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かたすみの女性史【第2話】壺井栄をナメるなよ !(その5)

壺井栄をナメるなよ !(その5) 栗林佐知

(その4)からつづき


■「妻の座」への評価

 それにしても、このモデルになった出来事は、いろんな点で「変ちくりん」である。

 「妻の座」については、のちに(後述)、さまざまな論評が登場したが、その多くは、モデルとなった人々の行動への批判のようだ。

 そして、当時の男性評論家でさえ(いや、1970年代以降の男性より、1950年代の男性のほうが進歩的だったのかもしれないが)、おおむね、“「野村」の結婚観はおかしい、家事が大変なら家政婦を雇うべきだ”と言っている。(中島健蔵・平野謙・安部公房「創作合評」『群像』1956年10月、など)
 彼らはまた、「ミネ」もまた、妹を「野村」に薦めようという動きが強引すぎると、彼らは批判している。

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 女性読者は、「妻の座」の作品の力を認める者も認めない者も、「野村」の身勝手さに屈辱を覚えているようだ。
 だが同時に、妹をとにかく結婚させよう、「妻の座」なんてものにすわらせようという栄の、思想の古さをも指摘している(永見恵「『草いきれ』と『妻の座』について」『多喜二と百合子』6号、1957年1月など)。
 

 まったくその通りだ。
 夫婦のあり方に口まで出そうとする「ミネ」のお節介はさすがにあんまりだ。
 それに、相談を受けた「貞子」だって「あのヒト面食いだからやめといた方がいいわよ。あんなヒトに、大事な妹やっちゃだめよ」とミネを止めてくれたら良かったんじゃないかと思ってしまう。

 もっと変なのは、「野村」の4人の子どもは、もう大きいのだ。
 一番上が19歳で末が12歳。お父さんと5人で交替で炊事するとかできないのか。
 いや、炊飯器も洗濯機もなかった時代だから、ハウスキーパーはやっぱり一人いないとダメだったのだろう。しかし、「子供たちにせがまれるので再婚したい」というようなことを「野村」はいっているが、「せがむ」って何を? 家政婦?。

 いや、そんなこと言ってはいけない。言っちゃったけど。当事者の事情すべてを知ってるわけじゃないのだから、とやかく言うのは失礼だ。
 それにそうだ。モデルになった実在の人物を批判しても意味はない。そんなことはおいておこう。

 発表から50年ほどたった1990年代後半になって、「妻の座」をレビューした文章に、こんな指摘がある。

 “「閑子」のような女が今日あるかといえば、いないだろうが、「野村」のような男はどうだろう” と。
 こういう女性観のおじさんは、まだたくさんいそうだ、ということだ。(香内信子「『妻の座』」『国文学 解釈と鑑賞』特集・壺井栄・北畠八穂の世界、1997年10月)

 本当だ。この論評からも25年たち、「妻の座」事件から75年も経っているのに、げんなりするほど、この点、日本社会はかわらない。OECDや世界経済フォーラムなどの様々な国際比較調査でも、日本の男女平等指数は毎年、「先進国」の中で最下位を争い続けているという有様だ。*3)
 実のところ、私たちはいまだに、「妻の座」の時代に洗濯機と炊飯器をつけ加えただけの世界にいるのではないか。
 
 その意味で「妻の座」の問題提起は、「現役」だ。あきれたことに。
 だが。少し別の意味で、私は「妻の座」のこんにち的な意義を思うのだ。

(その6)へつづく→

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