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かたすみの女性史【第2話】壺井栄をナメるなよ !(その10)

壺井栄をナメるなよ !(その10) 栗林佐知


(その9)からつづき


■ 発展してゆく壺井栄文学のテーマ


  ここで、一つ、訂正しなくてはならない。
 
 (その7)で、“深く考えるには、壺井栄はあまりに忙しすぎた”などと偉そうなことを書いたが、これはまったく、的を射ていないと、改めて思った(書く前に思え!!)。
 
 
 栄がその後も結婚制度に疑いを持たずにいつづけた、とか、
「ミネ」の「失敗」を深化させなかった、
なんてことは、ぜんぜんないのである。
 
 そもそも、若き日の栄が「女はちゃんと妻の座につかなくては」と考えたのは、生活者としての「たくましさ」ゆえだ。
 栄は、結婚制度を女性差別の根源と考えていたわけでこそないが、結婚制度をすばらしいモノだと考えていた、とかではないし、「自分の戸籍はきれいにしておきたい」と言ったというのも、娘時代のある時期の考えだ。
 
 「岸うつ波」は理屈が先立ってしまい残念な完成になったが、その後の1963年、栄は、「柚原小はな」という波瀾万丈の女性の一代記を書いている。主人公は、結婚制度に排除されながらも、命あふれるままにガッツで生きる女だ。
 おそらく栄と同年代の小はなは、貧しい境涯に生まれ、少女の頃から旧家に年季奉公し、17歳の時にその家の一人息子と恋愛して子供を生む。相手の母親「波津」に子を奪われたものの、自活して金を貯め、分かれた男と再会、家庭を持つ。
 だが「波津」から結婚をみとめられないまま、夫は死んでしまう。
 この夫の死後の小はなの人生が、これまでの壺井栄文学とはちがっている。
 活力あふれる「小はな」は、夫の墓参にいった先で20歳の僧とちぎって、その後、「愛欲の道」をつらぬくのだ。
 といって、よくある「純文学」のような、欲情に溺れる女性を、ぬらぬらしたラブシーンを多用して描く、とかではないし、小はなは「愛欲」のために破滅することもなく、「波津」ばかりかふたりの我が子にも裏切られて戸籍を追い出されながらも、そんな旧弊なかび臭い悪意などまるでものともせず、若い恋人をずっと養い、その子を産み、偶然発見した生け花の才能で自活して生きてゆく。
 
「戸籍をきれいにしておきたい」という考えを実行するのは「波津」で、ここの人は主人公に意地悪の限りをつくす、悪役になっている。
 
 「十七、八が二度候かよ
 枯れ木に花が咲き候かよ」
 「危ないからおやめ」と大人たちに言われるのを振り切って、若者が道を選ぶ時の言葉として、栄の作品(『母のない子と子のない母と』)で紹介される文句だ。
 心のままに、男も女も伸びやかに命を輝かして生きるのがいい。制度とか決まりとか「あれはダメこれは危ない」という不安なんか吹っ飛ばしてしまえ!
 この思いは、栄の若い時から最後まで変わらなかった本質だと思う。

1964(昭和39)年3月、新潮社から刊行。
前年1月16日~8月21日まで「週刊女性」に連載。
全32回(鷺只雄『評伝 壺井栄』翰林書房、p405-406)
  


  それで、柚原小はなのようなエネルギッシュな女性を褒め称えて終わるかというとそうではないのが、またすごい。 
 
「柚原小はな」の続編「母と娘と」は、奔放にふるまった母のとばっちりを受ける「雪子」(小はなの娘)が主人公になる。彼女は、祖母「波津」によって旧家に押し込められ、歪んだ性意識を育ててしまうのだ。

 壺井栄を「善意とヒューマニズムしか書けない」、「自分は悪に魅力を感じるので壺井栄は甘ったるくて読めない」などという評言は多いのだが、いかがなものだろう。
 おそらくイメージが先行しすぎているのでは。

「柚原小はな」は、やや通俗的な展開で、ものすごい名作とは言えないかもしれないが、栄はずっと創作を通して「妻の座」から発した問いかけに答えを返していたのだ。

(その11)へつづく→


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