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トレヴェニアン研究 〜資料編4〜

作家のトレヴェニアンことロッド・ウィテカーは、1960年代から80年代の始めにかけて、数年の休みを挟みつつ、大学の教員をしていました。当時の教え子が、ネット上で彼について語っているのをいくつか見つけました。日本語訳で紹介します。


テキサス大学オースティン校

 詳細は今となっては少し曖昧だ。

 私は教員室を訪問するような人間ではなかった。かなりシャイだったから。大学院のラジオ・テレビ・映画学科の主任から、映画担当のウィテカーを訪ねるように言われた。

 入学者は爆発的に増え、キャンパスは周辺の住宅地にまで膨張していた。校舎にあったオフィスは取り払われ、ウィテカーのオフィスは、その場しのぎで改造された集合住宅の中にあった。テキサスの太陽がまぶしかった。ドアはたぶん、赤だった。私はチャイムを鳴らした。彼は入るよう言った。

 中は暗かった。お香の匂いがした。目が慣れてきた。彼は枕に座って、漆塗りの座卓に向かっていた。キモノを着ていたかもしれないが、よく覚えてない。彼は鋳物の急須で緑茶を淹れてくれた。ステレオからは日本の弦楽器が流れていた。大学教授としては、これこそだな、と私は思った。

 彼は細身で、日焼けしていた。40歳かそれより少し上。大抵はタバコの煙を纏っていた。ボガードやベルモンドのようにタバコの才能があった。少し気取っていて自惚れ屋だったが、彼を知るにつれそれも許せるようになった。キャンパスで一番面白い男だったから。クラスの女子は公然と彼の追っかけをしていたが、私が知る限り、彼は妻に忠実だった。彼はチューダー様式の天井の巨大な居間のついた20世紀初頭の風変わりな家に妻と住んでいた。オースティンのどこでどうやってこんな魔法の品を見つけたのだろうか?

 私たちは何度も長話をした。ある時、私の誕生日だと聞きつけた彼は、私と他の数人をビールに誘ってくれた。それは正午のことだったが、他の学生たちは黒人地区のイースト・オースティン——そこでは誰もが彼を知っていた——でバーからバーへとはしごするうちに次々脱落し、私は夜明け頃に家に帰った。

 私たちは歴史に始まり空想に至るまで、なんでも語り合った。エディット・ピアフ、オスカー・ワイルド、ガートルード・スタイン、テネシー・ウィリアムズ、ジョセフィン・ベイカー、宗教の教義と演技の技術について。彼がカナダでどう育ったか。サーカスに加わり、世界中を飛び回り、クリスタルのような瞬間を過ごし、山に登り、夜明けの波打ち際でバイクに乗り、人生を変えるような決断を簡単に下してきたこと。そしてもう、教えることには飽きたと言った。金を稼いで、南フランスに住みたいと言うのだ。どうやって? 彼は、スパイ小説が一大現象だと言った。ジェームズ・ボンドだとかル・カレだとか。僕にもできる、と言って、主人公のアイデアについて話してくれた。

 そのすぐ後に大学院生の徴兵猶予が廃止され、テト攻勢の補充兵が必要とされたが、難聴のために軍は私を不合格にした。ウィテカーと再会することはなかった。私は彼の本を見つけた。エディット・ピアフの墓で彼のことを思い出した。今は夏にプロヴァンスに滞在することがあるので、彼がそのあたりに住んでいるのではないかと考えることがある。彼と話したい。
>>By Tx68   (Saturday, 13 Dec 2003 04:05)

出典:https://www.gnooks.com/discussion/trevanian__2.html

 1968年まで大学院にいた人のようです。『シブミ』の作家は、自分のオフィスを日本風にしつらえて学生を驚かしていたらしい。枕に座っていたというのは座布団のことでしょう。女子学生の人気を集めているのは『アイガー・サンクション』の主人公ヘムロック教授そのままという感じです。サーカスというのは別のインタビューで移動遊園地 (traveling  carnival) と言っていたものでしょうか。自分の話になるとどこまで本当かわからないことを言うのは毎度のことです。『アイガー』の刊行は1972年ですが、遅くとも1968年には執筆を考えていたこと、スパイ小説を書く目的が金を稼いで南仏へ移住することであったことがわかります。それだけということもないのでしょうが。

ノース・イースト・ロンドン・ポリテクニック

 私は数人の学生とともに、ロッド・ウィテカー博士が現れるのを教室で待っていた。彼は20分ほど遅れてやってきたが、三揃のスーツを着てとても颯爽としていた。彼は40歳前後で、スリムで日焼けしていた。ジーンズにアフガンコートと無精髭の講師陣やトロツキストの学生たちに比べると、場違いと言っても過言ではなかった。

