林浩治「在日朝鮮人作家列伝」07 李恢成(りかいせい/イ・フェソン)(その4)
↑ *オート三輪(写真のクレジットは文末に)
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李 恢成──日本文学に斬り込んだ在日朝鮮人作家のスター(その4)
4.大学生時代
李恢成は兄を頼って上京したものの、自分で生活費を稼ぐしかなく、土方などの仕事をしながらの苦学だった。
1956年、早稲田大学第一文学部露文科に合格したが、相変わらず職安に通ってトラックの上乗りなどの日雇い労働で生計を立てるのに必死だった。
大学の同級に宮原昭夫、森内俊雄がいた。
在日朝鮮人総連合傘下の在日朝鮮人留学生同盟(留学同)に加盟し、朝鮮民主主義人民共和国政府から支給される奨学金を受け取るようになると、そちらの運動に忙しくなり、学業に身が入らなかった。
1959年12月、朝鮮民主主義人民共和国への帰国第一陣が出発した。李恢成は留学同の方針に従って帰国運動に熱心だった。
この頃『伽倻子のために』のモデルとなった女性と短いあいだ同棲し、結局別れた。
翌年、日本共産党の党員で在日朝鮮人民主主義民族戦線の一員だった従兄が北朝鮮に「帰国」した。
1960年、李恢成は留学同活動のために卒業を延期して留年し、留学同中央副委員長と関東地方本部委員長を兼任した。そのため奨学金も増額された。
翌年李恢成はやっと卒業した。卒業論文はドストエフスキーの『地下生活者の手記』だった。主査の米川正夫に日本語を正しく使うように指導される。
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*ヘッダー写真
「マツダ・T1500」、撮影・投稿:Tennen-Gas 、作成:2007年7月26日、wikipedia「オート三輪」)CC 表示-継承 3.0、
トリミング(上下を少しカット)しています)
※本文の著作権は、著者(林浩治さん)に、版権はけいこう舎にあります。
◆参考文献
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