見出し画像

選ぶということは、選ばないこと

当たり前なことだけれど、生きていれば毎日が選択の連続で、Aを選ぶということはBを選ばないことを選択しています。

私は、自分の直感を信じきれず......というより、感覚や感情を信用仕切れないので、決断がぐずぐずしがちです。

これは何も考えないでブルドーザーのように進んでいた若い頃の反省がまだ終わっていないということかもしれません。

今は、何を選んでも自分で責任が取れるのだし、自分で決めたことはそれでいいのに、なぜかぐずぐずしてしまいます。

きっと「損したくない」のでしょうね。

頭で損か得か、こうなったらああなって、こうなった場合こうなって、ああでもないこうでもないと考えているうちに、初めに戻っていることも。

論理的な最適解の出し方は、学びました。

折衷させたり、場合分けをしたり。

これはビジネスでは有効です。でも生き方となると話は別です。

自分の感情や感覚に従って生きることは、損得ではなく、幸せを選び切れるかどうかということ。

自分にとっての幸せってなんだっけ?

もう、そんなことさえわからなくなっています。(笑)

わたしはどんなことに、時間を忘れて没頭したり、時が止まっているように感じたり、ああ素敵だな素晴らしいなと思っていたのだろうか。

たいてい思い出すシーンは、いろんな街で出会った人の喜怒哀楽やその後ろに見えた風景や温度や音です。

お腹を抱えて、なぜか笑が止まらなかったこと空気がキラキラしていたこと。人間の体から強い光が出ていたこと。口からモクモク黒い煙が出ていて、息を止めたこと。

人の怒りや困惑や、悲しみでさえ、強く私を力付けてくれていたのを思い出します。

わたしにとっての幸せというのは、そういうことだったのです。

なのに、全く別の方向ばかりを見て、ないものねだりをしてきました。

人と競って、もっているかもっていないか、というようなことから離れないと、自分の感覚を大切にすることから、どんどん遠ざかっていくようです。

わたしが大切にしていたものは、もうすでに生まれたときからずっと持っていいたことを、ふと昨日気がつきました。

青い鳥を探しに、そんなに遠くにいかなくてもよかったのだけど、行ってみないとわからなかったのだからしょうがないです。

ということで、

あすは、体の感覚や感情を確認するための、クラニオボディセラピーにいくことにしました。

逗子のアーユルヴェーダサロンにおもえば10ヶ月ぶりくらいにお邪魔します。

もう10ヶ月も経ってしまったのか。

時が過ぎるのは早いようで、遅くもあります。

3年前の出来事でさえも昨日のことのように感じるものと、大昔に色褪せてしまったこととがあるように、時間感覚というものも均等ではないようです。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?