 彼の冒頭のセリフはすぐに私たちの注意を引いた。「すまない、遅れた。クリント・イーストウッドと電話で話していた」 聞き違いか? いや、そうではない。ウィテカー博士はテキサス大学オースティン校スクール・オブ・コミュニケーションのラジオ・テレビ・映画学科で教えていたらしかった。そして、彼が書いた大ヒットスリラー小説『アイガー・サンクション』をクリント・イーストウッドに売ったこともわかった。クリント・イーストウッドの大ファンである私は、彼の初めての本が国際的なベストセラーとなり、しかもそれがあのクリント・イーストウッドによって映画化されるという話にすっかり魅了された。

 彼はなぜスリラーを書くことにしたのかを私たちに説明し始めた。彼はバカなスパイ小説やジェームズ・ボンドの映画が嫌いで、そのジャンルを風刺しようと決めた。彼の本は皮肉を込めて書かれており、主人公を「ジョナサン・ヘムロック博士」と名付けたり、登場人物に「ジェマイマ・ブラウン」や「フェリシティ・アース(発音は arse、つまりケツ)」という名前を付けたりすれば、出版社がそれに気づくかと思ったそうだ。しかし、誰もそれを見抜かず、原稿に本当に関心が寄せられていることに気づいて、もっとマジメな作品に書き直し始めた。すぐに成功を収めたが、表紙の偽名に人々は戸惑い、作家の正体についてファンの間で様々な陰謀論や神話が生まれた。彼は「トレヴェニアン」という名前で執筆し、本名を秘密にするために多大な努力を払ったが、バーキングでは私たちにそれをあっさりと教えてくれた。おそらく彼は、私たちが辺鄙な場所に住んでいて、地元を離れて秘密を暴露することはないと考えたのだろう。

 ウィテカーはさまざまなジャンルで執筆し、5つの異なる名前を使っていた。ベストセラー作家として成功を収めたにもかかわらず、彼は自分の正体が明らかになるようなインタビューや出版社の宣伝を避けていた。時には、ただ楽しむために、代役を立ててインタビューに応じさせたこともあった。彼がCIAで仕事をしていたという噂があった。それが本当かどうかは知らないが、彼が朝鮮戦争中にアメリカ海軍に従軍していたことは事実だ。ただ、彼は「サンクション(制裁)」という言葉を「暗殺」の意味で使うことに対する異議があったという話をしてくれた。彼はCIAの誰かにそのことを確認しており、その言葉が実際に使われていることを知っているのに、それが疑問視されていることに驚いていた。

 1979年、彼はニューヨーク・タイムズ・ブック・レビューのインタビューで、自分の正体と様々なペンネームを公に明かした。そして、トレヴァニアンが実はスリラー作家のロバート・ラドラムであるという長年の噂を否定した。しかし、読者が気づいていなかったかもしれないのは、彼が選んだペンネームが彼にとってまるで性格俳優のようなものであったということだ。彼は、その本を書くために適切な人格を創り出すことで、その物語を語ることができると感じていたのだ。彼の執筆講座は時には型破りで、メソッド演技の練習に脱線することも時折あったが、それでも彼は私たちに短編小説を書かせることができた。そしてある晩、私は自分の短編小説をクラスで朗読したのだが、驚いたことに、周りの女子のみんながそれを気に入ってくれた。私の執筆への熱意に火がついたのは、その時だった。

出典:https://web.archive.org/web/20201128235159/http://www.tomclaver.co.uk/author/4589565294

 イギリスのジャーナリストで映画や小説も発表しているトム・クレイヴァーという方です。ロンドンのバーキングという地区にあったノース・イースト・ロンドン・ポリテクニックという(今はイースト・ロンドン大学になっている)学校で、創作 (creative writing) の指導を受けたそうです。これはトレヴェニアンがフルブライト助成金でイギリスに滞在していた1973年頃のことでしょう。「ジョナサン・ヘムロック」や「ジェマイマ・ブラウン」という名前がどういう洒落なのかは、残念ながらわかりません。代役を立ててインタビューに応じさせた、というのもいつのことかよくわかりません。

バックネル大学

 1977年の学部の学期中、ロッド・ウィテカーと一緒に過ごす機会に恵まれた。「メディア批評」というタイトルの上級セミナーだった。その時、彼は『シブミ』を執筆中(か仕上げ中)だったが、それを知ったのは後のことだ。彼はどんな名前であれ「商業的」なフィクションを書いたことを決して認めなかったが、私たちはかなり早い段階でそれを見抜いていた。

