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林浩治「在日朝鮮人作家列伝」06 高史明(コ・サミョン) (その6)

*↑日本に来た米軍のマッカーサー陸軍大将たち
(詳細はページ末)

(その5)からのつづき
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高史明──
暴力と愛、そして文学
―パンチョッパリとして生きた (その6)


6)共産党に入党する


 1950年3月、在日朝鮮人連盟解散命令に伴って接収の対象になった台東会館での抗議運動に巻き込まれて、警官を殴って警棒の乱打を浴び意識を失い検束用のトラックに投げ入れられた。

 初夏、拘置所から出た翌日、天三が職安に行くと共産党の活動家である女性に声をかけられた。女性は「きんてんさんさんの不当逮捕に抗議しよう」と書かれたカンパ袋を抱いていた。深い孤独の暗がりで金天三は灯りを見つけた思いだった。
 その夜、金天三は共産党の事務所で暖かい出所祝いをして貰い、2日後には入党した。

1950年当時の日本共産党本部
著作者:不明  スキャン・編集:あばさー 
撮影: 1950年6月1日
ソース: 朝日新聞社「アルバム戦後25年」より。
パブリック・ドメイン
アップロード: 2012年2月4日 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9Aより

 この年6月6日GHQ共産党の解散と公職追放を命じた。日本共産党は非合法の状態に置かれた。
 一方コミンフォルム(1943年に解散したコミンテルンの後身。1947年ソ連を中心として東欧諸国やフランス、イタリアなどの共産党を結集した。)は、戦後日本における野坂参三の「占領下日本の平和革命理論」を批判した。日本共産党はコミンフォルムの批判を所感として受け止めようとする徳田球一らの主流派(民族派・所感派)と、批判を無条件で受け入れようとする国際派に分裂した。
ところが、国際派ではなく、コミンフォルムの批判に異議を唱えていた所感派が国際派を排除した上で、コミンフォルムの批判に忠実たろうとして暴力革命路線を目指したのだった。

 朝鮮戦争はこの年の6月25日に勃発していた。共産党員になった金天三は、この恐ろしい戦争に激しく揺り動かされた。

朝鮮戦争(米軍の仁川上陸)**
朝鮮戦争(幼い避難者)***
**、***ともに
撮影:1950年6月25日 - 1953年7月27日
著作者:米国連邦政府
パブリックドメイン https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E6%88%A6%E4%BA%89 より


朝鮮戦争の勃発とともに日本でもレッドパージが激しくなり、50年7月には警察予備隊の新設と海上保安隊の拡充がGHQによって求められた。


(その7)へつづく

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◆参考文献

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*本文の著作権は、著者(林浩治さん)に、版権はけいこう舎にあります。
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ヘッダー写真:バターン号で厚木海軍飛行場に到着した米軍のマッカーサー陸軍大将と他の陸軍上級将校(第11空挺師団司令官ジョセフ・M・スウィング少将(左)、リチャード・K・サザーランド中将(右から3人目)。ロバート・L・アイケルバーガー将軍(右)。背景の航空機はダグラス C-54。)
ソース:米国国立公文書館所蔵の陸軍通信隊コレクションの写真。
パブリック・ドメイン
撮影日:1945年8月30日
アップロード: 2009年11月17日
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%A3%E5%90%88%E5%9B%BD%E8%BB%8D%E6%9C%80%E9%AB%98%E5%8F%B8%E4%BB%A4%E5%AE%98%E7%B7%8F%E5%8F%B8%E4%BB%A4%E9%83%A8 より


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