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寺田和代「本と歩く アラ還ヨーロッパひとり旅」 第3回 ブルガリア篇(2)
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ブルガリア篇(2)リラの僧院へ
ヨーグルトとバラの朝。ぎゅうぎゅうバスでリラ僧院へ
天窓から射す朝日で目が覚めた。安心して眠れたせいか、老体のすみずみまで力が補填されている。
住み慣れた家のように足取り軽く階段を駆け下り、カリナが飾ってくれた赤いバラを見ながら、昨日買ったヨーグルトにグラノーラを混ぜて食べた。なんておいしいの。さすがヨーグルトのお国。日本でなじんだ“まろやか仕上げ”感がなく、濃厚な中にストレートな酸味を感じる。さわやかなのに深い滋味が口内と気持ちに沁みるよう。
どんな国でも長い歴史を経た伝統の味は100%ハズレがない。
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9時頃アパートを出て、この旅の最大目的地のひとつ、リラの僧院へ。
迷わず行けるようになった最寄り駅ヨーロピアンユニオンから地下鉄でセルディカ駅に行き、地上に出て遺跡脇の電停からトラムに乗り換え、アフトガーラオフチャ・クペルという名の郊外の停留所まで約40分。そこからリラ僧院行きのバスに乗り換える。
停留所併設の売店でいつものようにまずトイレを借り(0.5レフ=31円)、水500ccボトル(1レフ=約62円)と往復バス乗車券(11レヴァ=約680円)を買う。
ブルガリア正教総本山、リラ僧院は10世紀にイヴァン・リルスキーという名の修道僧がたった一人でリラ山脈の奥深くで隠遁生活を始めたのが始まりだ。
以来、中世ブルガリアの宗教、学問、文化の中心であり、今日まで1000年以上ブルガリア民族の聖地になってきた。
1983年には世界遺産登録もされたというのに、バスの案内板や時刻表はブルガリア語表記のみのそっけなさ。もちろん一文字もわからないけど、幸い旅行者らしき人々が集まっているバスを発見。
きっとこの車だと確信しつつ、心配性の私は念には念を入れ、乗客ではなくドライバーに直接「リラ僧院行き?」と訊くと、なぜか機嫌の悪さを全身に漂わせた彼が硬い表情のまま黙って頷く。
ガイドブックに、リラ僧院行きとリラ村行きは違うので要確認、と記されていたから、間違っちゃいけないとなおも「リラ村行きじゃなくて?」と畳み掛けると、ものすごくイライラした形相のまま、とっとと乗りやがれ、みたいに首を振る。
ところどころにイヤな人はいるものだ。もしかしたらアジア人差別の一環だったのかも。深掘りしても仕方ないので、はいはい、と乗り込むとすでに9割方の座席が埋まっている。
いちばん前に見つけた空席に座ろうとすると、ドライバーがギッと振り返り、無言のままそこはだめだという態度。いちばん後ろの真ん中席がかろうじて空いていて救われた。ひゃー。
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深山に忽然と現れるブルガリアの聖地、リラの僧院
バスはソフィアから南下すること約2時間半。
両側から鬱蒼とした森が迫る、車のすれ違いさえ難しそうな山道を延々走った先に突然視界が開け、巨大な要塞のようなものが現れた。それがリラの僧院だった。
こんな山奥でたったひとり修行を始めた創始者はよほどの変人か世捨て人だったにちがいない。まるで訪問者を拒むような高い壁の内部の敷地は約8800㎡、4階建ての壮麗な宿坊の真ん中にドームを頂くシマシマ模様の聖堂。ドーム型の屋根と内部のモザイク壁画を特徴とするビザンチン様式を代表する建物だ。
創始者亡き後は、彼を慕う僧が次々と集まって僧院が造られ、第二次ブルガリア帝国とよばれた14世紀には貴族から土地の寄進を得て、巨大な要塞のような現在の姿に。
オスマントルコ占領下の約500年間、この地を支配したトルコ人は豊かな修道院を潰すよりそこから税収を得る道を選び、修道院は納税を条件に自由な活動や自治権を持つことが許された。
だから国内の多くの教会がイスラム教のモスクに改修させられた時代も、正教会の伝統や民族のアイデンティティの“よすが”となり、ブルガリア語のキリル文字を守る文化の砦になってきたのだそう。
とはいえ、その後も建物は大地震や火災のため立て直しが繰り返され、とりわけ1833年の大火では教会、貴重な古文書を納めた蔵、宿坊のほとんどを消失。いま見られる多くの建物は180年ほど前に修復されたものという。
だからだ。中央にある聖母誕生教会の回廊を埋め尽くした見事なフレスコ画がなんとなく新しく感じられるのは。
なにが描かれているのかと真下に立って仰ぎ見るものの、あまりの緻密さと色の洪水にクラクラし、その場にしゃがみ込みそうになる。描かれているのは、再建された19世紀半ばを代表する画家たちによるキリストやマリアの生涯、聖書の物語らしい。
モザイク画を見る目眩のような感覚からいったん逃れようと、うす暗い教会内部(撮影不可)へ。一歩入るや全身を蝋燭と乳香とほこりが入り混じった独特の匂いと空気の密度に包まれた。外(回廊)とはまるで別世界だ。
が、目が慣れるにつれて、ここもまた壁画でびっしり埋め尽くされていることがわかった。
まるで耳なし芳一の拡大版みたい。内部に描かれた人物だけで1200人。その緻密さ、完璧さへの執念……。
信仰がなせる技とは“一線を超えた”所業、人の凡庸さを軽々と凌駕するのだと思わずにいられない。
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聖なる磁気の強さに頭が朦朧とし、敷地内をふらふら歩いていると、さまざまな年齢とおぼしき修行僧たちと何度もすれ違った。みな黒い長いローブにトルコふうの帽子、長いひげ、結わえた髪。
即座にジャン=ジャック・アノー監督映画『薔薇の名前』で観た僧たちの姿が重なってしまう。
最盛期には数百人の僧がこの場所で農業や牧畜業を営み、パンやチーズを製造し、蜂蜜やワインに至るまで自給自足だったというけれど、現在は何人の僧が共同生活をし、どこまで自給自足の暮らしなのかはわからなかった。帰国後に調べても確かな資料はまだ見つけられない。
談笑する僧たちのグループと至近距離ですれ違うたびに、そういうことについて直接尋ねてみたかったけれど、彼らのたたずまいに威厳と畏れを感じ声をかけられなかった。
いま思えばできなくてよかった。いち外国人旅行客が旅先の高揚感にまかせ、調子にのってなれなれしく話しかけられるような存在ではないのだ。
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