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野口良平「幕末人物列伝 攘夷と開国」 第二話 高山彦九郎(10)

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  寛政3年(1791)3月、友人の志水南涯から、親戚の者が琵琶湖で緑の毛で覆われた珍しい亀(みの)を捕らえたと知らされた彦九郎は、すぐに見に行き、霊感をうける。
それは、長寿を象徴する縁起のよさと神々しさとを兼ね備えてみえたのだ。

同じ日、医師山科泰安の座敷に呼ばれた際に、天皇に「高山彦九郎という者を知れるや」と下問されたとの話をきき、感激する。
彦九郎のなかでこの二つの出来事が結びついた。

 さらに、清の康煕こうきてい勅撰の事典『淵鑑類函』の「亀」の部に、「亀の毛の有るは文治の兆である」という記述があるのを知って驚愕した彦九郎は、緑毛亀の出現こそは文治政治の到来の予告であると、各方面に説きはじめた。
緑毛亀は、彦九郎にとっての聖像イコンと化していた(自分自身の似姿でもあったかもしれない)。

蓑亀(みのがめ)。潜龍堂画譜より**
日本の陶磁器:ボウズ(Bowes, James Lord, 1834-1899)収集品の標本から(年代:1890)
国際日本文化研究センター 日文研データ 
https://sekiei.nichibun.ac.jp/GAI/ja/detail/?gid=GL026570&hid=5669  


岩倉らの尽力のもと宮中に働きかけた彦九郎が、天皇の関心をひき、亀を天覧に供する機会を実現したとき、その感激は頂点に達した。
だが、彦九郎がこの感激を尊号問題という目下の政治問題一つに直結させたことには、危険がはらまれていた。

 彦九郎は、尊号問題の成功には西南の雄藩薩摩藩の後ろ盾を得るのが不可欠と判断し、そのためには一介の自由人である自分が動くのが最善の方法だと考えた。

5月、薩摩藩主島津斉宣に随行して入京した友人の儒学者赤崎ていかん(1739-1802)に面会。
その後赤崎は彦九郎の存在を斉宣に認知させることに成功し、二人は薩摩での再会を約した。

 7月、おそらくは朝廷への政権奉還を期しての薩摩工作を最大目的とし、彦九郎は覚悟を定めて一人九州に旅立った。緑毛亀の版画に岩倉卿の和歌を添えた摺物500枚を彦九郎が携えていたことは、フランス革命で活躍したパンフレッティア(簡単な印刷物による啓蒙宣伝家)の活動を思わせる。

高山彦九郎の足どり
(『高山彦九郎の実像 維新を呼んだ旅の思想家』(あさを社、1993年)
掲載の地図からの知見をもとに作成)

 九州までの彦九郎の足跡は、その間の日記が残存せず判然としない。
寛政4年(1792)2月に熊本に現われて以降、各地の人士と接触しつつもすぐに鹿児島に向かわず、ジグザグコースの行路をたどったのは、幕府の追手を避けたためだと考えられる。

 難路の果ての2か月に及ぶ鹿児島滞在は、若い藩主斉宣に近い赤崎ら同志の尽力にもかかわらず、幕威を怖れる藩主流(前藩主重豪しげひでにつらなる保守派)の抵抗が強く、結局挫折した。
当局の圧迫にさらされながらも 九州各地を転々として同志を求めた彦九郎は、寛政4年(1793)年5月29日、参勤交代で帰国途中の赤崎に、筑後の松崎宿で再会。
そこで尊号問題朝廷側の完全な敗北に終わったこと、薩摩への入国に際し自分に献身的に協力した郷士がその罪を問われ、命を落としたことを知らされたようである。

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