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レイモンド・チャンドラー『ザ・ロング・グッドバイ』を英語で読もう ~ Chapter 1 ~


 物語は、レストラン<ダンサーズ>のテラスの前で、フィリップ・マーロウが、ロールズ・ロイス・シルバー・レイスの中で酔いつぶれているテリー・レノックスを見かけるという、この小説を象徴するようなシーンで幕を開ける。

 The first time I laid eyes on Terry Lennox he was drunk in a Rolls-Royce Silver Wraith outside the terrace of The Dancers.

 ロールズの隣には若い女性が乗っている。後に分かるレノックスが以前結婚していたシルヴィアだ。

 There was a girl beside him. Her hair was a lovely shade of dark red and she had a distant smile on her lips and over her shoulders she had a blue mink that almost made the Rolls-Royce look like just another automobile. It didn't quite. Nothing can.

 チャンドラーは、シルヴィアの纏うブル−・ミンクのことを、「ロールズ・ロイスがほとんど普通の車に見えてしまうような」という表現で一旦比喩し、さらに、「実際は本当ににそう見えたわけではない。ロールズ・ロイスをそんな風に見せられるもには何もない」という風に否定する。

 日本語にすると、どうしても解説風になってしまうが、原文はIt didn't quite. Nothing canと省略と畳み掛けるような短いセンテンスが醒めた余韻を残すような表現。ミンクとロールズをこんな風に比較することを思いつくのはチャンドラーしかいない。

 シルヴィアの冷たい視線を受けてもいっこうに頓着しない<ダンサーズ>の駐車係とそうした人物を雇っている店の雰囲気を表した文章。

 At The Dancers they get the sort of people that disillusion you about what a lot of golfing money can do for the personality.

 このgolfingというのが良く分からない。辞書では文字通りのゴルフに関連した意味しか出てこない。村上訳では「いくら金を積んでも」、清水訳では「金にものをいわせようとしても」と訳されている。当時、大金や高額な支出を指してこういう言い方があったのだろうか?

 レノックスの家からコンバーティブルを取ってきて海沿いをドライブしてモンテシートの友人のプールサイドのパーティーへ行こうと主張するシルヴィア。コンバーティブルは生活のための売ってしまったというレノックス。それを聞いたシルヴィアの態度はこう形容される。

 A slice of spumoni wouldn't have melted on her now.

 spumoniスプモニとは、複数のフレーバーのイタリアンジェラートのことだそうだ。イタリア移民が多いアメリカでも広く普及していたようで、ロス・アンジェルスあたりでもしゃれたアイスの代名詞だったのだろう。シルヴィア・レノックスとスプモニ。共にソフトで甘くてそして冷たい。もはやシルヴィアの方が数倍冷たいのだが。

 シルヴィアはレノックスを勝手にマーロウにまかせてロールズで走り去ってしまう。「こういうやり方もあるというわけだ」と白服(駐車係)に話しかけるマーロウ。

 "Well, that's one way of doing it," I told the white coat.
 "Sure,"he said cynically. "Why waste it on a lush? Them curves and all."

 白服の返事のWhy以下の短い文に四苦八苦する。

 Why waste it on a lush?とはWhy does she waste it on a lush?の略だろう。何となく意味はわかるが、この場合のitは性的な魅力という意味なのだろうか?それともwasteの漠然とした目的語なのだろうか?ちなみにlushとは酔っぱらいのこと。

 また、curvesとは女性の身体の曲線の意味だが、Them curvesのThemは一体なんのこと?なんでここに人称代名詞の目的格が来るの?ということになるのだが、調べてみるとる口語ではThemはよくThoseの代わりとして使われるとのこと、いやはや。and allは強調の意か。

 ここは村上訳ではこうなっている。

 「当然でさ」と彼はせせら笑った。「あれだけのそそる身体だもの、酔っぱらいの相手をしている暇はないやね」 

 なるほど。Themを「あれだけの」、and allを「だもの」と訳してニュアンスを伝えている。さすが。

 このThemをThoseの代わりに使う口語表現だが、白服は他にも2箇所で同じようにThemをThoseの代わりに使っている。さらにhimselfというべきところを、これまた口語ではありうるとされるhisselfと言っている。チャンドラーは意識的に白服にこういう言葉遣いをさせているのだ。それによって後述するテリー・レノクスの言葉遣いの特異さが際立つ仕掛けとなっている。

 マーロウは仕方なくレノックスを自宅に連れ帰る。

 I got the door unlocked and dragged him inside and spread him on the long couch, threw a rug over him and let him go back to sleep.

