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関係の最適解

配慮の厚塗り

 配慮って「のり」みたいなもの。相手に気づかれない程度に薄く塗るのがちょうどいい。貼り合わせるときにのりを薄く塗った方がうまくくっつくのと同様に。厚塗りしてはうまく貼り合わせられない。
 過剰な配慮は、相手に「あっ今気を遣われてるんだな」とより一層罪悪感を植え付ける。配慮の厚塗りは、一見相手の心情を汲み取って擁護しているようだが、実態は相手により罪悪感を植え付けるだけの自己満足に終わる。
 目的が相手から罪悪感をとることなら、配慮は薄く気づかれない程度に塗るのがいい。先々の関係を大切にしたいと思うなら、薄いのりが必要だと私は思う。これまでの「紙」とこれからの「紙」を貼り合わせるために。過去どんなことがあったとしても、未来にどんなことがあるとしても、それを貼り合わせられる瞬間は現在しかない。

和敬清寂

 和敬清寂。茶道の心得を標語で、千利休が茶道の心を四つの漢字で表した四規七則。意味は「互いに心を開いて、敬い合い、常に清らかに何があっても動じない心をもつ」。個人的には、あらゆる人間関係の理想形であり、目指すべき境地だと考えている。座右の銘にするか悩みどころだ。
 「和」とは、強い個性が混在一体となって融合することを意味する。これは、自己の個性が確立されており、尚且つそれが十分に発揮されているという状態を前提に成り立つ。強い個性と強い個性が対立あるいは衝突することなく、混ざりあり融合することが理想的。
 イメージとしては「ゴマあえ」が非常に的を得ている。ゴマがゴマらしく、ほうれん草がほうれん草らしくないとおいしいゴマあえにはならない。互いが独特の風味をもち、一方だけでは魅力は薄いものの、2つが合わさることで魅力が倍増し、おいしくなる。つまり、それぞれがそれぞれらしくあることが重要であり、ゴマがほうれん草らしくしたり、ほうれん草がゴマに遠慮するようでは美味しくない。
 一方、「敬」とは、序列や社会的役割をしっかりと守った状態のことであり、節度ある関係性のこと。茶室では、主人と客人の関係性のことを指す。先生と生徒、上司と部下、親と子供など、互いに同じところはあっても立場の違いを明確に認識して分別し、線引きするということだ。序列や社会的役割を無視した対話は、関係を悪化させるにとどまらず、無秩序な精神までもを生み出しかねないのではないか。
 よって、和敬は「和」による融合の概念と「敬」による区別という2つの対立する概念を、どうバランスよく扱うかに焦点があたり、これが人間関係が難しい要因でもあると感じる。
 清と寂については省略するが、「静寂」ではなく「清寂」であるという点にだけ注意すれば、自ずと見えてくるものがあるのではないかと私は思う。

「理解できないものは理解できない」の壁

 本気で全力で心からふざけてるときが1番自分らしい瞬間なのかもしれない。友人の写真フォルダーには生き生きとした自分が多くいる。
 ただそのせいで、たまに真面目な話とか価値観の話とかをすると「え、あんなふざけた感じなのになんか違和感あるし、なんやこいつ」という雰囲気をひしひしと感じる。
 ふざけてる瞬間は本当に楽しいし、それを許してくれる友人には感謝しかない。けどいざ悩みや本音を話すと、大概は理解されない、あるいは拒絶されるような雰囲気を感じる。それは悩みや本音というもの自体が価値観や考え方、ものの見方に直結していて、多くの人は触れられたくないものと感じる場合が多いからだと思う。

 「俺ら仲良しだよね!」と上手くいっている関係も大切だと思う。けど、自分的にはもっと深い部分ー信念や価値観ーまでお互い理解を深めていけるような関係を目指したいと思ってしまう。そう思うくらい彼らのことが好きだし、少しでも彼らの良き理解者でありたい思うんだけど、多分それは誰も求めていない、自分自身のエゴの押し付けなのかもしれない。
 ノリのいい面白い人という印象がつきすぎて、真面目な話をする人ではないと思われてる節がある気がする。それを少し寂しく感じるときもある。
 でも、それはきっと彼らが精神的に「大人」だからなのかもしれない。「ここまでは理解できるけど、ここからは理解できない」という境界がはっきりとしていて、理解できない部分は弾き出すのだろう。イメージとしては職場の人間関係が近いと思う。仕事に関わる部分は真摯に向き合うけど、プライベートには深入りしすぎず距離を保つ。お互い理解できる部分とできない部分は明確で、理解できない部分は「見なかったことにする」か「跳ね除ける」。まさに節度のある関係だ。知らなくてもいいことを知らない、適度な距離感を保つことで円滑になる。
 ただ私はどちらかというと、理解できない部分があったとしても、それは相手がどんなものの見方、どんな考え方をしてるかを知らないからで、その視野角が分かれば理解できるはず、という立場をとる。だから、例えあることが理解できなくても、その奥にあるその人自身のものの見方を知ることで、その考えに至った理由や状況がわかると考えている。だからこそ、理解できないものは理解できないと跳ね除けるスタンスは個人的に違和感があるし、そのスタンスをされると、自分は「寂しい」と感じてしまうのかもしれない。それは自分にとって彼らがすごく大切で、大切だからこそ相互理解し合いたいということの裏返しでもある。
 
 自分のスタンスが間違ってるとは思わないし、そのスタンスに自信もある。けど、理解できないものは理解できないというスタンスを寂しく感じてしまうのは、ある意味で私自身の価値観の押し付けなのかもしれない。表面的にだけ受け入れることも大切だし、それも配慮のうちののかもしれない。 
 だからこそ、理解できないものは理解できないというスタンスも「理解」できるようになりたいと思う。

 一方で、あえて理解しないということこそが、相手への敬意なのかもしれない。「寂しい」と感じるその冷たさが、「敬」の現れなのかもしれない。「和敬」。このジレンマにつくづく頭を抱える今日この頃でした。


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