林浩治「在日朝鮮人作家列伝」07 李恢成(りかいせい/イ・フェソン)(その2)
↑ 真岡に進駐するソ連軍(1945年8月20日、撮影者不明、Wikipedia 「ソ連対日参戦」、パブリックドメイン)
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李 恢成──日本文学に斬り込んだ在日朝鮮人作家のスター(その2)
2.日本敗戦
1945年8月15日、李恢成は10歳で国民学校5年生だった。「解放」という言葉に戸惑った。
8月20日早朝、ソ連軍が真岡侵攻、初夏から疎開が始まっており、2万人の人口が半分減っていた。
李恢成の家族は全員で防空壕に避難、停戦合意が成立する22日に這い出してきた。
父からソ連兵がきたらロシア語で朝鮮人を意味する「カレイ」と言えと耳打ちされる。李恢成少年はロシア兵に銃を向けられると、「カレイ! カレイ!」と叫んだ。
ロシア兵は「カレイスキー! ハラショ」と応えて笑顔を見せた。これが李恢成少年にとっての「解放」だった。神州不滅を信じ天皇陛下に忠誠を誓った少国民は一瞬にして消えた。
12月1日、民族学校が始まった。「サハリン朝鮮人居留民学校」だ。李恢成もこの朝鮮学校に通うことになった。
解放後1年ほどの間には、シベリアから日本軍とともに樺太に来た朝鮮人、北朝鮮から派遣された朝鮮人労働者などもいた。またソ連本土から来たソ連国籍を持つ朝鮮人が同胞社会の中心になりつつあった。
先住朝鮮人、ことに協和会の幹部だった李恢成の父などは肩身が狭い思いをしていた。
1946年春、父が再婚した。年若く長兄とさほど年齢が離れていなかった。継母は眼の悪い義姉豊子を連れてきた。
この年、「ソ連地区引き揚げ米ソ協定」により12月より集団引き揚げが始まったが、朝鮮人は含まれなかった。
李恢成一家は民政局のユダヤ系ソ連人のおかげで臨時身分証明書を手に入れ1947年5月、日本赤十字社引揚船「白龍丸」で日本人引揚者に紛れてサハリンから脱出した。
このとき、サハリンに祖父母と義母の連れ子であった姉豊子を残留させたことが、その後の作品内でもトラウマとして残った。
そのときの様子を李恢成は『またふたたびの道』に次のように描いた。
引揚者の隊伍は春雨に冷たく濡れそぼちながら、蜿々と収容所の坂道を下っていった。(中略)
祖父は赤の広場の一角に据えられてある巨大なスターリンの像と演壇のわきに、ひっそりと枯木のように立ちすくしていた。長身瘦軀の祖父は雨光りのする蝙蝠傘を片手にさし、ハンカチで目頭を拭っていた。
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