は書かれぬままだった。(了)

*ルビの振り方は原文に倣った

*(本文の著作権は、著者にあります。ブログ等への転載はご遠慮くださいませ。その他のことは、けいこう舎https://www.keikousyaweb.com/までお願いいたします)
 
◆参考資料
 1.金達寿『わがアリランの歌』中公新書 1977年2月
 2.金達寿『わが文学と生活』青丘文化社 1988年5月
 3.辛基秀編著『金達寿ルネッサンス』解放出版 2002年2月
 4.廣瀬陽一『金達寿とその時代 文学・古代史・国家』クレイン 2016年5月
 5.廣瀬陽一『日本のなかの朝鮮 金達寿伝』クレイン 2019年11月
 6.朴慶植『解放後在日朝鮮人運動史』三一書房 1989年3月
 7.復刻『民主朝鮮』前編『民主朝鮮』本誌別巻 1993年5月
 8.田所泉『「新日本文学」の運動 歴史と現在』新日本文学会出版部 1978年10月
 9.鎌田慧編集代表『「新日本文学」の60年』七つ森書館 2005年11月 

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(注1)信託統治について簡単な説明
まず、歴史的事実と小説でどこまで書かれているか、区別しなければなりせん。
モスクワ三相会議で信託統治案そのものを提案したのはアメリカです。左翼的な雰囲気の強い朝鮮において、信託統治を経て親米的な国家として独立させようと意図したのだと思われます。
ソ連は、ソ連に友好的な状況のうちに、できるだけすみやかな独立をめざし、妥協案として最大5年の信託統治案を出しました。結果、朝鮮が独立するまでアメリカ・ソ連・イギリスに中国を加えた4か国による最長5年間の信託統治が決められました。
朝鮮共産党は、信託統治そのものに賛成したわけではなく、このモスクワ三国外相会議の決定に従うことを支持したのですが、「モスクワ三ヶ国外相会談で、アメリカは即時独立を主張したが、ソ連が信託統治を主張した」などと報じられるなど、多くのでデマが流布されます。作家も小説の登場人物たちも踊らされます。
実際に、信託統治を容認する左派と反対する右派が対立し、結果として南北分裂の一因となりました。

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林浩治(はやしこうじ)

1956年埼玉県生まれ。元新日本文学会会員。
長年にわたり、埼玉文学学校で自主講座の運営等にあたる。
最新の著書『在日朝鮮人文学 反定立の文学を越えて』(新幹社、2019年11月刊)が、図書新聞などメディアでとりあげられ好評を博す。
ほかに『在日朝鮮人日本語文学論』(1991年、新幹社)、『戦後非日文学論』(1997年、同)、『まにまに』(2001年、新日本文学会出版部)
そのほか、論文多数。尊敬する作家は金石範。
2011年より続けている「愚銀のブログ」http://kghayashi.cocolog-nifty.com/blog/は宝の蔵!
(編集部記)


◆〔金達寿について、林浩治さんのほかの著述〕
●『戦後非日文学論』新幹社、1997年に所収
・「対峙する南北朝鮮──一九五〇年代前半の在日朝鮮人文学」
 (書き下ろし)
・「『日本の冬』の時代──金達寿文学の展開と新世紀」
 (書き下ろし)
・「革命的民衆象は描けたか──金達寿『朴達の裁判』再読」
 (初出)『新日本文学』新日本文学会、1996年1月
・「「金ボタンの朴」と戦後在日朝鮮人文学の終焉」
 (初出)『ウリ文学』在日同胞の生活を考える会〔仮称〕、1995年8月
●辛基秀編『金達寿ルネサンス』解放出版社、2002年に所収
・「金達寿文学の時代と作品」

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