 酔っぱらいを担いでようやっと階段を登り(マーロウの住んでいる家は斜面地に建てられており、玄関まで長い階段を登る必要がある)、部屋のドアの鍵を開け、引きずり込むように家の中に入れ、カウチに全身を広げるように寝かせ、ラグを放るようにかけてやる。使役動詞と目的格のhimを連続させた表現に、ほとんどモノと化して、にっちもさっちもいかない寝込んだ酔っぱらいを扱う様子が目に浮かぶようだ。

 しばらくして目を覚ましたレノックスとのやりとり。レノックスの言葉づかいに注目。

"How come I'm here?" he asked, looking around.
"You squiffed out at The Dancers in a Rolls. Your girl friend ditched you."
"Quite," he said. "No doubt she was entirely justified."
"You English?"
"I've lived there. I wasn't born there. If I might call a taxi, I'll take myself off."
"You've got one waiting."

 No doubt she was entirely justifiedなどといわれたら、日本人でも思わずYou English?と聞いてしまうだろう。

 このほかにもレノックスは“Awfully sorry”だの”Thank you so very much”だの、いやに丁寧というか、くどいというか、そういう「英語」を話す人物として描かれている。

 レノックスは言葉遣いだけでなく、He's the politest drunk I ever metとマーロウが思わずつぶやくほど、すこぶる礼儀正しい酔っぱらいなのだ。 

 ロールズ・ロイスの中で酔い潰れ、女に見捨てられた英国英語を話す世界一礼儀正しい酔っぱらい。冒頭から物語への期待が否が応でも高まる謎めいたシチュエーションだ。マーロウも何故か気になって心をかける。

 マーロウはレノックを彼のアパートまで送っていく。レノックは黙り込んでいる。

 He hadn't mentioned the girl again, Also, he hadn't mentioned that he had no job and no prospects and that almost his last dollar had gone into paying the check at The Dancers for a bit of high class fluff that couldn't stick around long enough to make sure he didn't get tossed in the sneezer by some prowl car boys, or rolled by a tough hackie and dumped out in a vacant lot.

 ここのThe Dancers for以下の文章が極めて判りにくい。a bit of fluffとは口語で若い女や娘を指す、とリーダーズ英和辞典にはある。同様にsneezerはブタ箱、prowl carはパトカー、hackieはタクシー運転主を意味するスラング。こうした口語やスラングもさることながら、that couldn't stick around long enough to make sure いうところがどういう意味なのか分かるようで分からない。stick aroundは、あるところに留まる、そばで待つという意味の口語らしい。単語としての意味はそれなりに分かるこういう場合の方が意外にお手上げなのだ。

 2冊の翻訳本でもここのところは、「あやしげな高級酒」(清水訳)や「ちっとは箔がついた気持ち」(村上訳)などの表現が登場するなど、訳しあぐねている感が否めない。お手上げ状態でいたのだが、松原元信『3冊の「ロング・グッドバイ」を読む』(ソリックブックス)という本に見事な解答があったのだ。先達はあらまほしきものなり。アメリカ生まれの著者の友人が、こんな長い文章はいまどきはもうないねと笑いながら日本語にしてくれたものが以下。

 「お金を払ってもらっちゃったらそのあとは、彼がブタ箱に入れられようが路地裏に放り出されようがそんなことには一切構っちゃくれない娘っ子に、最後の現金をはたいてしまったことも口にしなかった」

 直訳すると、「彼がパトカーの警察のお兄ちゃん達にブタ箱にぶち込まれたり、あるいはヤクザなタクシーの運ちゃんにあり金を巻き上げられてその辺の空き地に放り出されたりしないようにと、酔っぱらってしまった相手と一緒につきあってあげるような気心など、はなから持ち合わせてはいない娘達に最後のなけなしの金を使ってしまった」という感じであろうか。60年後の今でも良くある話だ。

 マーロウはこれとは全く逆の行動をとる。正体をなくして厄介者扱いされている偶然見かけた酔っぱらいを家に泊め、コーヒーを振る舞い、アパートまで送ってやる。2章では文字通りパトカーの警官からも間一髪守ってやったりもするのだ。

 そしてマーロウはレノックスの殺伐としたアパートからの帰り道、感傷的な思いでこう独白する。

 I drove home chewing my lip. I'm supposed to be tough but there was something about the guy that got me. I didn't know what it was unless it was the white hair and the scarred face and the clear voice and the politeness. Maybe that was enough. There was no reason why I should ever see him again. He was just a lost dog, like the girl said.

 タフな装いの陰のナイーブなセンチメント。THE LONG GOOD-BYEに通奏するムードをよく表している締めくくりだ。there was something about the guy that got meのgotの使われ方は、意外にも「ぐっとくる」や「心を掴む」など、日本語と同じニュアンスを含んだ表現だ。清水訳では「彼はどこか私のこころをとらえるものがあった」と訳されている。

 見事な、そして完璧なと言ってしまいたくなるような出だしの一章だ。

To be continued.

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