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かたすみの女性史【第2話】壺井栄をナメるなよ !(その3)

壺井栄をナメるなよ !(その3)栗林佐知

(その2)からつづき

■壺井栄の生涯(下)

 引っ越し続きの貧乏生活の中、栄はツケで米を買い、繁治の仲間たちにごはんを炊いてもてなし、さらには、妹二人を小豆島から上京させて学校に通わせ(学費は四姉が負担)、赤ん坊の姪を引き取り、まわりの者たちへの世話を惜しまなかった。

壺井栄昭和10年頃

昭和10年頃の栄

 昭和2年終わり、繁治は、アナキストからコミュニストに転身。「裏切ったな」とばかりにアナキストにボコボコにされたり、共産党員として活躍を始めると、軍国主義化する時代の中で、昭和3年ころから、何度も警察に捕まって投獄される。栄は仲間の女性たちと共に、有能で機転の利く支え手として活躍する。
 また、そのかん、昭和4年には、中野重治らから頼まれて、プロレタリア文学の文芸誌「戦旗」の発行を夫婦で担当。同誌をヒット(昭和5年8月号は発行部数、2万6千部)させる。すごい;;

 1933(昭和8)年、繁治が獄中にあるあいだに、小林多喜二が築地署にて拷問を受け殺される。

小林多喜二昭和8年2月21日 (2)


 以後、共産主義者たちの運動は沈黙を余儀なくされ、繁治も「転向」して出所し、友人のつてで会社員となった(よくそんなことができたなあと、この時代と、壺井夫妻の友達の輪の濃さに、ちょっとびっくり、ちょっと羨ましい溜息が出る)。
 1937(昭和12)年、38歳の時、栄は、盟友佐多稲子のすすめと、宮本百合子の尽力で、末妹とその子たちをモデルにした「大根の葉」を書き、これが翌年、「文藝」に掲載され、文壇デビュー。

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『大根の葉』1946(昭和21)年10月、新興出版社版

 作品は好評を博し、順調に作家としての階段をのぼってゆく。昭和16(1941)年には、二人の妹の残る生家の暮らしを描いた「暦」で、新潮文芸賞を受賞。賞金1000円を得る。

 戦中は、原稿の注文に応じ、当局の目をうまくかわしたり、時には戦意高揚に迎合した作品を発表し続けた。

 戦後は、夫と共に、共産主義陣営に属しながら、一般文壇で活躍。
 1952年~54年「二十四の瞳」の爆発的ヒットで国民的作家に。
 1967(昭和42)年、持病の悪化で病没。67歳。

■ 鷺只雄先生による研究調査
 
 以上、壺井栄の略歴は、従来、栄自身がエッセイなどに書いたものをもとに記されてきたが、これについて、都留文科大学の元教授、鷺只雄先生が30年近い(1985~2012年)研究を通して精査し、栄が語ってきた物語とは、少しずつ事実が違うことを明らかにした。
 鷺先生は、栄の生年から(従来は明治33年生まれとされてきた)生家や引っ越し先の所在地、所有者、兄の学籍、栄の勤め先、父の納税額の推移などを丁寧に調べ、また、郷土史家、往事の栄の知己たちのつてを得て、栄が友達に送ったハガキなどに遭遇。父の商売はなんとかうまくいっていて、栄の給料で家計がまかなわれていた、と言うほどではなさそうなことや、栄がそんなにクソ真面目な優等生ではなくて、恋もちゃんとしていた、そんな青春の一幕も明らかにされている。

壺井栄の青春劇東京新聞19920903

東京新聞1992年9月3日 鷺只雄「壺井栄の"青春劇"」
栄の文学友達だった黒島伝治は、
栄の友と恋に落ち、栄が仲介役を務めていた


 だが、もっとも大きな発見は、小豆島で当時発行されていた同人誌、その同人であった「栄の一歩先を行く」友人あてのはがきを見つけ、栄が自身で韜晦していたように「私は文学少女ではなかった。小説を書いたのは、稲子さんがおだてるから書いてみただけ」などというのが決して本当ではなかったことを明らかにしたことだろう。
 栄の胸には、早くから文学への思いがあり、昭和13(1938)年、デビュー作「大根の葉」を8回の改稿のうえ発表したときの、彼女のいわば「絶体絶命の存在の危機」*2)状況を、鷺先生は深いまなざしで考察しておられる。
 鷺只雄先生の研究の集大成『評伝 壺井栄』(翰林書房、2012年)をぜひ(高いので図書館に買ってもらって)お読みいただきたい。次から次へと資料が出てきて、事実が明らかになってゆく調査の記録は、ミステリのように面白い。
 そしてまた、個人情報公開について厳しく規制されるようになった今後を思うと、この研究は「なんとか間に合った」貴重なものだということを、しみじみ実感する。

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(その4)へつづく→

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