 学部長が、このニューカマーのことを私に教えてくれて、そのコースを取るように勧めてくれた。「興味深い男だよ」としか学部長は言わなかった。ウィテカーは、オフィススペースと大学施設の使用と引き換えに、1つか2つのコースを教えると申し出たようだ。彼はとても素晴らしい学歴を持っていた。この男がトレヴェニアンであることをその時は確信してなかったかもしれないが、後にそうなった。

 『シブミ』は1979年頃に出版されたのだが、その本を読んだとき、この本の中に出てくることのなんと多くが以前に聞いたことがあることかと信じられなかった。授業で使ったノートを引っ張り出すと、そこには小説にあったストーリー、単語、フレーズ、登場人物、そのすべてがあった。実際、「シブミ」というそれまで聞いたことのない概念についての注釈が1ページにわたって書かれていた。

 「本当の」トレヴェニアンは、あなたが彼の小説を読んで思う通りの、実に学識があり、博学で、愉快で、ある意味では奇妙な人物だ。授業中、彼のウィットは非常に早く、こちらが最初のパンチラインを理解している間に、もう2つ目や3つ目を繰り出していることがよくあった。しかし、彼は教師として非常に挑戦的でもあり、私がこれまでに出会ったどの教授よりもはるかに洗練された知的平面上で活動していた。

 彼は月に1、2度クラスを自宅に招き、さまざまなテーマについて長時間ディスカッションを行った(彼はまた、時折、大学関係者や一般市民を対象に、学術的な話題についてゲスト講義を行った。——他の誰かではなく、ロッド・ウィテカーとして接する限り、彼はとても親切だった)。彼の印象的なジョージ朝様式の家の応接間ではワインとチーズが振る舞われ(彼の妻は一流の芸術家である)、私たちはウィテカーの 「無作法で輝かしい 」物語に魅了された。

 彼が望めば、計り知れないほど冷たい態度で臨むことができるのは明らかだったが、私やそのクラスの生徒全員にとって、彼は非常に忍耐強く、協力的で、優しい先生だった。それに、これほどカリスマのある人に会ったことがない。

 しかし、この男の詳細を明らかにすることにあまり執着しない方がいいと思う。彼は非常に、非常にプライベートな人物で(不思議なことに、彼の娘が自分の名前で作品を出版しているのを見かけるが)、フランスに永住して久しい。彼は第一級の文芸職人だ。他にもあるがとりわけ、修行を積んだ俳優でもある。彼はキャラクターを作るのが好きで、見せかけや策略、ミスディレクションの領域を扱うのが好きだ。彼は、小説の中で人が感じる雰囲気を「創り出す」ことに懸命に取り組んでいる。でも、もしロッド・ウィテカーがどんな人物なのかを垣間見たいなら、『ホット・ナイト・イン・ザ・シティ』に収録されている短編小説『ミセス・マクギヴニーのニッケル』を読んでみて欲しい。彼自身に迫る内容だ。
>>By Ashford   (Thursday, 2 Oct 2003 22:57)

出典:https://www.gnooks.com/discussion/trevanian__2.html

 ウィテカーが1977年から78年にかけて講師をしていたバックネル大学の学生だと思いますが、同じ頃に1学期だけいたペンシルバニア州立大学の学生かもしれない。「無作法で輝かしい」物語というのは、ニコラス・シアー名義で発表した小説『Rude Tales and Glorious』を踏まえた言い回し。

愛されたカリスマ教師

 教え子によるトレヴェニアンの思い出話を三つご紹介しました。二つ目はなかなか貴重ではないかと思います。元のサイトが閉鎖されていて、今から  Trevanian や Rod Whitaker で検索しても見つからないので。
 大学教員としてのトレヴェニアンは、非常に知的で謎めいて面白い人物だったようです。悪評というのは見当たりません。博士号を得てテキサスに来て2年後には教師に飽きたと言ってますが、その後もいたって誠実に仕事をしているように見えます。オフィスを日本風にしたり、クリント・イーストウッドと電話していて遅刻したと言って学生を驚かしたりするのは、演劇出身らしい自己演出だなと思います。
 作品と一致する作家と言えそうですが、『サンクション』シリーズや『シブミ』の主人公に比べると、もっと温かみのある人物という印象を受けました。
 教え子のによる回想は、探せばまだあると思います。興味深いものが見つかったら、また取り上げようと思います。

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